言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第30話_暗礁を掃う
 翌夜、外海の暗礁帯は、月のない闇に溶けていた。湊桜の港から小舟で半刻、そこは潮が互いにぶつかり、音だけが方向を持つ場所だ。ここでの目的は、貿易妨害を企む海賊船を無血で拿捕すること。いつ/夜、どこで/暗礁帯、誰が/勇気と沙耶香、何を/海賊船の足を止める、なぜ/開港を守るため、どうやって/晃太考案の薬湯煙幕で。
 勇気は舟のへさきにしゃがみ、手の甲で風の縞を撫でた。「南から二筋、北から一本。真ん中の細いのが、嘘」
「嘘?」と沙耶香。
「海賊がわざと作る波だよ。見張りの目をそこに集める」
 彼の直感は、賭場で培われたものだ。勝つために負ける筋を先に見つける。負けの筋の中に、たった一つの勝ちの穴がある。穴を見つけた者だけが、無血で勝てる。

 舟の底には、晃太が特製した薬湯の甕が三つ積んである。薬湯といっても飲むものではない。熱すると、潮に混じると、むせ返るような甘い匂いを出す。甘い匂いは、戦の拍を遅らせる。遅れた拍には、槍より早く謝罪が入る。
「合図を」沙耶香が囁く。槍を構えていない。構える前に、退路を作ってある。
「合図は、星が隠れたら」勇気は空を見上げる。「今」
 雲が一枚、月のない空を横切り、星がひとつ消えた。勇気は甕の蓋を開け、火の粉を落とす。白い煙が、海面を這って広がる。風の縞に沿って進むのではなく、縞を跨いで散るように、勇気は舟の向きを少しずつ変えた。

 海賊船の見張りが咳き込み、灯りが揺れる。灯りが揺れると、足が遅くなる。沙耶香はその瞬間を逃さず、小舟を海賊船の舷側へ寄せ、黒縄を投げた。縄は船腹の鋲に掛かり、音を立てない。彼女は引かない。引けば争いになる。引かず、繋ぐ。繋いだ先に、言葉を送る。
「申し訳ない。—あなたたちの舵、今だけ、預からせて」
 謝罪は、相手の怒りを半歩短くする。半歩短くなれば、別の拍が入る。勇気は二つ目の甕を開け、今度は暗礁の上に煙を送った。暗礁は目で見るより、鼻で知るほうが早い。甘い匂いが岩肌に当たり、戻ってくる。戻る匂いは、船の腹をふらつかせる。

 海賊の親玉らしき影が舷側に現れ、刀の柄に手をかけた。「誰だ」
 沙耶香は名乗らない。名乗れば、相手も名乗らねばならない。名乗りは、時間を短くする。「港の者。あなたの船を沈めに来たんじゃない。—帰ってほしいだけ」
「帰る?」
「明日、港は大潮。あなた方の得は薄い。いま引けば、損は小さい」
 勇気が薄く笑い、「今日は負ける日だって、風が言ってる」と足す。彼の言葉は、嘘ではない。風は本当にそう言っている。

 三つ目の甕を開けたとき、海賊船の灯りがさらに低くなり、舷側にいる者の咳が同じ拍で揃った。その拍の間(ま)に、沙耶香は縄に印を結ぶ。結び目は、あとからでも外しやすい形。外しやすい結びは、争いを長引かせない。
「—撤収だ」親玉の影が言い、刀から手を離した。「今日は、負ける」
 それは、勇気の賭場で一番強い言葉だ。負けを先に言える者は、いつか勝つ。沙耶香は短く頭を下げ、「感謝を」とだけ返した。謝罪の次に、感謝。順番は守る。

 海賊船が風下へ退く間、勇気は暗礁の縁を舟で掃いた。煙が薄くなったところには、白い泡が残る。泡は、明日まで残って、同じ場所に近づく者の足を遅くするだろう。無血の印は、派手さはないが、長く効く。
 戻り道、小舟の上で二人は黙った。沈黙は自慢より長持ちする。港が見えはじめたとき、勇気がぽつりと言った。「賭けに勝ったわけじゃない。勝ったのは、遅らせた時間」
「遅れは、板になる」沙耶香が答える。「明日の板が、今日、落ちないように」