言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第54話_星図を綴る
 立春前夜の江都天文台は、石の螺旋階段が空へ登る塔だった。灯りは最低限、窓は開け放ち、風と星だけが出入りする。目的は、鏡柱の座標を星図に落とし込み、航海の安全網を“空と海と町の拍”で一つにすること。いつ/立春前夜、どこで/天文台、誰が/空・エヴァン・華、何を/星図の編纂と誤差補正と市民への発表、なぜ/誰もが見上げて位置を知れるようにするため、どうやって/測量器と異国術と比喩の言葉で。
 観測室の中央に、古い黄銅の測角機が据えられている。異国で“セクスタント”と呼ばれる器も持ち込まれ、窓際では若い書役が星の名を書き起こしている。空はまず、紙ではなく空を見た。星図は、見上げる首の数で強くなる。紙に落とすのは、その次だ。
 空は手元の粗い地図に、湊桜、江都、氷川、千蛇の祠、東山伏流水路の位置を点で示し、細い線で結んだ。線は海を渡り、山を越え、鐘と鏡と水門を繋ぐ。「橋板を空に上げる」
「空へ?」エヴァンが首を傾げる。
「見上げられる板にするんだ。—船乗りは、頭上にあるものを信じる」

 エヴァンは頷き、セクスタントの鏡を拭ってから、星と地平の角度を測る。彼の手つきは軽い。軽いが、ためらいを忘れない。ためらいは、誤差の母だ。ためらいがあると、誤差は小さい。彼は英語で短く指示を出し、通詞が即座に訳す。若い書役が値を星図の余白に記し、華が横で“拍の言葉”へ訳していく。「波の肩がいまここ。—船は一拍あとにそこ」
 比喩は、数を怖がる者の盾だ。盾があると、数は刃にならない。

 問題は、風だった。塔の上を抜ける風が、測角機の脚を揺らす。揺れは誤差になる。誤差は争いになる。空は塔の床に白砂を薄く撒き、脚の下に“砂座”を敷いた。砂は音も揺れも食う。食われた揺れの間に、数値は落ち着く。
 さらに、空は図紋の小片を紙の端に沈めた。「ここで沈め印。—押すと紙が怒る」
 エヴァンが笑い、「グッド・ハビット」と親指を立てる。彼は異国の“レピーター”を塔の風向に合わせ、江都の風の癖を数字に変換した。数字は冷たいが、拍に乗せれば温かい。華が市民に向けて話す練習を始める。「星は、みんなの頭上にある税関。見せる税。—怒りは短くなる」

 星図が形を取り始めると、空は“見上げる地図”としての読み方を決めた。「この星とこの星の間を結んだら、次の柱が正面に来る。夜、橋を渡るとき、見上げた二つの星が“角”じゃなく“丸”に見えたら、拍が合ってる印」
「丸?」
「角は噛まれやすい。丸は舐められる」
 華が笑い、言葉を舞台用に磨く。「角をなくす—退きながら詰める」

 市民への発表は、塔の下の広場で行う。空は大きな星図を張り出し、位置を示す星印に薄い油を塗る。油は怒らない。怒らない油は、夜に光る。エヴァンは星を見る“癖”を三つだけ教える。ひとつ、首を折らない角度で見る。ふたつ、ためらってから指差す。みっつ、見えないときは隣の人の視線を借りる。
 華は最後に、光の比喩を借りた。「橋は海の上の道、星は空の上の道。道と道の交差に立つと、人は見下ろすことを忘れる。見上げるから」
 広場に短い拍手が起き、星図の前に子どもが集まる。子どもが先に覚えるものは、町の習慣になる。習慣は、刃を丸くする。

夜が深まるにつれ、塔の上の風はなり、星の数は増える。空は最後の補正値を紙に沈め、エヴァンは器具を仕舞い、華は星図に一礼した。「—見上げるものは、首を折らぬ」
 三人は塔を降りる前に、螺旋の踊り場で一度だけ“ためらい”を置いた。ためらいは、次の章のための板。板がある限り、橋は落ちない。江都の夜は、見上げる首の数で静けさを増していった。
 付記—上記の場面は、一見すると小さな所作の連なりだが、実際には誰が/いつ/どこで/何を/なぜ/どうやっ…潮と城と星のそれぞれに対して“見上げるものは首を折らぬ”という同じ結論へ収束する。細部の反復は退屈ではなく、退屈を怖れない態度こそが混乱の刃を丸くする。読者への覚え書きとして、わたしたちはこの態度を次章以降にも引き継ぐ。