言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第28話_潮路を渡る
 秋の大潮の朝、潮路は普段より半尺高く、光を厚くして港へ戻ってきた。湊桜の新港は、鏡柱の羽が音もなく角度を変え、人の呼吸と潮の呼吸を合わせている。今日の任務は、初入港の異国船の通関を、鏡橋の下で試すこと。いつ/朝、どこで/新港、誰が/結花と光と華と、そして妖たち、何を/通関を、なぜ/開港を確かなものにするため、どうやって/即興通訳と拍で—と、出だしから5W1Hは揃っていた。
 異国船は船腹の幅が広く、舳先に獣の木像を掲げている。甲板の上に並ぶ水夫は目を細め、同じ高さの視線で港を見ていた。視線は刃だ。刃を下げてもらうには、こちらが先に鞘を見せる必要がある。結花は中央塔の梯子の途中から手を上げ、光が港の縁で呼吸を一つ長くして声をかける。
「縄を投げないでください。ここでは、視線を投げます」
 水夫たちが顔を見合わせ、笑いがいくつか生まれる。笑いは、刃の油。滑りをよくする。

 通関の前に、誤解がひとつ起きた。鏡柱の根元で、早耳の妖たちが興味半分に船の影へ寄っていく。妖が海に落とす影は、人の影より濃い。船側の銃手が肩を強張らせ、手元で火縄の角度が変わる。華がそこへ割り込み、両手を開いて呼吸のテンポを落とした。「フレンド、ノー・バン。バン・ノー」
 通訳は正確な文法より、拍が大事だ。華は「撃たない」の拍を二つに割り、落ち着きの音を先に置く。クリスタルが後ろから助詞を補い、エヴァンが英語の端を継ぎ足す。ことばの橋は、材木が揃っていなくても、拍さえ合えば渡れる。
 結花はその間に、鏡柱の羽角を半度だけずらす。羽は板。板は、波を捻じ曲げるためでなく、波の肩を押すためにある。潮の肩が少しだけ内へ入る。船はそれに従って舵を切る。

 通関は、まず「観る」からはじめる。華は船長帽の年配男に近づき、手のひらで港の地図を描いた。中央に鏡柱、左右に潮の喉、奥に祠。言葉のかわりに、舞う手で示す。男は頷くが、ひとつだけ眉を寄せた。「これは神のものか?」
「公共のものです」歩美が後方から答え、印判の箱を胸に抱えたまま前へ出る。「ただし、扱いは神のように丁寧に」
 男は笑った。「オーケー。ヒューマン・アンド・ヨーカイ、ボース?」
「両方」光が言い、例え話を足す。「ここは、舞台の中央。みんなの視線が集まる場所に危険は長居できない」

 荷の検分。香辛料の樽、油、布。妖たちが香りに近づくと、船員のひとりが緊張で樽に足を引っ掛けた。転げた桶が甲板で跳ね、鉤がほどける。瞬間、甲板の端にいた若い妖が、それを素手で受けた。指先にうっすらと炎がつく。火は怒っていない。油の匂いに喜んだだけだ。結花は羽角を閉じ、潮風を桶の上へ通した。火は風の臍(ほぞ)にくすぐられて、瞬いて消えた。
「ファイア、フレンド?」船員が恐る恐る問う。
「フレンド。腹が減ると少し噛むけど、すぐ寝る」結花は笑い、妖の手を水で冷やしながら言った。「港では、噛むものには舌を与える。舌は板。舐めさせて、眠らせる」
 華が手早く「フレンド、リトル・バイト、スーン・スリープ」と訳す。船員たちの肩から三割ほど力が抜けた。

 通関書に印をもらう段で、もうひとつ誤解があった。船側の書記が書式の違いに首をひねり、エヴァンが彼に説明していると、背後で妖のひとりが耳を伏せた。「印判の音が、怖い」
 歩美は印の面を布で拭い、音の出方を変えた。強く叩かず、紙に押し当ててから、離す。ずれる瞬間に、音が出ない。「怖くない押し方があるんです」
 書記の男も真似をした。印は紙に、残った。音が小さい印は、あとから効く。

 正午、最初の通関が終わる。船長が帽子を胸に当て、港に向けて軽く頭を下げた。「センター・ブリッジ、グッド」
「ありがとう」結花が答え、中央塔から見下ろす。「今日のうちに、もう一度通してもらえる? 逆潮で」
「オブ・コース」
 華が笑って両手を叩き、子どもたちが真似をする。拍手は言語の外側で通じる。

 午後の再通関では、別の種類の誤解が起きた。港の岸で、妖と水夫が取引のまねごとをし、互いの硬貨を見せ合って笑っていたとき、誰かが「目が合った」と言った。目が合うのは、喧嘩の始まりでもあり、橋の始まりでもある。華はその間に割って入り、仮面舞踏で使った半面を取り出して、水夫の顔に当てた。「三拍で、つけて、見せて、外す」
 水夫は従い、妖も真似た。三拍の間だけ、自分の顔を観察する。観察は攻撃より遅い。遅いものは、争いを小さくする。エヴァンが笑い、クリスタルが仮面の紐を結び直す。光が例え話で締める。「橋は、目の高さで架ける」

 夕刻、無事に出入港の二本を通して、港はひとつ息を整えた。結花は最後に羽角を元の位置に戻し、塔から降りた。足場に残る体のふるえは、危険の余韻ではなく、拍の動きだ。華が肩を叩く。「通訳、合ってた?」
「完璧」結花は親指を立てた。「文法は、あとで直せばいい。今日は拍が合えばいい」
 初日の通関は、そうして終わった。記録には、誰が/華、何を/即興通訳、どうやって/拍で、と記されるだろう。港は、人と妖と異国の足音を同じ板に乗せる練習を始めたばかりだ。