第3話_雨窓の契り
翌朝、結花は町外れの診療所を訪れた。湿った木の匂いがする玄関をくぐると、診療台の上で晃太が包帯を巻き直していた。
「お、結花。港で騒ぎを起こしたって聞いたぞ」
「言い訳すると、妖の方が先に出てきたんだよ」
晃太は苦笑し、手を止めずに言った。
「それで、今日は何の用だ?」
「この鏡のこと、調べてほしいの。中に声が閉じ込められてるみたいで」
結花は小さな木箱を差し出した。その中には昨夜役所から預かった欠片が収められていた。
晃太は手袋をはめ、慎重に欠片を持ち上げる。
「…冷たいな。生き物みたいだ」
「ね、変でしょ?」
「ただの妖なら簡単に祓えるはずだが…これは違うかもしれない」
晃太は顎に手を当て、診療所の奥にある棚から古い巻物を取り出した。
その時、外で子どもの泣き声が響いた。
結花が飛び出すと、膝を擦りむいた少女が泣きじゃくっている。
「どうした?」
「転んだの…」
結花は袖で涙を拭い、肩を貸して診療所に連れて行った。
「ほら、晃太。出番だよ」
「結花、お前、患者を拾ってくるなよ」
「言い訳するなら、見捨てられないでしょ?」
晃太はため息をつきつつ手際よく手当てを済ませ、少女は笑顔を取り戻した。
その様子を見ていた見習いの惇が口を開いた。
「結花さん、あの鏡の声って本当なんですか?」
「うん。本当に聞こえた。しかも助けを求めてる」
惇はごくりと唾をのんだ。
「じゃあ…僕たちも何かできるかな」
結花は笑みを浮かべた。
「もちろん。手を貸してくれる?」
「はい!」
診療所に明るい声が響き、重苦しかった空気が少し軽くなった。
昼過ぎ、結花は惇を連れて港へ向かった。雨上がりの空気は澄んでいたが、海面にはまだ濁った波が残っている。
桟橋の先に立っていたのは沙耶香だった。剣を腰に差し、周囲を見張っている。
「またあなた? 港に関わりすぎじゃない?」
沙耶香の鋭い視線に、結花は両手を上げて笑った。
「言い訳すると、鏡の件で確認したいだけ」
「なら早く済ませなさい」
沙耶香は短く言い、視線を海に戻した。
結花と惇は港の倉庫を覗き、昨夜の鏡の欠片があった場所を確認した。そこには焼け焦げたような跡が広がっている。
「やっぱり、誰かが意図的に封を壊してるね」
「誰が…?」惇が小声で問う。
「それを探すのが今日の目的」
結花は足元の焦げ跡を辿り、倉庫の裏手へ回った。そこには見慣れない靴跡がいくつも続いていた。
「これは…異国の靴?」
惇が目を丸くする。
「うん、底が厚いし釘の打ち方も違う。きっと商館の誰かだ」
ちょうどその時、華が港から駆けてきた。
「結花! 異国船の積み荷が勝手に動かされたって騒ぎになってるよ」
結花はため息をついた。
「また面倒だね。でも、面白くなってきた」
惇が不安そうに見上げる。
「これ、僕がついて行っても大丈夫ですか?」
「もちろん。今日からもう立派な仲間だよ」
結花はそう言って、港の倉庫群へ足を踏み入れた。
異国船の甲板では、複数の商館員が怒号を飛ばしていた。
「誰が荷を動かした!」
「印章の封が壊れてるぞ!」
結花は人の間をすり抜け、甲板中央に置かれた木箱を調べた。封印紐は切られ、中から銀色に光る小さな鏡が見えている。
「これも…鏡?」惇が小声で言う。
「そうみたいだね。しかも同じ気配がする」
結花は箱に触れ、微かな震えを感じた。
そこへ一人の男が歩み寄った。黒い外套に金髪を束ねた異国商館の通訳、エヴァンだった。
「これは我々の荷だ。触らないでいただこう」
「言い訳すると、確認しないと危ないんだよ」
「危ない?」
「妖が出るかもしれない」
エヴァンの目が細まった。
「あなたは…昨夜の騒ぎにいた女か」
「そう。だから、また出ないように封をし直す」
結花は木槌を取り出し、周囲がざわめく。
「木槌で封を?」
「他に道具がないんだもん」
彼女は木箱のふちに即席の板を当て、素早く紐を掛け直し、木槌で叩いて固定した。
エヴァンは驚いた顔をし、小さく笑った。
「大胆だが…結果的に助かった」
惇が耳元で囁く。
「結花さん、これ、絶対にただの荷じゃないですよね」
「うん。これ、きっと“声”の仲間だ」
結花は木箱を見つめ、再び小さな震えを感じ取った。
「港にある鏡と繋がってる…?」
その時、船尾側から誰かが走り去る影が見えた。
「待て!」
結花は反射的に追いかけた。
濡れた甲板を駆け抜け、結花は影を追った。惇も必死に続く。
影は桟橋に飛び降り、倉庫群の間を縫うように走る。
「止まれ!」
結花が叫ぶと、影はちらりと振り返った。その顔には仮面がかかっていた。
「あの影と同じ…!」
影は細い路地に飛び込み、結花も迷わず追い込んだ。
袋小路に追い詰められた影は低い声を発した。
《――解いて》
その瞬間、仮面が砕け散り、影は煙のように消えた。
「また…逃げられた」
惇が息を切らしながら言った。
結花は木槌を握りしめ、肩で息をしながら呟く。
「この町、完全に狙われてる。鏡を通して何かが動いてる」
惇は唾をのみ込み、うなずいた。
「じゃあ、僕たちで止めるんですよね?」
結花は笑い、惇の肩を叩いた。
「もちろん。止めるし、助ける。両方やる」
夕暮れの港に戻ると、光が待っていた。
「また追いかけたのか」
「うん。でも逃げられた」
光は小さく笑い、空を指差した。
「嵐の前の空だな」
結花は港の向こう、異国船の帆を見上げ、木槌を握った。
「言い訳する暇がなくなってきたね。…でも面白い」
夜、診療所の灯りの下に三人が集まった。机の上には鏡の欠片と港で拾った焦げ跡の木片が置かれている。
「この木片、やっぱり異国船の材と同じだな」晃太が顎をなでる。
「つまり、あの鏡は商館の荷と繋がってる」結花が言った。
「でも、どうして封を壊す必要が?」惇が首を傾げる。
「中に閉じ込められたものを“解こう”としてるんだよ」
結花の言葉に、部屋の空気が一瞬重くなった。
晃太は口を開いた。
「誰かが意図的に封を破る…そして影を動かす。これは単なる怪異じゃない、人為的な計画だ」
「計画、か…」結花は木槌を握りしめた。
惇が身を乗り出す。
「僕、調べ物得意です。町の古文書とか読みます!」
「頼もしいね。でも無理はしないで」
「はい!」
晃太は苦笑しつつも頷いた。
「明日から手分けして調べよう。俺は医学書の記録を確認する。鏡に封じられた“声”が人にどう影響するか分かるかもしれん」
結花は木槌を置き、深呼吸した。
「よし、決まり。明日はもっと面白くなるよ」
その時、机の上の鏡の欠片がかすかに光った。
結花は机の欠片に指を置き、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「ねえ…あんた、本当に助けを求めてるんだよね?」
答えはなく、ただ淡い光が脈打つだけだった。
惇が不安げに言う。
「なんだか、生きてるみたいですね…」
「生きてるかもね。だから放っておけない」
結花は軽く笑ってみせたが、胸の奥には冷たい感覚が広がっていた。
その夜更け、診療所の外で足音がした。
光が戸口を開けると、そこには誰の姿もない。ただ、月明かりに照らされた地面に、小さな仮面が落ちていた。
光は眉をひそめ、その仮面を拾い上げた。
「結花…面倒ごとは、まだこれからだぞ」
彼はそのまま戸を閉め、静かな闇が町を包んだ。
翌朝、結花は町外れの診療所を訪れた。湿った木の匂いがする玄関をくぐると、診療台の上で晃太が包帯を巻き直していた。
「お、結花。港で騒ぎを起こしたって聞いたぞ」
「言い訳すると、妖の方が先に出てきたんだよ」
晃太は苦笑し、手を止めずに言った。
「それで、今日は何の用だ?」
「この鏡のこと、調べてほしいの。中に声が閉じ込められてるみたいで」
結花は小さな木箱を差し出した。その中には昨夜役所から預かった欠片が収められていた。
晃太は手袋をはめ、慎重に欠片を持ち上げる。
「…冷たいな。生き物みたいだ」
「ね、変でしょ?」
「ただの妖なら簡単に祓えるはずだが…これは違うかもしれない」
晃太は顎に手を当て、診療所の奥にある棚から古い巻物を取り出した。
その時、外で子どもの泣き声が響いた。
結花が飛び出すと、膝を擦りむいた少女が泣きじゃくっている。
「どうした?」
「転んだの…」
結花は袖で涙を拭い、肩を貸して診療所に連れて行った。
「ほら、晃太。出番だよ」
「結花、お前、患者を拾ってくるなよ」
「言い訳するなら、見捨てられないでしょ?」
晃太はため息をつきつつ手際よく手当てを済ませ、少女は笑顔を取り戻した。
その様子を見ていた見習いの惇が口を開いた。
「結花さん、あの鏡の声って本当なんですか?」
「うん。本当に聞こえた。しかも助けを求めてる」
惇はごくりと唾をのんだ。
「じゃあ…僕たちも何かできるかな」
結花は笑みを浮かべた。
「もちろん。手を貸してくれる?」
「はい!」
診療所に明るい声が響き、重苦しかった空気が少し軽くなった。
昼過ぎ、結花は惇を連れて港へ向かった。雨上がりの空気は澄んでいたが、海面にはまだ濁った波が残っている。
桟橋の先に立っていたのは沙耶香だった。剣を腰に差し、周囲を見張っている。
「またあなた? 港に関わりすぎじゃない?」
沙耶香の鋭い視線に、結花は両手を上げて笑った。
「言い訳すると、鏡の件で確認したいだけ」
「なら早く済ませなさい」
沙耶香は短く言い、視線を海に戻した。
結花と惇は港の倉庫を覗き、昨夜の鏡の欠片があった場所を確認した。そこには焼け焦げたような跡が広がっている。
「やっぱり、誰かが意図的に封を壊してるね」
「誰が…?」惇が小声で問う。
「それを探すのが今日の目的」
結花は足元の焦げ跡を辿り、倉庫の裏手へ回った。そこには見慣れない靴跡がいくつも続いていた。
「これは…異国の靴?」
惇が目を丸くする。
「うん、底が厚いし釘の打ち方も違う。きっと商館の誰かだ」
ちょうどその時、華が港から駆けてきた。
「結花! 異国船の積み荷が勝手に動かされたって騒ぎになってるよ」
結花はため息をついた。
「また面倒だね。でも、面白くなってきた」
惇が不安そうに見上げる。
「これ、僕がついて行っても大丈夫ですか?」
「もちろん。今日からもう立派な仲間だよ」
結花はそう言って、港の倉庫群へ足を踏み入れた。
異国船の甲板では、複数の商館員が怒号を飛ばしていた。
「誰が荷を動かした!」
「印章の封が壊れてるぞ!」
結花は人の間をすり抜け、甲板中央に置かれた木箱を調べた。封印紐は切られ、中から銀色に光る小さな鏡が見えている。
「これも…鏡?」惇が小声で言う。
「そうみたいだね。しかも同じ気配がする」
結花は箱に触れ、微かな震えを感じた。
そこへ一人の男が歩み寄った。黒い外套に金髪を束ねた異国商館の通訳、エヴァンだった。
「これは我々の荷だ。触らないでいただこう」
「言い訳すると、確認しないと危ないんだよ」
「危ない?」
「妖が出るかもしれない」
エヴァンの目が細まった。
「あなたは…昨夜の騒ぎにいた女か」
「そう。だから、また出ないように封をし直す」
結花は木槌を取り出し、周囲がざわめく。
「木槌で封を?」
「他に道具がないんだもん」
彼女は木箱のふちに即席の板を当て、素早く紐を掛け直し、木槌で叩いて固定した。
エヴァンは驚いた顔をし、小さく笑った。
「大胆だが…結果的に助かった」
惇が耳元で囁く。
「結花さん、これ、絶対にただの荷じゃないですよね」
「うん。これ、きっと“声”の仲間だ」
結花は木箱を見つめ、再び小さな震えを感じ取った。
「港にある鏡と繋がってる…?」
その時、船尾側から誰かが走り去る影が見えた。
「待て!」
結花は反射的に追いかけた。
濡れた甲板を駆け抜け、結花は影を追った。惇も必死に続く。
影は桟橋に飛び降り、倉庫群の間を縫うように走る。
「止まれ!」
結花が叫ぶと、影はちらりと振り返った。その顔には仮面がかかっていた。
「あの影と同じ…!」
影は細い路地に飛び込み、結花も迷わず追い込んだ。
袋小路に追い詰められた影は低い声を発した。
《――解いて》
その瞬間、仮面が砕け散り、影は煙のように消えた。
「また…逃げられた」
惇が息を切らしながら言った。
結花は木槌を握りしめ、肩で息をしながら呟く。
「この町、完全に狙われてる。鏡を通して何かが動いてる」
惇は唾をのみ込み、うなずいた。
「じゃあ、僕たちで止めるんですよね?」
結花は笑い、惇の肩を叩いた。
「もちろん。止めるし、助ける。両方やる」
夕暮れの港に戻ると、光が待っていた。
「また追いかけたのか」
「うん。でも逃げられた」
光は小さく笑い、空を指差した。
「嵐の前の空だな」
結花は港の向こう、異国船の帆を見上げ、木槌を握った。
「言い訳する暇がなくなってきたね。…でも面白い」
夜、診療所の灯りの下に三人が集まった。机の上には鏡の欠片と港で拾った焦げ跡の木片が置かれている。
「この木片、やっぱり異国船の材と同じだな」晃太が顎をなでる。
「つまり、あの鏡は商館の荷と繋がってる」結花が言った。
「でも、どうして封を壊す必要が?」惇が首を傾げる。
「中に閉じ込められたものを“解こう”としてるんだよ」
結花の言葉に、部屋の空気が一瞬重くなった。
晃太は口を開いた。
「誰かが意図的に封を破る…そして影を動かす。これは単なる怪異じゃない、人為的な計画だ」
「計画、か…」結花は木槌を握りしめた。
惇が身を乗り出す。
「僕、調べ物得意です。町の古文書とか読みます!」
「頼もしいね。でも無理はしないで」
「はい!」
晃太は苦笑しつつも頷いた。
「明日から手分けして調べよう。俺は医学書の記録を確認する。鏡に封じられた“声”が人にどう影響するか分かるかもしれん」
結花は木槌を置き、深呼吸した。
「よし、決まり。明日はもっと面白くなるよ」
その時、机の上の鏡の欠片がかすかに光った。
結花は机の欠片に指を置き、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「ねえ…あんた、本当に助けを求めてるんだよね?」
答えはなく、ただ淡い光が脈打つだけだった。
惇が不安げに言う。
「なんだか、生きてるみたいですね…」
「生きてるかもね。だから放っておけない」
結花は軽く笑ってみせたが、胸の奥には冷たい感覚が広がっていた。
その夜更け、診療所の外で足音がした。
光が戸口を開けると、そこには誰の姿もない。ただ、月明かりに照らされた地面に、小さな仮面が落ちていた。
光は眉をひそめ、その仮面を拾い上げた。
「結花…面倒ごとは、まだこれからだぞ」
彼はそのまま戸を閉め、静かな闇が町を包んだ。



