言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第34話_隊列を立つ
 翌明け方、城郭練兵場に霧が薄く降りた。土の匂いは湿っているが、音は乾いている。ここでの目的は、町人義勇隊に槍の基本と「左利きの鏡妖」への対処を教えること。いつ/明け方、どこで/練兵場、誰が/沙耶香と光と義勇隊、何を/間合いと隊列を、なぜ/開港後の港を守るため、どうやって/例え話と稽古で。
 沙耶香は槍を一本、手にした。彼女の槍は武器である前に、拍の棒だ。拍を間違えれば、槍はただの棒になる。まずは整列。四列、間は一間。列が斜めになるのは、体が怖がっている証拠だ。怖さは稽古で正直に扱う。隠すと、刃の前で足がすべる。
「今日は、謝る順番から始める」
 義勇の若者たちが顔を見合わせる。沙耶香は淡々と続けた。「稽古で当てたら、謝る。謝ってから戻る。それで、敵の前でも順番を間違えない」

 基礎の一つ目は握り。右手は下、左手は上。だが、左利きの鏡妖は逆から入ってくる。逆に入る相手には、こちらの順番も逆になる。沙耶香は槍をくるりと回し、左手を下に移した。「逆を怖がるな。怖がると、足が止まる」
 光が横から口を挟む。「間合いは波だよ。押しすぎると砕けるし、引きすぎると攫われる。波の間に立つ練習をしよう」
 彼は足跡の砂に線を引き、前足と後足の距離を示した。線は川に似ている。川の幅を体で覚えると、流れが変わっても溺れにくい。「槍先は、波頭。柄は、川底。—波頭に目を奪われるな。川底を見ろ」

 次は隊列の回転。左利きの鏡妖は、右から来ると見せかけて左から噛む。噛まれたくなければ、列の角を丸くする。角がある隊列は、噛みやすい。丸い隊列は、舐められている間に拍が合う。沙耶香は四列を半歩ずらし、円の四分の一に形を変えた。「角をなくす」
 義勇のひとりが手を上げる。「逃げて見えませんか」
「逃げじゃない。退きながら詰める」沙耶香は槍の石突で地面を打った。「退くのは、逃げるためじゃない」

 実戦想定。木の面をかぶった訓練役が、左利きの動きで飛び込む。沙耶香は先頭の若者の槍の柄に軽く手を添え、押しすぎた力を抜いた。力は入れるより抜く方が難しい。抜けたところに、光が例え話を落とす。「舟の舵は、強く握るほど曲がらない。指を一本、緩める」
 若者の呼吸が一拍遅れ、槍先が相手の肩の上に降りる。突かない。置く。置いた槍先は、相手の進路を変え、隊列の丸みが相手の牙を舐めさせる。噛まれない。

 休憩に入る前、沙耶香は全員を集めた。「謝る」
 何に対して、と誰かが問う前に、彼女は続ける。「いままで、町に槍の構えだけ見せて、順番を教えなかったことに」
 義勇の面々は、頭を下げた。謝る順番が先に来ると、次の指示は短くて済む。短い指示は、恐怖より早く届く。

 後半は、隊列の“間”を教える。間は距離だけじゃない。言葉の間、視線の間、拍の間。光は例え話で、視線の間を示した。「敵を見るんじゃない、敵が見るはずの場所を見る。そこに板を置く」
 板とは、槍だ。槍を板にするには、力を通す芯が要る。芯は、謝ったあとでしか通らない。謝ると、手の中の固さが一度抜ける。その抜けたところに、芯が通る。沙耶香は最後の稽古で、わざと列の一角を崩し、若者たちに「自分で間を作れ」と告げた。若者たちは戸惑い、しかし互いの視線で距離を測り直し、円は自然に戻った。戻せた円は、崩されにくい。

 訓練の締めに、沙耶香は槍を立て、短く言った。「今日から、あなたたちは“謝れる槍”」
 笑いが起きた。笑いは、刃を丸くする。光が「間合いは波」と復唱し、若者たちがそれを口にする。口に出すと、体に入る。霧が晴れ、朝日が土の水分を少しずつ空へ返していく。練兵場の空気は乾き、音はよく響くようになった。