言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第31話_火床を鍛つ
 三日後の早暁、霊峰の谷間から冷たい風が降りて、鍛冶場の火床に逆らうように吹いた。さとみはその風を嫌わない。火が風に負けないように、風の呼吸を火に混ぜる。今日の仕事は、増設用の鏡橋鍵を鍛造すること。いつ/早暁、どこで/山奥の鍛冶場、誰が/さとみと惇、何を/雌雄逆転設計の鍵を、なぜ/現場で迷わないため、どうやって/高温折り返し鍛錬で。
 結花が示した設計図は、雌雄の嵌合を逆転させ、左右どちらの手で持っても差し込める口を作るものだ。図の上では線が交差しているだけだが、鉄の上では、線は重さを持つ。重さは、間違いを許さない。だから、折り返して、叩いて、角を丸くして、許す形にする。
 惇が風箱を踏み、火が獣の背のようにうねる。さとみは赤から黄、黄から白へと移る色の境目で鉄を上げ、鉄の声を聞く。いい声は、怖い声だ。壊しそうで、手を離したくなる。離さない。そこから二度、折り返す。

 惇は大きな鎚を持つ。大きな鎚は、失敗を隠す力がある。隠す力に頼ると、隠し傷がいつか裂ける。だから、彼に渡す鎚は今日は一つ小さい。「怖いとき、左手から持つ癖がある」と彼は照れながら言い、さとみは笑った。
「だから、どちらでも入る形にする」
 鉄は板に近づき、板は鍵に近づく。鍵は橋の言葉だ。橋が嘘をつかないように、鍵の歯を一枚ずつ磨く。歯を磨くのは、未来のためだ。未来は、いつも未完成。未完成を怖がると、今日の音が濁る。

 さとみは折り返しの回数を増やしすぎない。回数は勇気に似ている。多ければ強いわけじゃない。適切なところで止めるのが、いちばん強い。彼女は鉄の鳴き声が高くなりすぎたところで一度止め、水に落とさず、空気の冷で寝かせる。寝かせた間に、惇が鋼の外周を砥ぐ。砥石の粉が白く舞う。粉は、怖さの証だ。怖さを隠さずに進むと、音は澄む。
 結花が道具を持って現れた。「見にきた。手を出さない」
「見て」さとみは言い、鍵の口の部分を示した。「ここ、左右どちらでも入る。けれど、抜けにくい」
「抜けにくい?」
「怖いとき、人は逆に引く。引いても抜けないように、返しを一本、内側へ」
 結花は頷き、「怖さを設計に入れる」と口にした。惇はその言葉を覚えるように、鎚の柄を一度握り直した。

 仕上げの段で、さとみは鍛冶場の外へ一歩出て、空を見た。空は今日、薄い。薄い空は、音を遠くへ運ぶ。運んだ音が戻ってくるまでに、鍵の歯をもう一枚、磨ける。「惇、貸して」
 惇が鎚を渡す。さとみは返しの角に指を当て、息を吐いて、一度だけ打った。音は低く、遠くへ走った。走った音が戻ってくるあいだに、彼女の心の拍は一拍、遅れた。遅れは、判断を落ち着かせる。
「できた」
 布をかけ、鍵は台の上で眠る。眠りは、働くために必要な時間。さとみは布の端を撫で、惇の肩を軽く叩いた。「いい音だった」
「怖かった」
「怖いのは、いい音の印」
 結花が鍵を受け取り、「未完成の匂いがする」と笑った。「この匂い、好き」
「仕上げは、現場で。音を聴きながら」さとみは言った。鍛冶場の火はなり、朝の鳥の声が遅れて届いた。