第26話_風帯を解く
秋晴れ。港の水面は、空の青を借りて新調の布のように見えた。封印の喧騒が遠のき、町の音が戻ってくる。魚をさばく包丁の音、桶の縁を叩く音、遠くの太鼓の試し打ち。結花は朝から歩いた。今日は「その後」を確かめる日。走っているものより、歩いているもののほうが、町の未来を教えてくれる。
最初に寄ったのは診療所。柱が一本増えて、柱に縄が巻かれている。晃太が外で木屑を払っていた。「入り口、広くした」
「走って担ぎ込める」結花はわかった。「寝台は?」
「三台を二台に。代わりに、外で座れる縁を長くした」
診療所は、病のための場所から、呼吸のための場所に変わっていた。晃太は、縁に腰を下ろす若者たちの足元を見て、「今日の仕事は?」と尋ねる。「板運び」「網繕い」「蔵の見張り」。声が重ならないように話させ、重なりがないかを確かめる。重なる仕事は、倒れる時刻も重なるからだ。
隣の路地では、華が屋台に布を張っていた。看板には「自由茶屋」とある。値段は書いていない。「どうやって取るの?」と結花が聞くと、華は湯気を纏った笑顔で指を一本立てた。「注文の数じゃなく、会話の数。話した分だけ、払ってもらう」
「損しない?」
「損したぶん、楽しい」
茶屋の前の縄張りに、子どもと妖が並んで座っていた。片方の子は尻尾を振り、片方の子はそれを真似して腰帯を振る。華は茶を渡しながら、話を煽らない。煽らないから、話が長い。長い話は、町を温める。
鍛冶場からは、鉄の香りが少し薄れた。さとみは炉の火を低くし、惇に小さい鎚を渡している。「大きい鎚は、いい音が出なくなるまで叩く。小さい鎚は、いい音が出たら止める」
「どうやってわかる?」惇が顎を上げる。
「耳で。あと、怖さで」
「怖さ?」
「うん。いい音のときは、怖い。壊しそうで」
結花はふたりの手元を見て、嬉しくなる。弱いとき、人は寄りかかる。寄りかかれば、まっすぐ歩ける。ふたりは同じ板の端を持っていた。
昼、町年寄の屋敷で空が帳場を片付けていた。片付けといっても、紙が減るわけじゃない。増えすぎた紙を、乗るべき棚に乗せる。「港の出入りは、昨日より一割増し。けれど、揉め事は半分」
「揉め事、どこへ行った?」
「中央」空が笑う。「視線の下は、喧嘩が小さくなる」
歩美が印判の朱肉を替え、印の面を布で拭う。「印は、押したときより、押す前の顔が大事」
「顔?」
「押す前に、ためらう。ためらう印は、あとで強い」
結花は頷いた。ためらいは、弱さではない。ためらう人は、板を落とさない。
午後、祠へ。静が神職たちと輪になり、拍の練習をしている。拍の始まりを、人任せにしない練習。太鼓を叩かない時間の手を育てる練習。貴之が隅で、涙を見せない目で、しかし目のふちに熱を置いて見守る。
「改革は、どう?」結花が小声で聞く。
「拍を、分けるところから」静が微笑む。「祝う拍と、詫びる拍。これまで一緒だったから」
「詫びる拍のほうが、難しい」
「うん。でも、詫びられたほうが、祝える」
静は太鼓の面を撫でた。「この町、よく眠るようになった。眠りが深いと、起きるのも楽」
「次、起きるのは、どこ?」
「海の向こう」
夕刻、港の中央塔の影が長く伸びる。結花はその影の端に立ち、息を吸った。町は今日、彼女なしでも回った。彼女がいなくても板が落ちないように、人々が自分の手で拍を持っているからだ。光が隣に立ち、空を見上げる。「例え話、いる?」
「今日は、要らない」結花は笑う。「ただ、見ていたい」
遠くで子どもが走り、犬が吠え、舟笛が短く鳴った。晃太の診療所の縁に腰かけた老人が、若い者の話を聞いてうなずく。華の茶屋から笑い声が漏れ、さとみの鍛冶場で惇が小さな鎚を置いた。置く音が、町の音に混じって、いい具合に消えた。
秋晴れ。港の水面は、空の青を借りて新調の布のように見えた。封印の喧騒が遠のき、町の音が戻ってくる。魚をさばく包丁の音、桶の縁を叩く音、遠くの太鼓の試し打ち。結花は朝から歩いた。今日は「その後」を確かめる日。走っているものより、歩いているもののほうが、町の未来を教えてくれる。
最初に寄ったのは診療所。柱が一本増えて、柱に縄が巻かれている。晃太が外で木屑を払っていた。「入り口、広くした」
「走って担ぎ込める」結花はわかった。「寝台は?」
「三台を二台に。代わりに、外で座れる縁を長くした」
診療所は、病のための場所から、呼吸のための場所に変わっていた。晃太は、縁に腰を下ろす若者たちの足元を見て、「今日の仕事は?」と尋ねる。「板運び」「網繕い」「蔵の見張り」。声が重ならないように話させ、重なりがないかを確かめる。重なる仕事は、倒れる時刻も重なるからだ。
隣の路地では、華が屋台に布を張っていた。看板には「自由茶屋」とある。値段は書いていない。「どうやって取るの?」と結花が聞くと、華は湯気を纏った笑顔で指を一本立てた。「注文の数じゃなく、会話の数。話した分だけ、払ってもらう」
「損しない?」
「損したぶん、楽しい」
茶屋の前の縄張りに、子どもと妖が並んで座っていた。片方の子は尻尾を振り、片方の子はそれを真似して腰帯を振る。華は茶を渡しながら、話を煽らない。煽らないから、話が長い。長い話は、町を温める。
鍛冶場からは、鉄の香りが少し薄れた。さとみは炉の火を低くし、惇に小さい鎚を渡している。「大きい鎚は、いい音が出なくなるまで叩く。小さい鎚は、いい音が出たら止める」
「どうやってわかる?」惇が顎を上げる。
「耳で。あと、怖さで」
「怖さ?」
「うん。いい音のときは、怖い。壊しそうで」
結花はふたりの手元を見て、嬉しくなる。弱いとき、人は寄りかかる。寄りかかれば、まっすぐ歩ける。ふたりは同じ板の端を持っていた。
昼、町年寄の屋敷で空が帳場を片付けていた。片付けといっても、紙が減るわけじゃない。増えすぎた紙を、乗るべき棚に乗せる。「港の出入りは、昨日より一割増し。けれど、揉め事は半分」
「揉め事、どこへ行った?」
「中央」空が笑う。「視線の下は、喧嘩が小さくなる」
歩美が印判の朱肉を替え、印の面を布で拭う。「印は、押したときより、押す前の顔が大事」
「顔?」
「押す前に、ためらう。ためらう印は、あとで強い」
結花は頷いた。ためらいは、弱さではない。ためらう人は、板を落とさない。
午後、祠へ。静が神職たちと輪になり、拍の練習をしている。拍の始まりを、人任せにしない練習。太鼓を叩かない時間の手を育てる練習。貴之が隅で、涙を見せない目で、しかし目のふちに熱を置いて見守る。
「改革は、どう?」結花が小声で聞く。
「拍を、分けるところから」静が微笑む。「祝う拍と、詫びる拍。これまで一緒だったから」
「詫びる拍のほうが、難しい」
「うん。でも、詫びられたほうが、祝える」
静は太鼓の面を撫でた。「この町、よく眠るようになった。眠りが深いと、起きるのも楽」
「次、起きるのは、どこ?」
「海の向こう」
夕刻、港の中央塔の影が長く伸びる。結花はその影の端に立ち、息を吸った。町は今日、彼女なしでも回った。彼女がいなくても板が落ちないように、人々が自分の手で拍を持っているからだ。光が隣に立ち、空を見上げる。「例え話、いる?」
「今日は、要らない」結花は笑う。「ただ、見ていたい」
遠くで子どもが走り、犬が吠え、舟笛が短く鳴った。晃太の診療所の縁に腰かけた老人が、若い者の話を聞いてうなずく。華の茶屋から笑い声が漏れ、さとみの鍛冶場で惇が小さな鎚を置いた。置く音が、町の音に混じって、いい具合に消えた。

