言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第32話_露店を紡ぐ
 初秋の黄昏、湊桜の城下大通りは、露店の骨組みが伸びたり縮んだりして、町そのものが深呼吸しているように見えた。鏡橋開通祭に向けて、人の流れを整えるのが今日の仕事。いつ/黄昏、どこで/大通り、誰が/静とエヴァン、何を/露店配置の再編と利益配分の調整、なぜ/混乱を防ぎ持続させるため、どうやって/拍と帳場と配当で。
 静は太鼓を携えず、紙と紐だけを持って現れた。拍は太鼓がなくても起こせる。彼女はまず、通りに白い紐を引いた。紐は、見えにくい柵だ。人は、見えにくい柵のほうが素直に曲がる。露店の主たちが、紐の内側に台を寄せる。寄せすぎると詰まる。詰まる直前で、静は掌を上げて止める。止めた理由を、太鼓の代わりに声で言う。「ここは、詫びる拍」
「詫びる?」飴屋の親父が眉を上げる。
「ここで立ち止まってくれた人に、先に『ありがとう』を言える場所」
 親父は笑って台を五寸下げた。五寸は、笑いの幅。笑いと五寸が重なれば、人はぶつからない。

 一方、通りの裏手でエヴァンは商人同盟の主たちを集め、板の上に小袋を並べていた。袋には紐がつき、色が違う。「今日は赤が『音の出る店』、青が『香りの出る店』、白が『座る店』。売り上げの一部を袋に入れ、日が暮れたら配分します」
「均等に?」誰かが問う。
「均等は不公平です」エヴァンはきっぱり言い、笑いで角を丸くした。「混む店は、通りを狭くする。狭くしたぶん、白に多めに回す。白は、座らせてくれる」
 彼は指で板を叩き、拍のように一定のテンポで袋の位置を直した。拍は、金にも効く。金が拍を持つと、人は怒らない。

 静は通りの中央に小さな空地を作った。踊りのためではない。詫びるための空地だ。祭りは祝うが、祝う前に詫びる。詫びる場所があると、喧嘩は長く続かない。「ここで迷惑をかけたと思ったら、拍を一つだけ打って、頭を下げる」
「太鼓がないのに?」
「掌で」
 掌で打つ拍は、音が小さい。小さい音は、自分にだけ届く。自分に届いた音は、あとで他人にも優しくなる。飴屋の親父が試しに掌で膝を叩き、「なるほど」と言った。

 日が傾くにつれて、人の流れが濃くなる。香りの線と音の点が重なる場所で、流れは渦を作る。静は渦の手前に立ち、手を上げて三つ数える。数える声は、太鼓の代わり。三つ数える間に、渦はほどける。エヴァンは裏手で袋に小銭が増えるのを確かめ、飴屋の親父の白い袋に一枚多く滑り込ませた。「座らせてくれたから」
 親父は驚き、帽子を取って頭を下げた。下げた頭は、次の人の肩に当たらない高さだ。

 夜のはじめ、クリスタルが踊り子たちと通りを横切った。彼女は仮面をつけず、素顔の拍を持って歩く。素顔は、視線を集める。視線が集まる場所では、危険は長居しない。エヴァンはその瞬間に袋の位置をさらに調整し、香りの線が音の点に飲まれないようにした。
 歩美が現れ、帳面に小さな印を置く。「配当の基準、これで良い?」
「良い」静は頷く。「拍の基準になっているから」
「拍の基準?」
「人の流れが詰まると、拍は速くなる。速くなりすぎたら、白へ」
 歩美は微笑み、印判の面を布で拭いた。ためらってから、次の印を押す。

 終盤、喧嘩の芽がひとつ出た。串焼きの煙が隣の布屋の反物に流れ、布屋が険しい顔をする。静は割って入り、掌を見せた。「ここで詫びる拍を一つ。あなたが先」
 布屋が掌で膝を叩き、「すまない」と言う。串焼きの男も真似をして、「悪かった」。二つの小さな音が、通りの上で重なる。重なった音は、風に紛れて消えた。残ったのは、焼けた香りと、布の模様。どちらも、祭りの一部だ。
 夜が深まるころ、エヴァンは袋を開け、配当を分けた。誰も損をしていないわけではない。けれど、損をしたと感じる者が少ない。少ない損は、明日への投資に変えられる。静が最後に小さく拍を打ち、「おつかれさま」と言った。大通りは、深呼吸を終え、静かな寝息に戻った。