言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第39話_刃影を逸らす
 翌未明、江都の裏長屋は、夜の名残と朝の始まりが重なる時間を抱えていた。瓦の隙間から細い風が入る。エヴァンは長屋の狭い廊下に立ち、躊躇した。彼の手には、結花たちへの連絡がいくつも書かれた紙。片方の足は前へ、もう片方は帰路へ。人の心は、異国でも同じだ。
 長屋の奥から、布の擦れる音。影が一つ、座敷の隅に座っていた。密偵だ。顔は若いが、目は古い。「今夜、あの娘を斬る」
 あの娘—結花。エヴァンの喉が乾く。彼は通詞の日本語で、言った。「やめてください」
 密偵は笑い、指先で短刀を回す。「命令だ。命令は、拍に従わない」
「拍に従わない命令も、ある」エヴァンは首を振る。「でも、人は、拍に従う」

 彼は紙を畳み、背を向けた。背を向けるのは、逃げるためではない。伝えるためだ。長屋を出たところで、華が待っていた。彼女は伝書鼠を肩に乗せ、息を整えている。「どこ?」
「水門の脇。—今夜」
 華は頷き、鼠の首に短い紙を結ぶ。鼠は闇に溶ける。彼女はエヴァンの顔を見て、笑わない笑顔で言った。「よく、背を向けた」
「臆病者だ」
「臆病者は、板を落とさない」

 長屋の屋根の上では、別の影が動いた。刃の音はしない。刃が音を出す必要はない。華は踵を返し、路地を抜ける。「光に、間に合うように」
 伝書鼠は、跳ねるように屋根から屋根へ渡り、水門前の小さな格子窓へ消えた。光は紙を受け取り、内容を一度だけ目で読み、燃やす。燃やす火は、怒っていない。火は、声の代わりだ。彼は兵の動きを変え、結花を水門から少し離れた小台の裏へ回した。「間合いは波。—波の外へ」

 その夜、江都の水門は、昼の名残りのざわめきを少し抱えていた。結花が小台に上がる前、光は例え話を短く置く。「舟は、横から来る波に弱い。—だから、今日は縦に並ぶ」
 結花は頷き、位置を半歩ずらす。半歩は、命を救う長さだ。静は太鼓を叩かない。代わりに、眼で拍を送る。送られた拍は、兵の足さばきへ入る。

 密偵は、水門の影から出た。動きは小さいのに、刃は広い。光は声を出さず、兵二人の肩に指を置いて角度を変える。角を丸くした隊列は、噛まれにくい。密偵の刃は、空を切り、石に当たり、音を飲み込んだ。
 華が影の上から布を落とす。布は白砂を含んでいる。白砂は、音を食う。刃の擦れが鈍くなり、密偵の視線が一瞬だけ下がる。その一瞬に、光が密偵の手首を取った。「申し訳ない」
 謝罪は、怒りを半歩短くする。短くなった怒りの間に、兵が刃を外へ払う。密偵は膝を落とし、息を吐く。吐いた息は、拍に変わる。拍に変わると、人は泣ける。彼は泣かなかったが、目を閉じた。

 エヴァンは物陰から出て、密偵を見下ろした。彼は日本語で、短く言う。「命令、変える」
 密偵は目を開け、笑った。「笑われるぞ」
「笑われてもいい」エヴァンは首を振る。「笑いは、刃を丸くする」
 光は兵に目配せし、密偵を丁重に引き渡す準備をさせた。歩美が記録の紙に小さな印を置く。押す前にためらい、押したあとに責任を引き受ける印。

 夜が明ける前、華は屋根の上で一度だけ息を大きく吐いた。「間に合った」
 エヴァンは頷き、胸の中で言い訳を一つだけ選んだ。「臆病だから、助かった」
 言い訳は、逃げるためではない。橋板の“間”を作るためだ。江都の空は薄くなり、最初の鳥の声が拍の最小単位になった。彼らはそれに歩を合わせ、次の段取りへ向かった。