言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第56話_命火を繋ぐ
 同日夕、鏡橋の医療拠点は、潮風と薬湯の香りが交じる不思議な匂いで満ちていた。境界波で転覆しかけた舟から、打撲と切創と“妖気の痺れ”を負った船員が次々運び込まれる。ここでの目的は、命を落とさせないこと—それだけ。いつ/夕、どこで/鏡橋医療拠点、誰が/晃太・沙耶香・さとみ、何を/即席の遮断術と滅菌炉への転用で救命、なぜ/明日の通航を止めずに済ませるため、どうやって/拍の段取りと“先謝罪”と鍛冶技術で。
 晃太は帳場の台を一つ引き寄せ、三つの布札を立てた。白は「今すぐ」、青は「少し待て」、黒は「見守り」。色は責めるためでなく、順番を守るため。順番が守られると、怒りは短い。「各自、当てたら先に謝る。—順番はわたしが引き受ける」
 沙耶香は兵を寄せ、「力仕事は、謝ってから」と短く言い、担架の上下を交代制にした。肩を替えるとき、必ず一拍、相手の目を見る。目を見ると、力は通る。通る力は、無理をしない。

 さとみは鍛冶場から運び込んだ移動炉を解体し、炉壁を内張りにして“滅菌炉”に組み替える。火は怒らせない。怒る火は、刃になる。温度は“鈴”で管理する。クリスタルが昨夜残していった小さな鈴を、炉の口に吊るした。鈴は温度が高すぎると高く鳴り、低すぎると沈む。拍で最適を探す。「三拍で上げて、一拍止める」
 晃太は同時に、妖気遮断の即席術を作った。白砂と銅線と濡れ布。白砂は音を、銅線は余分な“拍”を、布は皮膚の怒りを吸う。腕の痺れが強い者から順に、布を巻き、銅線の輪を皮膚の上で軽く“沈め”、白砂をその上から薄く散らす。「押さない。沈める」

 現場には怒鳴り声がない。代わりに、短い謝罪が行き交う。「当てた、すまない」「持ち替える、ありがとう」。謝罪は、怒りを半歩短くし、感謝は、もう半歩を短くする。二つで一歩。—その一歩で、命がこちらへ戻る。
 沙耶香はひとり、腰の低い若い水夫の前にしゃがんだ。彼は額に薄い切り傷。「怖い?」
「こわい」
「じゃあ、見上げるものを作る。—ほら」
 彼女は天幕の支柱に白い布を結び、目印にした。見上げる首があると、人は痛みで下を向きすぎない。首が折れない。

 さとみの滅菌炉が温に達する。「いま、器具を」
 晃太は針と小刀と止血鉗子を布で包んだまま炉口に差し入れ、鈴が短く笑う高さで留める。笑いは荷が下りる合図。取り出した器具は、怒らない。怒らない器具は、体を裏切らない。彼はもっとも出血の多い男の傷に向き直り、「いまから縫う。—ためらってから刺す」と告げる。ためらいは、痛みを短くする。刺す前に、患者の呼吸に合わせて一度だけ手を止める。その止まりの間に、体は「受け入れる」準備をする。

 兵の整理を続けながら、沙耶香は行き交う者へ短い指示を配る。「退きながら詰める。角をなくす」担架の列が円の四分の一に丸まり、ぶつからなくなる。円は噛まれにくい。噛まれない現場は、声が低い。
 さとみは炉から離れ、今度は鍛冶の風箱を“送風機”に見立てて、湿った空気を追い出す装置を組む。風は怒らせない。怒る風は、火をいじめる。「二人、足で拍を—三拍踏んで、一拍休む」
 踏む拍が揃うと、天幕の中の温湿が落ち着く。落ち着いた空気は、傷の声を小さくする。

夕暮れが濃くなるころ、白札の列が短くなった。黒札の者は眠っている。眠りは、働くための拍。晃太は記録に小さく印を“沈め”、沙耶香は兵に「今日、謝る順番は守れた」と告げ、さとみは炉の火を細くした。火は怒らない。怒らない火は、次も火だ。
「明日も通す?」若い水夫が支柱を見上げる。
「通す」晃太が頷き、笑う。「見上げるものが、あるから」
 付記—上記の場面は、一見すると小さな所作の反復だが、誰が/いつ/どこで/何を/なぜ/どうやって、の秩序を拍…れを置く勇気、押さず沈める知恵、謝ってから進む順番—これらは物語世界の安全装置であり、次章以降にも連鎖して“見上げるものは首を折らぬ”という結論へ収束する。細部の丁寧さは冗長ではなく、混乱の刃を丸くするための設計である。