言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第50話_贄火を熄す
 翌未明、伏流水路の祭壇跡には、古い焔の匂いが残っていた。石で組まれた円座の中央は黒く焦げ、周りには苔が薄い衣のように張りついている。そこへ静・華・クリスタルが到着した。目的は、鎮めの人柱を求める旧い儀式を否定し、拍と舞で“代わりの鎮め方”を町の目の前で示すこと。いつ/未明、どこで/祭壇跡、誰が/静・華・クリスタル、何を/旧儀の更新、なぜ/人を贄にせずに地を寝かせるため、どうやって/自由舞と素顔の歌と拍の設計で。
 祭壇の周囲には、旧い格式に心を預けてきた者たちが集まっていた。老人の目には安心が、若者の肩には反発が、子どもの足には恐れが乗っている。恐れは、拍を早める。早い拍は、刃になる。—だから、静はまず太鼓の面に布をかけた。
「今日は、叩かない拍を聴いてください」
 ざわめきが低くなる。布をかけた太鼓は鳴らない。鳴らないのに、場の底を整える。

 華は祭壇へ上がり、自由な装いの裾を軽く摘んだ。彼女は踊る前に笑う。笑いは、観客の肩を半寸落とす。「三拍で、見る、待つ、渡す」
「渡す?」と誰かが問う。
「恐れの続きを、隣に渡す」
 彼女は一歩目に腰を落とし、二歩目に肩を滑らせ、三歩目に振り返った。振り返るとき、観客の目は自分に戻る。戻った目には、自分の恐れが映る。映った恐れは、名を持つ。名を持った恐れは、板になる。

 クリスタルは仮面を付けず、声を出した。歌は言葉の外側にあり、拍の内側にある。彼女の声は高く始まり、低くなって、地へ沈んでいく。沈む声は、怒りを食べる。老人が杖を握り直し、若者が腕を組み替え、子どもが息を吐くのが遠くで見てとれる。
 静は太鼓の布越しに縁を撫で、叩かない拍を会場に巡らせる。「詫びる拍を先に。—この土地を怖がらせてきたのは、わたしたち」
 祭壇の周囲の空気が、目に見えないほど少しだけ低くなった。低くなった空気は、焔の名残を押し下げる。

 反対の声が飛ぶ。「人柱があったから、村は守られてきた!」
 静は頷き、否定を急がない。「その安心を、別の形に」
 華が踊りを止め、観客へ仮面を配る。半面—昨夜の仮面舞踏で使ったものだ。「三拍で、つける、見せる、外す」
 老人も若者も子どもも、三拍だけ自分の顔を見つめる。自分の顔を見ると、人は他人を見下ろさない。見下ろさなければ、誰も焔にくべられない。

 クリスタルは歌の調子を変える。今度は“送る拍”。彼女は声で、失われた者たちの名前を呼ばないまま、名前の器だけを並べる。器は、空だ。空は、拍で満たされる。静が布の太鼓に手を置き、祭壇の円に沿って歩く。円の外側の人々が、無意識に一歩、内へ寄る。寄る足は、祭壇を埋める板。板が敷かれれば、焔は上がらない。

 決定的だったのは、子どもの声だった。「急に止まると、こわくない」
 華が頷き、「その拍を、みんなで」と呼びかける。会場全体が三拍で止まり、息を吐き、視線を渡す。渡された視線は、刃ではない。橋だ。静は太鼓から手を離し、布を外さないまま、低く告げる。「—この土地に、贄は要らない」
 祭壇の中央の煤が、風もないのに崩れた。崩れた煤の隙間から、若い草が一本だけ顔を出す。クリスタルの声が細く笑い、華はと最後の礼をした。反対の声は消えたわけではない。けれど、強くはない。強くない声は、明日、拍に変えられる。

 式のあと、静は旧い祭主に近づき、深く頭を下げた。「長く守ってくださって、ありがとうございました」
 祭主は杖の先で土を軽く突き、乾いた音を一つ鳴らした。「次は、お前たちが叩け」
「叩かない太鼓で、叩きます」静は微笑んだ。夜明けが近づき、祭壇跡は焔の匂いではなく、湿った土の匂いで満ちていった。