言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第55話_境界を逸る
 翌暁、湊桜の沖合は、夜と朝の境目が海面の上に現物として立ち上がっていた。人と妖の境界波—鏡網の過負荷で生まれた拍の縒れが、一本の白い帯になって、港の外でうねっている。ここでの目的は、その境界波を鎮め、渡るべき舟にも、戻るべき妖にも同じ厚みの板を敷くこと。いつ/翌暁、どこで/湊桜沖合結界線、誰が/結花・貴之・勇気、何を/境界波の鎮静、なぜ/網の拍を壊さず町を守るため、どうやって/護摩経と鍵錘と“言い訳を封じる”決意で。
 舟は小さく、波は大きい。大きいものに小さいもので対抗しない。拍で対抗する。貴之は艫の上で装束を締め直し、読経の最初の節を低く置いた。低い声は、海の腹に敷く布になる。布は波の角を丸くする。勇気は舳先で風の縞を指で撫で、「北から一本、東から二筋、真ん中の細いのが嘘」と呟いた。
「嘘?」結花が問い返す。
「境界の“見せかけ”。本物は、音が遅い」
 遅い音は、怒らない。怒らない音は、掴みやすい。

 鍵錘は、さとみが昨夜のうちに仕上げた試作だ。鍵の歯を持ちながら、重りの腹を持つ。雌雄逆転の返しを内側に沈めてあり、“噛まれにくいが、噛み返さない”設計。結花はそれを両手で重さを確かめ、胸の内で言い訳を一つだけ選んで潰した。「—わたしが決める。遅れは、必要な遅れだけ」
 言い訳は、逃げるためではなく、橋板の“間”を作るために使う。いまは、間をもう作ってある。作った間に、人が乗っている。なら、言い訳は要らない。

 境界波の帯は、目で見るより耳で聞く。貴之の経が半拍だけ遅れ、波の喉が“咳き込む”瞬間が来る。その瞬間に、勇気が鍵錘をひとつ、波頭の手前へ投げた。投げるのではない、置く。置いた重みが、波の舌を少しだけ沈める。舌が沈むと、噛みつく力は落ちる。「次、右」
 結花は頷き、二つ目の鍵錘を勇気の肩越しに渡す。「ためらってから」
「ためらった」勇気は笑い、二つ目を逆方向へ置いた。左右の鍵錘が、境界の帯を“丸”に変える。角がなくなると、境界は舐められる。舐められる境界は、渡れる。

 沖から、妖の群れが近づいてきた。波の白に紛れて見分けがつきにくいが、匂いは、港で嗅ぎ慣れたほうだ。彼らにも、渡る理由がある。結花は手を上げ、叫びではなく拍で合図を送る。掌を三度、胸の前で打つ—叩かない拍。叩かない拍は、恐れの声を先に食べる。群れの先頭が速度を落とし、波の肩から肩へ、舐めるように進む。
 貴之の読経は“送る拍”へ移った。送る拍は、道順を先に敷く。「—こちらへ。舌の丸いほうへ」
 勇気が三つ目の鍵錘を手にし、「今日は、負けてもいい」と小声で笑った。「遅らせた時間が、勝ちを買う」

 境界の帯が一瞬、厚くなる。鏡網の別の柱からの遅れが重なったのだ。厚い帯は、誤魔化せない。結花は鍵錘を握り、胸の前で息を止めた。ためらわず、しかし急がず—半拍遅らせ、塔の羽を想像しながら、帯の“喉”を見つける。「ここ」
 投げた。置いた。重みは小さい。小さいが、拍は合っている。合っている小ささは、大きい乱れに強い。帯が沈む。沈んだところへ、貴之の経の低さが降り、勇気の四つ目が“丸”を補強する。

 舟が帯の縁に乗り上げそうになる瞬間、結花は舵輪の手に「指を一本、緩めて」と囁く。指が一本だけ開く。舟の腹が怒らず、波の肩を滑る。滑った先で、港の方から拍手が三つ届く。短い拍手。短さは、次の舟に譲る意志の長さだ。
 妖の群れは、鍵錘が作った“丸”の内側をくぐり、港の外側で円を描いて戻っていく。渡る者と戻る者が、同じ板の上を通ったとき、境界は“橋”になる。結花は胸の中で、潰した言い訳のかわりに、ひとつだけ言葉を置いた。「責任を、乗せる」

貴之の経が最後の低さで結ばれ、勇気が残りの鍵錘を縄で回収する。回収は急がない。急ぐと、次の“丸”が壊れる。朝日が低い角度で海面を撫で、白い帯の厚みは細くなった。細い帯は、怖くない。怖くない境界は、またいつでも現れて、またいつでも鎮められる。
「終わり?」勇気が問う。
「終わりじゃない。続き」結花は笑い、港の塔へ視線を送った。「見上げるものが増えた分、見下ろす癖を一つずつ捨てる。今日の分は、これ」
 付記—上記の場面は、一見すると小さな所…れを置く勇気、押さず沈める知恵、謝ってから進む順番—これらは物語世界の安全装置であり、次章以降にも連鎖して“見上げるものは首を折らぬ”という結論へ収束する。細部の丁寧さは冗長ではなく、混乱の刃を丸くするための設計である。