第35話_欄干を継ぐ
七日目の午後、鏡橋の欄干がひと片、潮の笑いに足を取られて落ちた。笑いといっても、潮は悪意を持たない。羽の影に、たまたま別の波の肩が滑り込んだだけだ。だが、欄干が欠ければ、人の心は欠ける。落ちた板が一枚でも、落ちた心は十枚分。目的はただ一つ—継ぐ。いつ/午後、どこで/鏡橋上、誰が/空と結花と華、何を/仮設材で補修し、人の流れを止めない、なぜ/橋は“見るため”でなく“渡るため”だから、どうやって/段取りと軽業で。
空は中央塔から走り出し、欠損部に膝をつく前に、目で寸法を測った。測る目は、金物より速い。彼は背負子から仮設の“猫板”を取り出し、欄干の歯欠けに舌のように差し込む。「まず、舐めさせる」
「舐めさせる?」と誰か。
「噛ませないために」空は短く答え、板の端を二本の楔で軽く止めた。軽く止めるのは、潮の呼吸と喧嘩しないためだ。強く打てば、潮も強く返す。
結花は人の列を見た。列は怖がって、細く固くなろうとしている。固い列は、折れる。折れた列は、その場で増える。だから、彼女は叫んだ。「失敗は、言い訳せず次を急げ!」
言い訳は、橋板の“間”を作るために使う。いま必要な“間”は、列の肩と肩の間だ。光の例え話が背中を押すように聞こえた気がしたが、彼はいま別の場所で別の列をさばいている。結花は投げ縄を掴み、華に合図した。「高いほう、行ける?」
「行ける」華は答え、縁日の綱渡りのように、欄干の残りかけの縁を二歩で抜けた。軽業は、危ないところで使うためにあるのではなく、危ないところを素早く安全に通過するためにある。彼女は猫板の先端に手をかけ、下から支えた。支えは、見えないほど強いほうがいい。
空は仮設の支柱を二本、橋の腹に差し込み、楔を一度だけ強く打った。音が橋全体に走り、中央塔の上でさとみが無意識に顔を上げる。金と霊の喧嘩は起きていない。起きる前に、“軽く止めて強く一打”が効いたのだ。彼は歩美に向けて手を開き、合図する。記録ではなく、現場の裁量で許可を—と。
歩美は遠くから頷き、印判を空へかざした。押す前にためらい、ためらってから、遠くの空へ印を押す仕草をする。それだけで、現場には「押してよい」という呼吸が入る。印は紙から離れても効く。
結花は列の先頭の子どもの肩に手を置いた。「怖い?」
「こわい」
「じゃあ、歌おう。三拍で、見て、笑って、渡る」
子どもは目を見開き、笑って、渡った。笑いは橋の材質を変える。硬い板を柔らかい板にし、柔らかい板を強い板にする。大人たちがそれを真似る。真似は、町の最も古い技術だ。
華は猫板の上で膝をつき、下から板を押さえ続ける。指が震える。震えは、落ちる前の合図ではない。拍が合っている合図だ。彼女は息を整え、空に問う。「次!」
「次は、欄干の上に“橋板の間”を作る」空は答え、板の間に白砂を薄く撒いた。砂は音を食べ、人の足の不安を食べ、潮の笑いを少しだけ遅らせる。遅れた笑いの間に、楔をもう一打。
仮設の欄干が立った。立ったが、仮だ。仮は、嘘ではない。仮は、明日の本物を待つ姿勢だ。
補修中に、港の端で小さな騒ぎが起きた。欄干の欠けを見た異国の男が、保険の話を持ち出して声を荒げる。空は走らない。走らない代わりに、視線を先に送った。視線は刃だ。刃を下げるには、鞘を見せる。「保険の話は、あとで机で。—今は、橋を守る話」
華が合図を送り、子どもたちが拍手を三つ。拍手は交渉の前に置く布。布があると、刃は滑る。男の肩が半分だけ下がった。空は短く「謝る」を入れた。「見せ方が悪かった。すぐ直す」
謝ったあとの言葉は、短くて済む。短い言葉は、遠くまで届く。
夕刻、仮設材は橋の呼吸に馴染んで、音を立てなくなった。欄干は継がれ、落ちた心も継がれた。結花は猫板を撫で、「ありがとう」と板に言った。板に礼を言う人は、次の板も落とさない。空は作業の終わりに、紙に小さく印を置き、華は指先の白砂を払い落とす。
「失敗は、言い訳せず次を急げ」結花がもう一度、繰り返した。失敗は、町の古い友だ。友と別れる方法は、急ぐこと。夜風が橋を渡り、湊桜はまたひとつ、明日に近づいた。
七日目の午後、鏡橋の欄干がひと片、潮の笑いに足を取られて落ちた。笑いといっても、潮は悪意を持たない。羽の影に、たまたま別の波の肩が滑り込んだだけだ。だが、欄干が欠ければ、人の心は欠ける。落ちた板が一枚でも、落ちた心は十枚分。目的はただ一つ—継ぐ。いつ/午後、どこで/鏡橋上、誰が/空と結花と華、何を/仮設材で補修し、人の流れを止めない、なぜ/橋は“見るため”でなく“渡るため”だから、どうやって/段取りと軽業で。
空は中央塔から走り出し、欠損部に膝をつく前に、目で寸法を測った。測る目は、金物より速い。彼は背負子から仮設の“猫板”を取り出し、欄干の歯欠けに舌のように差し込む。「まず、舐めさせる」
「舐めさせる?」と誰か。
「噛ませないために」空は短く答え、板の端を二本の楔で軽く止めた。軽く止めるのは、潮の呼吸と喧嘩しないためだ。強く打てば、潮も強く返す。
結花は人の列を見た。列は怖がって、細く固くなろうとしている。固い列は、折れる。折れた列は、その場で増える。だから、彼女は叫んだ。「失敗は、言い訳せず次を急げ!」
言い訳は、橋板の“間”を作るために使う。いま必要な“間”は、列の肩と肩の間だ。光の例え話が背中を押すように聞こえた気がしたが、彼はいま別の場所で別の列をさばいている。結花は投げ縄を掴み、華に合図した。「高いほう、行ける?」
「行ける」華は答え、縁日の綱渡りのように、欄干の残りかけの縁を二歩で抜けた。軽業は、危ないところで使うためにあるのではなく、危ないところを素早く安全に通過するためにある。彼女は猫板の先端に手をかけ、下から支えた。支えは、見えないほど強いほうがいい。
空は仮設の支柱を二本、橋の腹に差し込み、楔を一度だけ強く打った。音が橋全体に走り、中央塔の上でさとみが無意識に顔を上げる。金と霊の喧嘩は起きていない。起きる前に、“軽く止めて強く一打”が効いたのだ。彼は歩美に向けて手を開き、合図する。記録ではなく、現場の裁量で許可を—と。
歩美は遠くから頷き、印判を空へかざした。押す前にためらい、ためらってから、遠くの空へ印を押す仕草をする。それだけで、現場には「押してよい」という呼吸が入る。印は紙から離れても効く。
結花は列の先頭の子どもの肩に手を置いた。「怖い?」
「こわい」
「じゃあ、歌おう。三拍で、見て、笑って、渡る」
子どもは目を見開き、笑って、渡った。笑いは橋の材質を変える。硬い板を柔らかい板にし、柔らかい板を強い板にする。大人たちがそれを真似る。真似は、町の最も古い技術だ。
華は猫板の上で膝をつき、下から板を押さえ続ける。指が震える。震えは、落ちる前の合図ではない。拍が合っている合図だ。彼女は息を整え、空に問う。「次!」
「次は、欄干の上に“橋板の間”を作る」空は答え、板の間に白砂を薄く撒いた。砂は音を食べ、人の足の不安を食べ、潮の笑いを少しだけ遅らせる。遅れた笑いの間に、楔をもう一打。
仮設の欄干が立った。立ったが、仮だ。仮は、嘘ではない。仮は、明日の本物を待つ姿勢だ。
補修中に、港の端で小さな騒ぎが起きた。欄干の欠けを見た異国の男が、保険の話を持ち出して声を荒げる。空は走らない。走らない代わりに、視線を先に送った。視線は刃だ。刃を下げるには、鞘を見せる。「保険の話は、あとで机で。—今は、橋を守る話」
華が合図を送り、子どもたちが拍手を三つ。拍手は交渉の前に置く布。布があると、刃は滑る。男の肩が半分だけ下がった。空は短く「謝る」を入れた。「見せ方が悪かった。すぐ直す」
謝ったあとの言葉は、短くて済む。短い言葉は、遠くまで届く。
夕刻、仮設材は橋の呼吸に馴染んで、音を立てなくなった。欄干は継がれ、落ちた心も継がれた。結花は猫板を撫で、「ありがとう」と板に言った。板に礼を言う人は、次の板も落とさない。空は作業の終わりに、紙に小さく印を置き、華は指先の白砂を払い落とす。
「失敗は、言い訳せず次を急げ」結花がもう一度、繰り返した。失敗は、町の古い友だ。友と別れる方法は、急ぐこと。夜風が橋を渡り、湊桜はまたひとつ、明日に近づいた。

