言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第33話_仮面を脱ぐ
 祭りの夜半、広場は灯りの数で昼を追い越し、音の数で静けさを守っていた。仮面舞踏の櫓の上には薄布が張られ、その下で人と妖の影が重なっては離れる。今日の主役は、仮面ではない。仮面を脱ぐ者だ。いつ/夜半、どこで/仮面舞踏の広場、誰が/クリスタルと結花と華と仮面師、何を/無個性の仮面を脱いで自分の名で踊る、なぜ/視線を真ん中に集め危険を切るため、どうやって/拍と拍手の共振で—。
 結花は櫓の端に立ち、灯りの火を三段の高さに並べた。低い火は子どもの背丈、中段は大人の胸、上段は祠の方角。三つの火は拍がずれている。ずれは、橋の“間”になる。間があれば、観客は勝手に埋める。埋める力は、危険より強い。
 華は舞台袖で仮面の籠を抱え、観客に半面を配って回る。「三拍で、つけて、見せて、外す」—昨日の練習を街ごとに広げる。外す拍が先に来ることもある。順番が多少入れ替わっても、拍が途切れなければ大丈夫だ。

 真ん中の拍を起こしたのは、クリスタルだった。彼女は今夜、仮面をつけない。異国の踊り手として雇われた名ではなく、子どものころから呼ばれてきた名を小さく胸に言って、裸足で板に立つ。その足裏は、湊桜の板にまだ慣れていない。だからこそ、視線は素直に集まる。視線が集まる場所は、危険が居心地悪い場所にもなる。
 ファーストステップは、沈黙。彼女は右の肩を半分落とし、左の手の甲で空を撫でる。音がないのに、観客は息を止める。止めた息の拍がそろったところに、クリスタルはひと打ち目を置く—足音ではない、目線の音だ。目が一斉に、中央に寄る。寄った視線が、広場の床を一段だけ低くする。低くなった床は、倒れた誰かを受け止めやすい。

 その時、櫓の影で、紙の粉をまだ目の縁に残した仮面師が膝をついた。彼の肩が上下し、息の拍が踊りの拍と逆になっていく。逆拍は、心を裂く。結花が駆け寄る前に、仮面師の持つ面が歪んだ。木目が蛇の舌のように揺れ、面の内側から薄黒い霧が漏れる。妖化だ。面に寄せた怨みが、踊りの拍に引かれて起き上がった。
 観客がざわめく。ざわめきは、拍より速い。結花は両手を上げ、声を投げる。「—拍手を」
 拍手は太鼓より軽い。軽い音は、濁った霧を割る。華が先に叩き、子どもが続き、大人が真似をする。拍手の粒が、霧の輪郭を崩す。クリスタルは踊りを止めない。止めない代わりに、高さだけを変えた。足を地から一寸だけ浮かせ、床と空の間で踊る。床と空の間は、霧が居座りにくい場所だ。

 仮面師は面を抱えたまま、息を粗くする。結花は隣に膝をつき、囁いた。「三拍で、つけて、見せて、外す。—いま、外す」
「外したら、なにも残らない」
「残るよ。素顔が」
「素顔は、怖い」
「怖いものは、拍にすると食べられる。みんなで食べる。—ほら」
 拍手の拍が、仮面師の鼓動に追いつく。追いついた拍は、心臓の内側から外へ出る。仮面師は両手で面の紐に指をかけ、三拍を数えた。つける、見せる、外す—ではなく、外す、見せる、つけない。最後の拍で、紐が床に落ちた。

 瞬間、霧が一度濃くなり、次に薄くなる。クリスタルが中央でトンと足を置いた。その一音に、広場の拍が吸い寄せられる。結花は面の内側に白砂を指先で散らし、音の擦れを食わせた。白砂は、怒りの舌を鈍らせる。面の木肌は、ただの木に戻る。
 仮面師の頬が露に濡れた。涙ではない。露は、夜が踊りに嫉妬して落とす水だ。彼は独りで立てない。結花は肩を貸す。弱い同士は、寄りかかると、まっすぐ歩ける。

 クリスタルは踊りを再開した。仮面のない顔で、名を名乗らず、しかし名を持った人の歩幅で。彼女の踊りは、観客の見ている方向を細く束ね、危険が潜む隙間を埋めていく。華は舞台端で拍子木を一度鳴らし、拍手のテンポを落とす。落ちたテンポは、人を泣かせない高さだ。
 広場の灯りが小さく揺れ、祠の方角の闇が薄くなる。面は布に包まれ、仮面師は息を整える。「売るの、やめるかも」
「やめたうえで、教えて」結花が答える。「三拍で、つけて、見せて、外す—の道場を」
 仮面師は、笑った。素顔で笑うと、人は鏡より早く光る。

 踊りの最後、クリスタルは足を止め、深く礼をした。彼女は雇われの舞踏教師ではなく、素顔の踊り手になっていた。観客の拍手は長く続かない。長く続く拍手は、翌日の足を疲れさせるからだ。短い拍手で十分だ。十分な拍手は、霧を残さない。
 結花は広場の端で灯りの芯を短く切り、籠を閉じた。華が肩を並べる。「仮面を脱いだら、寒くない?」
「踊りやすい」クリスタルは笑う。素顔は、視線の刃を怖がらせない。刃が怖がれば、誰も傷つかない。湊桜の夜は、拍手の余韻だけを残して、深くなっていった。