言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第48話_誓紙を燃す
 三日後の宵、江都城評定所の広間は、畳一枚ずつが重たい決意を吸い込んでいた。障子の外では風が行灯を揺らし、紙の明かりが呼吸のように縮んだり膨らんだりしている。ここでの目的はただひとつ—鏡橋条約に諸侯と商人同盟を同席で署名させ、利権の綱引きを“視線の下”に移し替えること。いつ/宵、どこで/評定所、誰が/光・空・エヴァン、何を/条約締結、なぜ/鏡橋を国と町の共同資産にするため、どうやって/例え話と記録と護摩焚きで。
 座の上座に老中列、向かいに有力商人、脇に旗本の保守派、その後ろに各藩の目付。場が多いほど、拍は乱れる。光は最初に立ち、膝をついて深く頭を下げた。「—詫びる拍からはじめます。湊桜は遅れて来ました。遅れてきた者が先に詫び、次に橋の利を皆で分けます」
 笑いがうっすら広がり、場の角が丸くなる。光は例え話を置く。「橋は、海の上で板をつなぐ道具です。ですが橋が橋であるためには、見上げる首が折れない高さに通さねばならない。中央に柱を立て、視線を集めれば、危険は長居できない—税もまた、視線の下に置くのが利」

 条約草案を広げるのは空の役目だった。紙は三部、どれも端に細い図紋を沈めてある。押したのではなく沈めた印—ためらってから置いた証拠であり、逃げない宣言。「本条約の要は三つ。第一、鏡橋中央柱は神座にあらず、共同柱である。第二、通航管理は町奉行・船奉行・町年寄・商館代表の四会所で輪番し、押印は“沈め印”で相互確認。第三、租税は中央柱の周囲で可視化する」
 保守派のひとりが鼻を鳴らす。「可視化だと? 目に見えれば反発も目に見える」
「目に見える反発は、短い」光はやわらかく返した。「見えない反発は、長い。—首を折る」

 エヴァンが立ち、異国商館の代表として控えめに一礼する。「ウチラ、橋の利、欲しいデス。ただし、町こわす利は、要らないデス」片言の日本語が場の緊張を一度笑いへ変える。笑いは刃の油。彼は続けた。「視線の真ん中で、契約を結ぶ。見られて結ぶ契約は、破りにくい」
 空が帳面を掲げ、歩美から預かった「奉行所控」の写しを机へ滑らせる。料亭での潜入で集めた裏金の流れ—薄く沈めた印が、どの名とどの金が結んでいたかを示している。「紙は過去を語る。過去をそのまま未来へは連れて行かない。ここで燃やして、灰にして、土へ戻す」

 反対派が口々に「燃やす?」と目を剥いた。空は頷く。「護摩へ。誓紙も、裏の誓紙も、灰にして新しくする。—燃やす前に、読み上げます。読み上げは、詫びる拍」
 舞台は整った。静の代わりに、宮中雅楽の小編成が入る。太鼓は打たない。笙が空気の高さを、篳篥が場の幅を決める。光が草案の要点を短く、しかし誰にでも届く高さで繰り返す。言葉は刃ではない。橋板だ。

 読み上げののち、空が火床へ誓紙を運ぶ。火は怒らない。怒らない火は、粗暴な拍を食べ、静かな拍を残す。保守派の長が眉を吊り上げたが、光は先に頭を下げた。「申し訳ない。—いまから新しいほうへ乗り換える」
 老中の最年長が扇を閉じ、うなずく。「旧い紙に頼る者は、明日、紙に頼られる者になれぬ。燃せ」
 護摩木がひと束くべられ、誓紙は炎へ沈む。沈む火、沈む印。沈める所作が、場の呼吸を揃える。

 エヴァンは異国の証文を懐から出し、「わたしたちも、燃やす」と言った。商館の内規で利幅を隠す条項の写し。彼は自ら火にくべ、胸に手を当てる。「見上げる橋、約束する」
 場の背筋が同時に伸びた。空は新しい条約紙を中央に置き、朱肉の前に一拍の沈黙を用意する。「押す前に—」
「ためらう」歩美が入っていないのに、誰もがその言葉を覚えていたかのように復唱した。

 押印が順に進む。印は強く叩かれず、紙に沈んだ。光は最後に、短く例えを置く。「橋は、渡る道具です。燃やした紙は、橋板の古材。灰になっても、地面を固める」
 条約成立。雅楽が音を止め、護摩の火は小さくなっていく。空は灰を集め、器に納めた。「これは湊桜へ持ち帰る。中央柱の足もとに、薄く撒く」
 誰も反対しなかった。反対より、未来の段取りのほうが忙しい。広間の空気は軽くなり、江都の風が一度だけ廊下を抜けた。燃え尽きた紙の匂いは、なぜか新しい墨の匂いと似ていた。