第29話_錫火を溶かす
同日午後、港役所の会議室は、潮の匂いと鉄の匂いが微かに交ざっていた。窓の桟には塩が白い筋を作り、机の上には紙の山と、小型の溶融炉—貴之が山から抱えてきた霊鉄片を溶かすための道具—が据えられている。ここでの目的は、鏡橋の安全性を、目で見える科学と、耳でわかる拍で、幕府勘定方の使者に示すこと。いつ/午後、どこで/港役所、誰が/空と歩美と貴之、何を/霊鉄の無害化工程を、なぜ/保守派の疑心暗鬼をほどくため、どうやって/実演で。
空は最初に、紙ではなく道具を机に置いた。霊鉄片と、錫を混ぜるための小皿、温度を測る線香。線香の灰の落ち方で温度の拍を読むやり方は、紙より説得力がある。歩美が印判を箱から出し、使者に見える位置に置いた。印は、押すためでなく、押す前にためらうための道具でもある。
貴之は白衣の袖を結び、読経ではなく無言で炉に火を入れた。彼の沈黙は、言葉よりも古い。沈黙の拍に合わせ、空が口を開く。「霊鉄は、封じの鍔に使う前に“穢れ抜き”をします。錫と混ぜ、温でまとめ、冷で寝かせる。—今日は、その場で見せます」
使者は三十代の細身の男で、目に紙の光が宿っている。机の前に座るときの肘の角度が直角なのは、彼が秩序を信じている証だ。秩序を信じる人にこそ、実演は効く。
貴之が霊鉄片を火床に置き、風を送りすぎないように指で合図を出す。惇のいない炉を、彼はひとりで扱う。火は赤から白へ、白から薄い青へと変わる。線香の灰が縁から落ちる拍に合わせ、空が説明を続ける。「ここで錫」
錫は、霊鉄の角を丸くする。角を丸くしたものは、争いを起こしにくい。空はそう言い、実際に錫を落とした。金属の表面が、鈍い光を取り戻す。
歩美が帳面をひらき、工程ごとに印を置く。印は証拠ではなく、呼吸の印だ。後で読み返したとき、「ここでためらい、ここで決断した」と呼吸の高さを再現できるように。
使者がひとつ質問を投げた。「霊が混じる、と、聞いている」
「混じります」空は即答した。「混じるから、混ぜる。人と妖、鉄と錫、港と祠。混ぜなければ、いつか尖って刺す」
使者は黙り、火の色を見た。沈黙は、理解の前に置く板だ。
溶けた鉄は、完全に液になるのではなく、飴のように伸びる。その伸びを、さとみの鍛冶に渡す前に、一度「無害化」の印を入れる必要がある。空は小さな判木を取り出し、鉄の表に押し当てた。模様は、港の水路図に似せてある。鉄が冷える過程で、模様が内部に沈む。沈んだ模様は、あとで叩いても消えない。「これが、港の責任です」
使者が眉を上げる。「責任?」
「はい。模様が残っている限り、港は『ここで扱った』と名乗れる。名乗れるものは、逃げない」
実演の終わりに、貴之が炉の火を落とし、薄い灰が舞い上がった。歩美が印判の面を拭い、二つの紙に同じ印を置く。ひとつは使者へ、ひとつは港の控えに。使者は紙を受け取り、立ち上がる前に一息だけ置いた。
「理は、わかった。だが、理は時に嘘をつく」
「嘘をつかない理の作り方を、今みせました」空が机の上の道具を示した。「道具は、嘘をつきません。つくのは、人です」
「人は嘘をつく」使者は同意し、笑った。「だから、印を押す前にためらう」
歩美が微笑み、最後の印を置いた。印が紙に残る音は、小さく、しかし遠くまで届く種類の音だった。会議室の窓の外で、潮の拍がひとつ変わった。港の呼吸と、紙の呼吸が、少しだけ近づいた。
同日午後、港役所の会議室は、潮の匂いと鉄の匂いが微かに交ざっていた。窓の桟には塩が白い筋を作り、机の上には紙の山と、小型の溶融炉—貴之が山から抱えてきた霊鉄片を溶かすための道具—が据えられている。ここでの目的は、鏡橋の安全性を、目で見える科学と、耳でわかる拍で、幕府勘定方の使者に示すこと。いつ/午後、どこで/港役所、誰が/空と歩美と貴之、何を/霊鉄の無害化工程を、なぜ/保守派の疑心暗鬼をほどくため、どうやって/実演で。
空は最初に、紙ではなく道具を机に置いた。霊鉄片と、錫を混ぜるための小皿、温度を測る線香。線香の灰の落ち方で温度の拍を読むやり方は、紙より説得力がある。歩美が印判を箱から出し、使者に見える位置に置いた。印は、押すためでなく、押す前にためらうための道具でもある。
貴之は白衣の袖を結び、読経ではなく無言で炉に火を入れた。彼の沈黙は、言葉よりも古い。沈黙の拍に合わせ、空が口を開く。「霊鉄は、封じの鍔に使う前に“穢れ抜き”をします。錫と混ぜ、温でまとめ、冷で寝かせる。—今日は、その場で見せます」
使者は三十代の細身の男で、目に紙の光が宿っている。机の前に座るときの肘の角度が直角なのは、彼が秩序を信じている証だ。秩序を信じる人にこそ、実演は効く。
貴之が霊鉄片を火床に置き、風を送りすぎないように指で合図を出す。惇のいない炉を、彼はひとりで扱う。火は赤から白へ、白から薄い青へと変わる。線香の灰が縁から落ちる拍に合わせ、空が説明を続ける。「ここで錫」
錫は、霊鉄の角を丸くする。角を丸くしたものは、争いを起こしにくい。空はそう言い、実際に錫を落とした。金属の表面が、鈍い光を取り戻す。
歩美が帳面をひらき、工程ごとに印を置く。印は証拠ではなく、呼吸の印だ。後で読み返したとき、「ここでためらい、ここで決断した」と呼吸の高さを再現できるように。
使者がひとつ質問を投げた。「霊が混じる、と、聞いている」
「混じります」空は即答した。「混じるから、混ぜる。人と妖、鉄と錫、港と祠。混ぜなければ、いつか尖って刺す」
使者は黙り、火の色を見た。沈黙は、理解の前に置く板だ。
溶けた鉄は、完全に液になるのではなく、飴のように伸びる。その伸びを、さとみの鍛冶に渡す前に、一度「無害化」の印を入れる必要がある。空は小さな判木を取り出し、鉄の表に押し当てた。模様は、港の水路図に似せてある。鉄が冷える過程で、模様が内部に沈む。沈んだ模様は、あとで叩いても消えない。「これが、港の責任です」
使者が眉を上げる。「責任?」
「はい。模様が残っている限り、港は『ここで扱った』と名乗れる。名乗れるものは、逃げない」
実演の終わりに、貴之が炉の火を落とし、薄い灰が舞い上がった。歩美が印判の面を拭い、二つの紙に同じ印を置く。ひとつは使者へ、ひとつは港の控えに。使者は紙を受け取り、立ち上がる前に一息だけ置いた。
「理は、わかった。だが、理は時に嘘をつく」
「嘘をつかない理の作り方を、今みせました」空が机の上の道具を示した。「道具は、嘘をつきません。つくのは、人です」
「人は嘘をつく」使者は同意し、笑った。「だから、印を押す前にためらう」
歩美が微笑み、最後の印を置いた。印が紙に残る音は、小さく、しかし遠くまで届く種類の音だった。会議室の窓の外で、潮の拍がひとつ変わった。港の呼吸と、紙の呼吸が、少しだけ近づいた。

