言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第38話_札束を裂く
 同夜、江都城下の料亭の座敷は、金の匂いで息が重かった。座敷の奥では旗本の保守派が小声で語り、帳場の引き出しでは札が揺れる。ここでの目的は、鏡橋に反対する資金の流れを見つけ、証拠を確保すること。いつ/夜、どこで/料亭座敷、誰が/空と歩美と勇気、何を/資金流の実地把握、なぜ/承認を揺るがす裏金を断つため、どうやって/潜入と即興花札賭場で。
 空は中居に化けて座敷へ出入りし、湯のみの数と刺身皿の配置から、誰が財布を持っているかを割り出した。財布は座敷の中で移動する。移動の仕方で、流れが見える。歩美は障子の陰で帳面を膝に広げ、耳だけで数字を拾い、筆で「仮」の印を薄くつける。印は濃く押せば怒りを呼ぶ。薄くつけると、あとで濃くできる。
 勇気は座敷の手前で、即興の花札賭場を開いた。理由は単純—金を動かすなら、記録をこちらで作らせるのが早い。彼は笑いながら札を切り、「負けた札は帳面に」と軽く言った。勝ち負けの記録は、のちの証拠だ。

 最初の相手は、旗本の若侍。彼は勝っているときだけ声が大きい。負け始めると、声が細くなる。声が細くなると、財布を持っている者を探す目が動く。その目線を空が拾い、盆の上の盃の向きを変える。向きは矢印だ。矢印を追えば、金の道に行き当たる。
 歩美は帳面の端に、人名の代わりに印の形で人を記す。丸は笑う者、四角は黙る者、三角は嘘をつく者。印を重ねると、座敷の地図ができる。嘘をつく者の三角がひとつ、帳場に重なった。

 勇気はあえて負けた。負けると、相手は気前よくなる。気前のよさは、財布の紐を緩める。緩んだ隙に、勇気は札束の帯の端に目を走らせた。帯には小さく「船奉行脇方」と墨書きがある。役所の名が、料亭の札に。細い紐で繋がっているのだ。彼は知らないふりをして笑い、次の勝負を煽る。
 空は厨房を抜けて帳場の裏に回り、小窓から引き出しの底板を覗いた。底板の裏に、もう一枚の底板がある。二重底。二重底は、誰かが未来に怯えている証拠だ。怯える者は、印を押す前にためらわない。ためらわない者の印は、弱い。

 座敷の空気が熱を帯び始めた頃、勇気は花札のルールを一つ変えた。「次は、場札の合計が奇数なら、負けた方が『奉行所控』に名を書いて、寄進したことにする」
「なんだ、その妙な掟は」若侍が笑う。
「寄進は、面子が立つ」勇気は肩をすくめた。「酒の勢いで払った金が、明日の善行に変わる」
 若侍は笑い、周りの者も笑った。笑いの間に、歩美は帳面の別紙に「奉行所控」の欄を作る。空は帳場の女中に小声で頼み、控の紙を座敷へ運ばせた。酔いと勝負の勢いで、名は次々と埋まる。紙の端に、旗本保守派の筆跡が重なる。

 夜が更け、賭場の熱が最高潮に達する直前、空は席を立ち、帳場の裏から二重底の底板を外した。そこには、奉行所脇方の印の付いた金子の包みと、金の出入りを記した小さな帳があった。歩美が合流し、帳の写しを素早く取る。印はまだ押さない。押すのは、明日の朝、老中の前で。
 勇気が最後の勝負でわざと大負けし、「今日は負ける日」と笑って立つ。負けを先に言える者は、いつか勝つ。座敷の空気がゆるみ、札の音が小さくなる。空は帳場の女中に「今夜の分は、奉行所控で」と耳打ちした。女中が頷く。

 三人は料亭を出て、夜風に肩を冷やした。歩美は帳面を抱え、「明朝の押印は、ためらってから」と呟く。空は頷き、「ためらいが、印を強くする」と返した。勇気は扇子で汗を扇ぎ、「賭けに勝ったわけじゃない、遅らせた時間を買った」と笑った。夜空は低く、江都の灯が紙のように薄い。薄い紙は、明日の印で強くなる。