第36話_航路を急ぐ
その翌朝、外洋航路の小型蒸気船の汽笛が短く鳴った。湊桜の港を出て、江都へ向かう幕府の公用船に、結花と光は乗り込んだ。目的はひとつ—鏡橋の開港を報告し、中央柱の意義を江都に“見せる”こと。いつ/朝、どこで/外洋、誰が/結花と光と船員と異国水夫、何を/渡海、なぜ/承認と支援を得るため、どうやって/異国航海術を取り入れて時間を半減させる。
蒸気船は帆走とちがって、風を待たない。だが、潮と波の拍は待たねばならない。結花は甲板に出て、船首の左右で水の音を聴いた。右舷は短く、左舷は長い。「右は焦ってる。左は眠い」
「なら、眠い方に寄ろう」光が笑い、船長に伝える。船長は頷き、「風向羅針計」と呼ぶ真鍮の器を指差した。異国の水夫が器の針を軽く叩く。針は風の向きだけでなく、波の肩の角度を刻む。刻まれた角度は、人の時間を短くする。
「この道具、名前は?」
「ウィンド・レピーター」異国水夫が片言で答えた。繰り返す風、という意味らしい。風は繰り返す。だから、拍を作る。
結花は甲板の上に白砂を薄く撒き、波の跳ね返りで砂の筋がどう変わるかを見た。筋は、船の腹の“怖さ”を教える。「ここで、板を落としそうになる」
「落とさないために、指を一本、緩める」光は例え話を置く。「舵は強く握るほど曲がらない」
舵輪を握る水夫が指を一本、だけ開いた。船は横滑りして、次の波の肩に乗る。肩に乗ると、落ちない。落ちないと、速い。異国航法書を携えた若い通詞が、紙の上の線より早く現実が進むのに驚き、記録の欄に「拍」と書き足した。
昼前、沖合で靄に包まれた。視界が二間に狭まり、前を行くはずの漂流浮標が見えない。船長は汽笛を二度鳴らし、速度を落とす。落とした速度のなかで、結花は甲板中央に立ち、胸の前で両手を水平に保った。目を閉じると、鏡柱の羽の動きが浮かぶ。羽は板。板は、潮の肩を押すためにある。押しすぎると、怒る。怒らせないために、間を作る。
「いま、船は鏡の中にいるみたい」
「なら、鏡の外へ戻る間を作ろう」光が応じ、船長に短く伝える。「一度、右に三度、左に二度」
船体が三度右を向き、二度左へ戻る。小さな往復の拍が、靄の壁に細い裂け目を作った。裂け目から、浮標の影が現れる。水夫たちが声を上げる前に、光が言った。「拍は、霧より速い」
甲板の片隅では、異国水夫がロープワークを教えていた。結花は手を止め、結びを覚える。固く、しかし解けやすい結び。港で仮設欄干を継いだとき、空が使ったのと似ている。「結び目は、あとで謝るための余白」
「余白?」通詞が首を傾げる。
「強く結ぶと、あとで誰かを責めないと解けない。余白があれば、責めずに済む」
異国水夫は笑い、「グッド・ノット」と親指を立てた。
午後に入ると、海は広く、色が深くなった。空の線が低く見えるのは、速い証拠だ。船長が針路を少し北へ寄せると、結花は鼻で潮の匂いを嗅いだ。「潮が機嫌いい」
「機嫌の取り方は?」
「先にこちらの機嫌を決める」結花は笑い、舷側から海面を覗いた。「鏡も潮も、人が迷わないと、遅れて従う」
夕刻、江都湾の外縁に灯りが見えはじめる。予定の刻より、半刻以上早い。船長が目を見開き、異国水夫が帽子を放って喜んだ。光は甲板の皆に向かって声を張る。「今日の速さは、道具だけじゃない。新しい拍に乗ったからだ」
結花は頷き、胸の前で手を重ねた。「江都で、まず“詫びる拍”を置こう。—遅れてきた町の、早すぎた鏡のために」
汽笛が最後に一度、短く鳴った。海は、もう夜の色を始めていた。
その翌朝、外洋航路の小型蒸気船の汽笛が短く鳴った。湊桜の港を出て、江都へ向かう幕府の公用船に、結花と光は乗り込んだ。目的はひとつ—鏡橋の開港を報告し、中央柱の意義を江都に“見せる”こと。いつ/朝、どこで/外洋、誰が/結花と光と船員と異国水夫、何を/渡海、なぜ/承認と支援を得るため、どうやって/異国航海術を取り入れて時間を半減させる。
蒸気船は帆走とちがって、風を待たない。だが、潮と波の拍は待たねばならない。結花は甲板に出て、船首の左右で水の音を聴いた。右舷は短く、左舷は長い。「右は焦ってる。左は眠い」
「なら、眠い方に寄ろう」光が笑い、船長に伝える。船長は頷き、「風向羅針計」と呼ぶ真鍮の器を指差した。異国の水夫が器の針を軽く叩く。針は風の向きだけでなく、波の肩の角度を刻む。刻まれた角度は、人の時間を短くする。
「この道具、名前は?」
「ウィンド・レピーター」異国水夫が片言で答えた。繰り返す風、という意味らしい。風は繰り返す。だから、拍を作る。
結花は甲板の上に白砂を薄く撒き、波の跳ね返りで砂の筋がどう変わるかを見た。筋は、船の腹の“怖さ”を教える。「ここで、板を落としそうになる」
「落とさないために、指を一本、緩める」光は例え話を置く。「舵は強く握るほど曲がらない」
舵輪を握る水夫が指を一本、だけ開いた。船は横滑りして、次の波の肩に乗る。肩に乗ると、落ちない。落ちないと、速い。異国航法書を携えた若い通詞が、紙の上の線より早く現実が進むのに驚き、記録の欄に「拍」と書き足した。
昼前、沖合で靄に包まれた。視界が二間に狭まり、前を行くはずの漂流浮標が見えない。船長は汽笛を二度鳴らし、速度を落とす。落とした速度のなかで、結花は甲板中央に立ち、胸の前で両手を水平に保った。目を閉じると、鏡柱の羽の動きが浮かぶ。羽は板。板は、潮の肩を押すためにある。押しすぎると、怒る。怒らせないために、間を作る。
「いま、船は鏡の中にいるみたい」
「なら、鏡の外へ戻る間を作ろう」光が応じ、船長に短く伝える。「一度、右に三度、左に二度」
船体が三度右を向き、二度左へ戻る。小さな往復の拍が、靄の壁に細い裂け目を作った。裂け目から、浮標の影が現れる。水夫たちが声を上げる前に、光が言った。「拍は、霧より速い」
甲板の片隅では、異国水夫がロープワークを教えていた。結花は手を止め、結びを覚える。固く、しかし解けやすい結び。港で仮設欄干を継いだとき、空が使ったのと似ている。「結び目は、あとで謝るための余白」
「余白?」通詞が首を傾げる。
「強く結ぶと、あとで誰かを責めないと解けない。余白があれば、責めずに済む」
異国水夫は笑い、「グッド・ノット」と親指を立てた。
午後に入ると、海は広く、色が深くなった。空の線が低く見えるのは、速い証拠だ。船長が針路を少し北へ寄せると、結花は鼻で潮の匂いを嗅いだ。「潮が機嫌いい」
「機嫌の取り方は?」
「先にこちらの機嫌を決める」結花は笑い、舷側から海面を覗いた。「鏡も潮も、人が迷わないと、遅れて従う」
夕刻、江都湾の外縁に灯りが見えはじめる。予定の刻より、半刻以上早い。船長が目を見開き、異国水夫が帽子を放って喜んだ。光は甲板の皆に向かって声を張る。「今日の速さは、道具だけじゃない。新しい拍に乗ったからだ」
結花は頷き、胸の前で手を重ねた。「江都で、まず“詫びる拍”を置こう。—遅れてきた町の、早すぎた鏡のために」
汽笛が最後に一度、短く鳴った。海は、もう夜の色を始めていた。

