第27話_簾を上げる
朝の光が簾に刺さって、細い帯が畳の上に並ぶ。華の「自由茶屋」はきょうが正式開店の日。簾を上げるのは客ではなく、話のほうだと華は決めている。結花と光は、旅装の紐を締め直しながら、その様子を通りから眺めた。
開店の合図に、静の小太鼓が三つ鳴り、簾がするりと上がる。最初の客は、妖の面を半分だけ残した仮面師。仮面舞踏の夜から、まだ目の縁に紙の粉が残っている。華は湯を注ぎ、椀を置きながら言葉を急がせない。急がせないから、相手は自分で言葉を探す。仮面師は、椀の湯気を見ながら口を開いた。
「仮面、売るのをやめようかと思って」
「やめたくなった証拠の仮面、ひとつ見せて」華が言う。
仮面師は懐から小さな仮面を出す。半分だけ塗られ、半分は木肌が出ている。結花は遠目に見て、それが鏡に似ていると思った。映すものがない側と、映したい側。
「売るのをやめる前に、誰にあげたい?」
仮面師は黙り、簾の影を見てから言った。「—自分に」
華は笑って頷く。「じゃあ、最初の客はひとつ注文。『自分に仮面をあげる』」
茶屋の壁に、小さな札が増える。客は注文を言葉で残す。値段ではなく、言葉の枚数で払う。言葉の札は、あとで町の誰かが読む。読んだ誰かが、同じ注文をしたくなる。注文は、感染する。
一方、祠では静が神職たちに「拍の役目交代」を説明していた。これまで一人が叩いてきた太鼓を、三人で回す。詫びる拍、祝う拍、送る拍。送る拍は、旅立ちの拍だ。貴之が読経の節を三つに割り、歩美が日取りを帳面に写す。空は改革の紙を一枚にまとめ、壁に貼った。誰でも読める高さに。
沙耶香は武士隊を半日に一度、町の見回りに出す。出る前に「謝る順番」を復唱するのは変わらない。先に謝り、そのあとで頼む。それだけで、人は道を開ける。勇気は賭場に入っていかず、表の石段に腰かけて子どものあやとりを教えていた。糸は、賭けより難しい。
昼前、結花と光は町年寄の屋敷で最後の挨拶をした。空は次の月までの予定表を渡し、「君らがいない間の“もしも”は、三つまでに絞った」と言った。「四つ目が起きたら?」と結花が聞くと、空は迷わず答えた。「三つのうちのどれかに似せる」
歩美が印判を持って庭まで見送り、「判の在りかは、ここ」と井戸の脇を指さす。「誰でも押していい。ただし、押す前にためらって」
さとみは布に包んだ小さな鍵を渡す。未完成の鍵。惇が横で、照れくさそうに頭を掻く。「仕上げは、次で」
「次で」結花は受け取り、帯にしまった。未完成は、未来の匂い。
港ではエヴァンが商館の旗を巻き、クリスタルが踊りの靴を片づけていた。彼女は結花に近づき、仮面のない頬で、短い言葉を置く。「ありがとう」
「こちらこそ」結花は笑う。「仮面を脱ぐの、寒かったでしょ」
「でも、踊りやすい」
彼らは、視線の集め方を覚えた。視線は、街を守る。守られた視線は、次の街へ渡せる。
出立の刻、港の中央塔の下に人が集まった。静が送る拍を叩き、子どもが拍手で重ねる。華の茶屋からは、今日の注文札が風に乗って飛んできた。『自分に仮面をあげる』『ためらってから押す』『波の機嫌は自分で決める』『恥は板の材料になる』—どの札にも値段はない。代わりに、日付と名がある。
結花は塔に手を当て、薄く目を閉じた。内側で王女が、たぶん黙っている。黙っているのは、言葉より長い返事。
「行ってくる。—鏡を探しに」
光が例え話を一つだけ置く。「橋は、渡るためにある。でも、時々、見上げるためにもある」
「見上げる首は、折れにくい」結花は笑った。
小舟が岸を離れる。舟笛が鳴り、潮が開く。港の人々が手を振る。誰も泣かない。泣かないのは、寂しくないからではない。寂しさに、名前がついたからだ。名前のついた寂しさは、板にできる。板にした寂しさを渡って、結花と光は次の海へ出た。
朝の光が簾に刺さって、細い帯が畳の上に並ぶ。華の「自由茶屋」はきょうが正式開店の日。簾を上げるのは客ではなく、話のほうだと華は決めている。結花と光は、旅装の紐を締め直しながら、その様子を通りから眺めた。
開店の合図に、静の小太鼓が三つ鳴り、簾がするりと上がる。最初の客は、妖の面を半分だけ残した仮面師。仮面舞踏の夜から、まだ目の縁に紙の粉が残っている。華は湯を注ぎ、椀を置きながら言葉を急がせない。急がせないから、相手は自分で言葉を探す。仮面師は、椀の湯気を見ながら口を開いた。
「仮面、売るのをやめようかと思って」
「やめたくなった証拠の仮面、ひとつ見せて」華が言う。
仮面師は懐から小さな仮面を出す。半分だけ塗られ、半分は木肌が出ている。結花は遠目に見て、それが鏡に似ていると思った。映すものがない側と、映したい側。
「売るのをやめる前に、誰にあげたい?」
仮面師は黙り、簾の影を見てから言った。「—自分に」
華は笑って頷く。「じゃあ、最初の客はひとつ注文。『自分に仮面をあげる』」
茶屋の壁に、小さな札が増える。客は注文を言葉で残す。値段ではなく、言葉の枚数で払う。言葉の札は、あとで町の誰かが読む。読んだ誰かが、同じ注文をしたくなる。注文は、感染する。
一方、祠では静が神職たちに「拍の役目交代」を説明していた。これまで一人が叩いてきた太鼓を、三人で回す。詫びる拍、祝う拍、送る拍。送る拍は、旅立ちの拍だ。貴之が読経の節を三つに割り、歩美が日取りを帳面に写す。空は改革の紙を一枚にまとめ、壁に貼った。誰でも読める高さに。
沙耶香は武士隊を半日に一度、町の見回りに出す。出る前に「謝る順番」を復唱するのは変わらない。先に謝り、そのあとで頼む。それだけで、人は道を開ける。勇気は賭場に入っていかず、表の石段に腰かけて子どものあやとりを教えていた。糸は、賭けより難しい。
昼前、結花と光は町年寄の屋敷で最後の挨拶をした。空は次の月までの予定表を渡し、「君らがいない間の“もしも”は、三つまでに絞った」と言った。「四つ目が起きたら?」と結花が聞くと、空は迷わず答えた。「三つのうちのどれかに似せる」
歩美が印判を持って庭まで見送り、「判の在りかは、ここ」と井戸の脇を指さす。「誰でも押していい。ただし、押す前にためらって」
さとみは布に包んだ小さな鍵を渡す。未完成の鍵。惇が横で、照れくさそうに頭を掻く。「仕上げは、次で」
「次で」結花は受け取り、帯にしまった。未完成は、未来の匂い。
港ではエヴァンが商館の旗を巻き、クリスタルが踊りの靴を片づけていた。彼女は結花に近づき、仮面のない頬で、短い言葉を置く。「ありがとう」
「こちらこそ」結花は笑う。「仮面を脱ぐの、寒かったでしょ」
「でも、踊りやすい」
彼らは、視線の集め方を覚えた。視線は、街を守る。守られた視線は、次の街へ渡せる。
出立の刻、港の中央塔の下に人が集まった。静が送る拍を叩き、子どもが拍手で重ねる。華の茶屋からは、今日の注文札が風に乗って飛んできた。『自分に仮面をあげる』『ためらってから押す』『波の機嫌は自分で決める』『恥は板の材料になる』—どの札にも値段はない。代わりに、日付と名がある。
結花は塔に手を当て、薄く目を閉じた。内側で王女が、たぶん黙っている。黙っているのは、言葉より長い返事。
「行ってくる。—鏡を探しに」
光が例え話を一つだけ置く。「橋は、渡るためにある。でも、時々、見上げるためにもある」
「見上げる首は、折れにくい」結花は笑った。
小舟が岸を離れる。舟笛が鳴り、潮が開く。港の人々が手を振る。誰も泣かない。泣かないのは、寂しくないからではない。寂しさに、名前がついたからだ。名前のついた寂しさは、板にできる。板にした寂しさを渡って、結花と光は次の海へ出た。

