言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第6話_鬼灯を燈す
 初夏十三夜の夕刻、霊峰千蛇の山頂祠は、霧が乳白の薄膜のように地面と空の境を消し、鬼灯だけが星座のようにぽつりぽつりと灯っていた。いつ誰がここを祀り始め、どこからどんな願いが運び込まれて、なにがいまの静けさを支えているのか—それを確かめるために、結花と静と貴之は、湿った石段を登り切った。どう進めばよいかは、祠そのものが教えてくれる。結花はそう信じ、霊槌の柄を握り直す。

 杉の梢で鳥が一声啼き、霧の粒が一斉に震えた。祠の屋根は苔むして低く、梁の隙間からは古い息の出入りが聞こえる。静は面箱から白の小面を取り出し、袖に潜ませた。面の裏はまだ人肌の温度で、指先に吸いつく。「—始めます」静は面紐を結びながら、結花と貴之に視線だけを向けた。その目はいつも笑っているのに、舞の前だけは湖の底のような静けさになる。

 「ここは“言葉の倉”だ」と貴之は小声で言う。錫杖を立て、祠の柱に掌を当てる。「言えなかった悔い、泣き切れない涙、言い訳の残り火。人の口から漏れたものが、風の底で寝返りを打っている。だから、最初の一歩は—黙ることだ」

 結花は頷いた。黙ることは苦手だ。いつ、どこで、誰に、何をどう言えばいいか、先に考えてしまう癖がある。でも今日は、倉に入る客の作法に従う。「…黙るの、三拍だけ」心の中で期限を決め、息を三つ数える。

 静の足が、地に置かれた紙のように軽く動き始めた。右、左、右。面は口を閉じたまま、目だけが細く笑っている。足音は土に吸われ、吸われた分だけ祠の床が息を吐く。袖のひるがえりが鬼灯のゆらぎを誘い、そのゆらぎに誘われるように、床下から黒いものが上がってきた。最初は糸の太さ、帯の幅、そして浅い水たまりの影。

 結花は霊槌を抜き、刃の面で床板を軽く叩いた。こん、こん。音は霧に溶けて見えなくなるが、静の足拍と合わさって、目に見えない輪を描いていく。貴之は低く読経を始めた。文言は古いが、意味は明快だ。「ここを行き、ここを戻る。過ぎることなく、留まりすぎることなく」

 影は呼吸を覚えたように上下し、祠の中央にある古びた鏡台の跡へ集まっていく。結花の足首に霜のような冷気が触れた。港の桟橋、雨の茶屋、診療所の雨窓、鍛冶場の炉…鏡がある場所には、いつも同じ温度の谷間がある。そこへ、誰かの声が落ちてくる。—《たすけて》。

 「聞こえる?」結花は黙約の三拍を破って、囁いた。
 「聞こえる」貴之は頷く。「声は、向こうから来るだけじゃない。こちらの息にも混じる」
 「じゃあ、返事をする」結花は霊槌の柄を胸に寄せ、面の内側にいる静の耳元へだけ言葉を落とした。「道を、少し借りるね」

 静の舞が一段深くなる。袖が円を描き、脚が斜めに流れる。面の下の唇は動かないが、喉の奥で細く拍を刻んでいるのが、結花には判った。舞の円の中心を、貴之の読経が一本の糸のように貫く。結花はその糸の上を、霊槌の刃先で撫でた。刃は押すためではなく、戻る意思に肩を貸すためのもの。光がいつか比喩で言った言葉が、ここで役に立つ。

 影の面から、指先ほどの玻璃が顔を出した。青いような、白いような、海の底で月が割れたかけらの色。結花は息を噛み殺し、両膝を落として、布袋の上に誘い込む。触れない。押さえない。ただ、帰る先を用意する。

 欠片①が布の上に落ちた。落ちた瞬間、祠の床はほうっと安堵の息を吐き、鬼灯の火が一度だけ強くなった。静の舞は細身の弓をほどくように収束し、貴之の読経が締めの一行で山の背に吸い込まれた。風が変わった。霧は同じなのに、匂いが少しだけ甘くなる。

 「共振が効く」貴之は額の汗を拭い、面を外した静に頷いた。「舞と経で道が通る。君の槌は、その道に名前を付けただけ」
 「名前を付けるのは得意」結花は笑い、布袋を胸に抱えた。「でも、名前は約束。約束したら、守らなきゃ」

 その時、祠の奥の梁が軋んだ。人の気配ではない。山が、もうひとつの問いをぶら下げてくる。「ここで、君はなにを置いていく?」
 結花は迷わなかった。「—泣き言、一つ」
 貴之が目を細める。「泣かない作法を教えようか」
 「ううん、今日は泣く。泣き言は、倉に預けるのがいい」結花は布袋に耳を寄せ、欠片①の冷気を頬で確かめた。「期限を決める。重陽の節句まで。それまでに戻らなかったら、供出に回していいよ」
 静が面箱を閉じながら笑った。「供出は受けません。預けた涙は、使い道が決まるまで倉で眠っていてもらいましょう」

 下山の路は、霧が薄く、葉の裏に丸い露がいくつも残っていた。杉の幹に掌を当てると、樹皮はひんやりしていて、しかし奥では確かに熱が通っている。どこで何が待っているかは判らないが、待つものがいる—それだけで足は軽くなる。結花は布袋を抱いた腕に力を込め、ふと問いかける。「ねえ、祠ってどうして“言葉の倉”になるんだろ」
 「人が、“聞いてほしい”と願って来るからだ」貴之は杖先で小石をどけた。「聞き手が先にいる場所は、声が生まれやすい。港は“言葉の交差点”。ここは“言葉の寝床”」
 「寝かせた言葉は、美味しくなる?」
 「酒と同じだ」
 「じゃあ、私は辛口で」結花は舌を出し、霊槌で霧をちょんと押した。押した霧は形を失うが、指先には確かな手応えが残る。

 曲がり角で、結花は一度だけ布袋を開いた。欠片①は布の中で呼吸している。耳を澄ませると、あの声がもう一度だけ触れた—《…きて》。呼ぶ声の震えは、涙でも焦りでもなく、意志だった。誰かの、ただの一人の、しかし揺るぎない意志。
 「行くよ」結花は袋口を閉じ、結び目を固くした。「でも、順番は守る。助ける理由は、私が先に選ばれたから。私の順番」

 山腹で、鹿の影が霧の切れ間を横切った。静が足を止め、面の紐を解く。「—怖くは、ないですか」
 「怖いよ」結花はあっさり言う。「怖いけど、怖いって言えるのは、前に進む準備ができた合図」
 「言葉にして、倉に一度置くのですね」
 「そう。置きっぱなしにはしないけど」

 麓に降りるころ、霧は晴れ、千蛇の稜線の向こうに初夏の月が白く抜けていた。空の端から端まで、風がひとつ、伸びる。港で待つ仲間へ向かう足は、もう迷わなかった。祠の方角からは、もっと深いところで眠る言葉たちの寝返りの気配が、かすかに伝わってくる。きっと、また来ることになる。倉にはまだ、預けるものがある。

 山門の鳥居をくぐる直前、結花はふと立ち止まった。「貴之、もし—もしも私が、順番を間違えたら、どうする?」
 貴之は立ち尽くす霧を指で裂くように一筋動かし、笑った。「間違えた順番も、次の順番の材料にすればいい。修験道は、失敗を“次の段”の踏板にする術だ」
 「じゃあ、私は失敗の名付け親になる」
 「名付け親?」
 「うん。失敗に名前を付けて、呼びやすくして、みんなで笑って踏むの」
 静が振り返らずに言う。「それはきっと、祭りのはじまりの合図になります」

 麓の社の鈴が遠くで鳴った。港の方角では、潮の匂いが濃くなった。誰が待っているのか、どこで何が始まるのか、いつまでに何を終えるのか—全部は判らない。それでも結花は、はっきり言えた。「行こう。鏡が呼ぶうちは、行く」

石段を下り切る前、参道の片側にある小さな脇祠が、かすかに震えた。結花は足を止め、霊槌を柄で支えながら耳を澄ます。脇祠の奥、木賊で編んだ筵の陰から、もう一つの“欠片”が顔を出しているように見えた。色は先ほどとよく似ているが、呼吸の拍が違う。—早すぎる。こちらの焦りに合わせて鼓動を速めているみたいに。
 「偽物だ」静が面を外したまま、淡々と言った。「舞の拍に合っていない。拍は、心臓の言葉。山の拍と違うものは、外から連れてこられた」
 貴之が…。
 「誰かがここに来て、道を曲げようとしてる」結花は囁く。「山の拍より、人の焦りを信じさせるために」
 「信じない」静は短く言い、囮の欠片を袖で包んだ。「証拠として港に出すだけ」
 「うん。—山に嘘を置かないの、約束」

 参道の折れで、地元の小僧が木履を鳴らして駆け上がってきた。顔は真っ赤で、額には汗。「あの、さっき、商館の人らしい二人が…祠の裏で何かしてました!」
 「見た時間は?」結花が訊く。
 「夕六つを少し回った頃で、場所は奥の杉の根方、誰と誰かは…顔はよく…でも、背の高い異国の人と、町の職人風の人でした」
 「ありがとう。息を整えてから、水を飲んで。—走ってくれて助かった」
 小僧は照れて頷き、走り去る。貴之は眉を潜めた。「急いで下りるか」
 「いいえ、急がない」結花は首を振る。「急ぐと、嘘に合わせることになる。私たちの拍で行く」
 光がいたら、きっとこう言う。「急ぎたくなる時ほど、比喩を言うんだ」と。結花は微笑んで、歩幅を大きくした。急がないが、止まらない。

山門が見え始めたとき、空の色が一段と薄くなった。霧の切れ間で、星が三つ、四つ、顔を出す。風が乾き、湿り気が喉から離れる。港の匂いが戻ってきた。帆の音、縄の軋み、遠いところで木槌のリズム。
 「戻ったら、誰に何をどう話すか、決めておこう」結花は言う。「誰が味方で、誰が敵か、じゃなくて。誰がどの拍に乗って動いてるか」
 「拍?」静が首を傾げる。
 「うん。空は計画の拍、華は観客の拍、晃太は診療所の拍、さとみは火の拍、勇気は賭場の拍、エヴァン…う。言い訳は、拍を合わせるための言葉。自分の心拍と、相手の心拍、山の心拍…全部ずれてるとき、言い訳で一度“間”を作るの。間ができれば、次の一歩が同じ床板を踏める」
 「面白い考えだ」貴之は頷く。「修験の“間”と似ている」

 鳥居の前で、結花はもう一度だけ振り返った。祠は霧の奥に沈み、鬼灯の火は遠くで星座になっている。そこから、確かに微かな拍が届いた。もうひとつ、欠片が呼んでいる。たぶん別の山、別の水。列島に連なる鏡の節のひとつひとつが、互いの息を探っている。
 「待たせない」結花は小さく言い、霊槌の柄を肩に担いだ。「でも、焦らない」

 麓の社で、宿直の神職が灯を足しながら声をかけた。「上はどうでした?」
 「山の倉に、少し預け物を」結花は笑って返す。「それから—悪い薬の匂いも」
 神職は顔をしかめ、頷いた。「港へ伝えましょう。あの手合いは、山を畏れませんから」
 「畏れないものは、道に迷いやすい」貴之が言う。「迷い人が出ぬよう、明かりを増やしておいてください」
 「心得ました」

 社を出ると、道は港へ向かって真っ直ぐ降りていく。街の灯が、霞んだ金の糸のように連なっている。結花は肩の力を抜き、深く息を吸った。欠片①は、まだ布の中で冷たく、しかし確かな拍で呼吸している。その呼吸に、歩みを合わせる。拍がそろえば、道は自然と伸びる。
 「さあ、帰ろう。港は忙しくなる。—橋を掛ける準備で」

 結花はふと足を止め、夜空を仰ぐ。雲間から覗いた月は、鏡の面のように平らで、そこに自分の輪郭が薄く映る気がした。—《たすけて》は、向こうからの声。しかし、同時にこちらからの呼び声でもある。助けると決めた自分に、遅れずついていくための、内側の合図。彼女は小さくうなずき、歩幅をひとつだけ広げた。