第46話_梵鐘を招く
翌暁、氷川神社の鐘楼は、冬の空気を吸って澄んでいた。静・貴之・歩美の三人は、昨夜鎖した海門の呼吸が“町の拍”に馴染んだかを確かめるため、混成の梵鐘試験を行う。いつ/翌朝、どこで/氷川神社鐘楼、誰が/静・貴之・歩美、何を/共振試験、なぜ/鏡網の安定を確かめるため、どうやって/雅楽と読経と印の時刻記録で。
鐘楼の床板に、歩美は細い墨で十二の印点を打った。打つのではない、沈める。点は時刻で、拍の入り口と出口。「鐘は三回。太鼓は無し。笙は半拍遅れ」
静は太鼓を持ってきていない。今日の目的は、地を起こすことではなく、寝かせた地がよく眠れているかを聴くことだからだ。貴之は読経の前に一度だけ深呼吸し、涙の場所を確かめた。涙は今日、要らない。要らない涙を確かめる行為が、拍を整える。
第一打。貴之の読経が地へ降り、静の合図で鐘が深く鳴る。鳴りは長い。長いが、伸びすぎない。鐘の腹で生まれた波が、昨夜の海門へ向かって走るはずだ。歩美が墨点の一番に朱を沈め、時刻を記す。「返りは—」
鐘の縁が、笑った。笑うとは、荷を下ろした音だ。静は笙の奏者に目で合図し、半拍遅れで空の音を重ねる。遅れは、橋板の間。間に、返ってきた波が静まる。
第二打。今度は、鐘の口の方角を江都の水門の方向へ向ける。鐘に方向があると、初めて知る者もいる。音は球ではない。帯だ。帯を向けると、帯は細く強くなる。歩美が四番目に朱を沈め、目盛りの端に小さく「水門・静」と書く。返りは先ほどより短い。短い返りは、争いを短くする。
「いい」静が短く言う。
第三打は、試験。鐘の腹を半周、布で覆う。覆うと、鳴りは濁る。あえて濁らせ、濁りがどこへ吸われるかを見る。貴之が読経を少し高くし、濁りを抱く。静は笙を止め、境内の空気そのものを聴く。境内の杉が鳴った。木鳴りは、地鳴りの手前。「—吸ってる」
歩美は最後の朱を沈め、「地面、眠る」と記した。筆圧は弱い。弱い印は、あとで強く読める。強い印は、いま強いだけで、明日薄い。
試験のあと、静は鐘に両手を当てた。冷たい。冷たいものは、怒っていない。「よく眠ってる」
貴之は鐘楼から江都を見下ろす。見下ろすのではなく、見上げる練習をするために。「見上げるものが増えた」
「次は、見下ろそうとする牙を抜く番」歩美が帳面を閉じる。視線は水門の向こう、大火見櫓の方向を掠めた。夕方、そこに牙が現れると、紙はすでに知っている。紙は未来を見ない。拍が教える。
翌暁、氷川神社の鐘楼は、冬の空気を吸って澄んでいた。静・貴之・歩美の三人は、昨夜鎖した海門の呼吸が“町の拍”に馴染んだかを確かめるため、混成の梵鐘試験を行う。いつ/翌朝、どこで/氷川神社鐘楼、誰が/静・貴之・歩美、何を/共振試験、なぜ/鏡網の安定を確かめるため、どうやって/雅楽と読経と印の時刻記録で。
鐘楼の床板に、歩美は細い墨で十二の印点を打った。打つのではない、沈める。点は時刻で、拍の入り口と出口。「鐘は三回。太鼓は無し。笙は半拍遅れ」
静は太鼓を持ってきていない。今日の目的は、地を起こすことではなく、寝かせた地がよく眠れているかを聴くことだからだ。貴之は読経の前に一度だけ深呼吸し、涙の場所を確かめた。涙は今日、要らない。要らない涙を確かめる行為が、拍を整える。
第一打。貴之の読経が地へ降り、静の合図で鐘が深く鳴る。鳴りは長い。長いが、伸びすぎない。鐘の腹で生まれた波が、昨夜の海門へ向かって走るはずだ。歩美が墨点の一番に朱を沈め、時刻を記す。「返りは—」
鐘の縁が、笑った。笑うとは、荷を下ろした音だ。静は笙の奏者に目で合図し、半拍遅れで空の音を重ねる。遅れは、橋板の間。間に、返ってきた波が静まる。
第二打。今度は、鐘の口の方角を江都の水門の方向へ向ける。鐘に方向があると、初めて知る者もいる。音は球ではない。帯だ。帯を向けると、帯は細く強くなる。歩美が四番目に朱を沈め、目盛りの端に小さく「水門・静」と書く。返りは先ほどより短い。短い返りは、争いを短くする。
「いい」静が短く言う。
第三打は、試験。鐘の腹を半周、布で覆う。覆うと、鳴りは濁る。あえて濁らせ、濁りがどこへ吸われるかを見る。貴之が読経を少し高くし、濁りを抱く。静は笙を止め、境内の空気そのものを聴く。境内の杉が鳴った。木鳴りは、地鳴りの手前。「—吸ってる」
歩美は最後の朱を沈め、「地面、眠る」と記した。筆圧は弱い。弱い印は、あとで強く読める。強い印は、いま強いだけで、明日薄い。
試験のあと、静は鐘に両手を当てた。冷たい。冷たいものは、怒っていない。「よく眠ってる」
貴之は鐘楼から江都を見下ろす。見下ろすのではなく、見上げる練習をするために。「見上げるものが増えた」
「次は、見下ろそうとする牙を抜く番」歩美が帳面を閉じる。視線は水門の向こう、大火見櫓の方向を掠めた。夕方、そこに牙が現れると、紙はすでに知っている。紙は未来を見ない。拍が教える。


