言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第60話_風光を繋ぐ
 春分前日夕映え。鏡橋の展望櫓から見た港は、冬の青を脱ぎ、まだ春の緑に染まり切らない色で呼吸していた。ここでの目的は、旅立ちの宣言—“言い訳しない生き方”を町に残し、次の鏡を探す出発へ拍を渡すこと。いつ/夕映え、どこで/鏡橋展望櫓、誰が/結花・光・総登場人物、何を/宣言と結縄の儀と見送り、なぜ/見上げるものを増やし続けるため、どうやって/短い言葉と例え、そして「結縄」で。
 櫓には、これまでの仲間が次々と集まってくる。晃太は白砂の袋を肩に、さとみは鍵の雛型を布に包み、静は太鼓に薄い布を掛け、華は笛を口に当てず、空は新しい図面を丸めて脇に抱え、歩美は朱を小さな壺に沈めて持ってきた。沙耶香は槍を肩に、惇は影鍛冶の工具を布ごと抱え、貴之は読経の声を低く、エヴァンは旗を半分だけ掲げ、クリスタルは素足で板の温度を確かめる。
 結花は櫓の縁に立ち、胸の前で両手を重ねる。「—言い訳、しない」
 笑いは起きない。ここで笑うのは、今日ではない。彼女は続ける。「言い訳は、橋板の“間”を作るために使ってきた。いま、間はもう敷いた。そこに人が乗っている。だから、次は、言い訳を置いていく」

 光が隣で頷き、短い例えを置く。「舟は、川底を見ろ。波頭に目を奪われるな。—明日はもっと速い川を渡る」
 空が巻いた図面をひろげ、星図と海図と町図をひとつに重ねた「旅図」を示す。端に小さな図紋を沈め、「押さずに、沈めて約束する」と言う。歩美が朱を差し出すが、結花は首を振る。「今日は印を押さない。—押す前に、ためらう」
 ためらいは、次の旅の板。板の上で、わたしたちは落ちない。

櫓の床に、縄が置かれた。
 出立前、空は旅図の写しを二部用意し、ひとつを港役所に、もうひとつを商館に沈め印で預けた。写しの端には出発の刻が細く沈み、歩美が控に重ねて記す。残す図と持ち出す図—約束は二重に見える場所へ置くのが、湊桜の新しいやり方だ。
 残置の段取りも決まっていた。港は空と歩美が回し、塔の鍵はさとみと惇が交代で点検、医療は晃太、治安は沙耶香が“置く槍”で巡回、鐘と舞は静と華とクリスタルが“叩かない拍”で支える。出立の刻、氷川…て行う。片方が不在のときは、空・歩美・静の三名で代替承認—舞と記録と段取りで補う。飛脚線は昼と夜に一本ずつ、江都と湊桜を結ぶ。次に向かう星の目印は、旅図の端に小さく二つ並ぶ星—角ではなく、丸に見える夜を選ぶ、それだけだ。


結縄—皆の指で結び目を作り、次の旅人へ渡す昔のやり方。華が「三拍で、結ぶ・見せる・渡す」と唱え、子どもたちが最初に結ぶ。子どもの結びは固いが、解けやすい。固くて解けやすい結び目は、謝るための余白を残す。さとみが短い鍵の雛型を縄に通し、「怖さを設計に入れる」と笑う。惇がそれを裏から支え、「押さず、沈めて」通す。沈められた鍵は、怒らない。
 静は叩かない拍を櫓に巡らせ、貴之は読経で“送る拍”を低く敷く。拍が重なると、言葉は短くて足りる。

 群衆の端から、「行くのか」と声が上がる。結花は頷く。「行く。—けれど、見上げるものはここに残る」
 彼女は中央柱を振り返り、足もとに薄く撒かれた護摩の灰に目をやる。燃やした紙の灰は約束の古材。灰は地面を固め、次の板を支える。「見下ろす癖を、わたしたちは一つずつ捨てた。まだ残ってる。—だから、続ける」
 エヴァンが旗を降ろし、半分で止める。ためらいの印は、旅の印でもある。クリスタルは素足で櫓の板を踏み、華は笛を唇に当てず、肩で拍を送る。拍は耳よりも先に、体に入る。

 結花は短く宣言した。「言い訳、しないで、生きる」
 静が太鼓の縁を布越しに一度撫でる。音は出ない。出ないのに、港の喧騒が一段低くなる。低さは祝言の高さだ。祝うときに声を高くしない。首が折れない。
 光が最後の比喩を置く。「橋は、渡るためにある。—見上げるためにもある。見上げる首がある限り、町は折れない」

 結縄の端が、結花の手に戻ってくる。彼女はそれを腰に巻き、もう一端を光へ渡す。二人は櫓の階を降り、中央柱の根元に立つ。空が旅図を巻き、歩美が朱を収め、沙耶香が槍を肩から下ろし、惇が工具を包み、貴之が経を閉じ、晃太が白砂を括り、さとみが雛型を布で包み直し、華とクリスタルが肩で拍を送る。エヴァンは旗を胸に当てる。
 結花が最後に、港へ向けて頭を下げた。「遅れて来た町から、先に詫びる。—そして、次の橋へ」

拍手は短い。短い拍手は、足を軽くする。港の風は怒らず、柱は見下ろさず、潮は見上げる首の数だけなる。櫓を降り切ったとき、夕映えは薄闇に変わり始めていた。見上げるものは、首を折らぬ。見上げるものを増やす旅が、今日、ここからまた始まる。
 夜が落ち切る前、縄と小道具はそれぞれの持ち主に戻された。空は旅図を革筒に納め、歩美は朱壺に蓋を沈め、さとみは雛型を布で包み直し、惇は工具の柄を手の体温で温める。晃太は白砂の袋を肩に掛け直し、静は太鼓の布を整…の頃は、見えない決まりで揉めてばかりだった」と。今は違う。見える板、見える旗、見える印。見えるものが増えるほど、怒りは短くなる。短くなった怒りの隙間へ、人は働き手と笑い声を差し込む。その音が、港の新しい鼓動になっていく。