第25話_潮騒を鎮める
潮が引くと、港の底に昨日の足跡が残る。鏡柱が立ってから二日目の朝、湊桜の海は薄い雲の膜を一枚かけたように静かだった。結花は中央塔の足元に立ち、手のひらで石の肌を撫でた。冷たさは残っているが、怒りの匂いはない。ここから海峡を跨ぐ水路門—鏡の橋を、今日、ひとまず“使える形”にする。
空が板図を持って塔の影に入り、歩美が指折りで時刻を示す。「午前、潮止まりに試通。午後、逆潮で再試行。記録は三人で照合」
静が太鼓の皮を撫でて、拍を決めた。「今日は、三拍子。海は二拍で寄せてくるから、一拍は人の足に残す」
沙耶香は槍の石突で地を軽く打ち、義勇の列を後ろに下げた。結花は塔の梯子を登り、最上の制御盤に膝をつく。さとみが打った鍵は、雌雄逆転の新型—どちらの手で持っても迷わない。惇が下で見上げ、風箱のような息で「いける」と言った。
最初に通すのは、漁の小舟。勇気が船頭の肩を叩き、「波の機嫌をうかがう顔をするな。機嫌は先にこちらが決める」と笑う。船は鏡柱の足元で一度止まり、静の拍を拾ってから、結花の合図で出た。水路門の羽が、潮に逆らわず、しかし潮を甘やかさずに開く。羽は厚い板だが、力の向きでは布になる。布は、風を殺さずに曲げる。
小舟が抜けると、潮騒が一瞬だけ高くなり、次いで低く落ちた。港の端に溜まっていた見えない波が、橋の下をくぐって外に出たのだ。光が人々へ向け…」
拍手が起きる前に、結花は二本目の羽を半分だけ閉じ、潮の喉を狭めた。狭めすぎれば船が止まる。狭めなければ波が戻る。その中間を、彼女は指先で探る。指先の迷いを、鍵は許してくれる。雌雄逆転の設計は、迷いを前提にしている。
午前の試通は、三隻。最後の一隻は異国の小型艇。舳先の飾りに獣の顔が彫られていて、咆哮しそうな口をしていた。エヴァンが艫で指示を飛ばし、クリスタルが甲板で腕を広げて乗り手の視線を中央に集める。視線が集まれば、危険は切れる。結花は羽の角度を一度だけ変え、潮の尾に小さな結び目を作った。結び目に波が引っかかり、舳先の獣の口が笑うように角度を変える。小型艇は滑るように通過した。
静が太鼓を一打。午前は終わりだ。歩美が記録の欄に三行目の印を置き、空が図の余白に「潮喉の癖:北東風で狭め、南寄りで緩め」と書き残す。
午後、逆潮。潮は来る。来るものを止めるのは、戦いになる。戦いは、長く続けると町が擦り切れる。だから、受ける。受けて、少しだけ向きを変える。貴之が読経で潮の背骨の位置を知らせ、勇気が「今だ」と海面の縞を踏む。華は桟橋で子どもをまとめ、歌のテンポを半拍落とす。速い歌は、怖さを煽る。
結花は制御盤の前で、言い訳を一つだけ口にした。「怖い」
光が下から笑う。「怖いのは、板を落とさないための合図だ」
結花は鍵を捻り、羽を開いた。逆潮は怒っていなかった。ただ、急いでいた。急ぐものの肩を、板でやさしく押す。板の角が、潮の肩に当たりすぎないよう、指の力をほどく。羽は人の呼吸で動く。静の三拍子が、港の呼吸と重なった。
その時、境界波が一つだけ再び立った。鏡の内と外の拍が、ずれたのだ。人の列に波が触れかけ、誰かがよろめく。結花は鍵から手を離し、塔の上で叫んだ。「誰か、一歩下がって!」
群衆が一歩、同じ方向へ下がる。拍が揃い、境界波はほどけた。結花は息を吐き、鍵を握り直す。握り直す手を、鍵は笑わない。
夕刻、海峡を跨ぐ水路門は、ようやく「使える」だけでなく「頼れる」顔になった。羽の根元に嵌め込んだ封印鍔は、霊と金属の喧嘩をやめたらしく、音を立てない。港に溜まっていた怒りは、潮と一緒に外へ出ていく。残るのは、寂しさと、少しの誇り。
結花は中央塔の手すりに寄りかかり、町を見下ろした。見下ろすことは好きじゃない。だから、視線を水平に戻す。水平には、行き先がある。
「—言い訳せず、好きに生きる」
彼女は小さく言った。誰に聞かせるでもない。だが、光が下から手を振り、静が太鼓の縁を軽く叩いた。音は短く、遠くまで届いた。港は拍手を学び、潮騒はそれを妨げない。湊桜は、この夕刻、開港都市になった。
潮が引くと、港の底に昨日の足跡が残る。鏡柱が立ってから二日目の朝、湊桜の海は薄い雲の膜を一枚かけたように静かだった。結花は中央塔の足元に立ち、手のひらで石の肌を撫でた。冷たさは残っているが、怒りの匂いはない。ここから海峡を跨ぐ水路門—鏡の橋を、今日、ひとまず“使える形”にする。
空が板図を持って塔の影に入り、歩美が指折りで時刻を示す。「午前、潮止まりに試通。午後、逆潮で再試行。記録は三人で照合」
静が太鼓の皮を撫でて、拍を決めた。「今日は、三拍子。海は二拍で寄せてくるから、一拍は人の足に残す」
沙耶香は槍の石突で地を軽く打ち、義勇の列を後ろに下げた。結花は塔の梯子を登り、最上の制御盤に膝をつく。さとみが打った鍵は、雌雄逆転の新型—どちらの手で持っても迷わない。惇が下で見上げ、風箱のような息で「いける」と言った。
最初に通すのは、漁の小舟。勇気が船頭の肩を叩き、「波の機嫌をうかがう顔をするな。機嫌は先にこちらが決める」と笑う。船は鏡柱の足元で一度止まり、静の拍を拾ってから、結花の合図で出た。水路門の羽が、潮に逆らわず、しかし潮を甘やかさずに開く。羽は厚い板だが、力の向きでは布になる。布は、風を殺さずに曲げる。
小舟が抜けると、潮騒が一瞬だけ高くなり、次いで低く落ちた。港の端に溜まっていた見えない波が、橋の下をくぐって外に出たのだ。光が人々へ向け…」
拍手が起きる前に、結花は二本目の羽を半分だけ閉じ、潮の喉を狭めた。狭めすぎれば船が止まる。狭めなければ波が戻る。その中間を、彼女は指先で探る。指先の迷いを、鍵は許してくれる。雌雄逆転の設計は、迷いを前提にしている。
午前の試通は、三隻。最後の一隻は異国の小型艇。舳先の飾りに獣の顔が彫られていて、咆哮しそうな口をしていた。エヴァンが艫で指示を飛ばし、クリスタルが甲板で腕を広げて乗り手の視線を中央に集める。視線が集まれば、危険は切れる。結花は羽の角度を一度だけ変え、潮の尾に小さな結び目を作った。結び目に波が引っかかり、舳先の獣の口が笑うように角度を変える。小型艇は滑るように通過した。
静が太鼓を一打。午前は終わりだ。歩美が記録の欄に三行目の印を置き、空が図の余白に「潮喉の癖:北東風で狭め、南寄りで緩め」と書き残す。
午後、逆潮。潮は来る。来るものを止めるのは、戦いになる。戦いは、長く続けると町が擦り切れる。だから、受ける。受けて、少しだけ向きを変える。貴之が読経で潮の背骨の位置を知らせ、勇気が「今だ」と海面の縞を踏む。華は桟橋で子どもをまとめ、歌のテンポを半拍落とす。速い歌は、怖さを煽る。
結花は制御盤の前で、言い訳を一つだけ口にした。「怖い」
光が下から笑う。「怖いのは、板を落とさないための合図だ」
結花は鍵を捻り、羽を開いた。逆潮は怒っていなかった。ただ、急いでいた。急ぐものの肩を、板でやさしく押す。板の角が、潮の肩に当たりすぎないよう、指の力をほどく。羽は人の呼吸で動く。静の三拍子が、港の呼吸と重なった。
その時、境界波が一つだけ再び立った。鏡の内と外の拍が、ずれたのだ。人の列に波が触れかけ、誰かがよろめく。結花は鍵から手を離し、塔の上で叫んだ。「誰か、一歩下がって!」
群衆が一歩、同じ方向へ下がる。拍が揃い、境界波はほどけた。結花は息を吐き、鍵を握り直す。握り直す手を、鍵は笑わない。
夕刻、海峡を跨ぐ水路門は、ようやく「使える」だけでなく「頼れる」顔になった。羽の根元に嵌め込んだ封印鍔は、霊と金属の喧嘩をやめたらしく、音を立てない。港に溜まっていた怒りは、潮と一緒に外へ出ていく。残るのは、寂しさと、少しの誇り。
結花は中央塔の手すりに寄りかかり、町を見下ろした。見下ろすことは好きじゃない。だから、視線を水平に戻す。水平には、行き先がある。
「—言い訳せず、好きに生きる」
彼女は小さく言った。誰に聞かせるでもない。だが、光が下から手を振り、静が太鼓の縁を軽く叩いた。音は短く、遠くまで届いた。港は拍手を学び、潮騒はそれを妨げない。湊桜は、この夕刻、開港都市になった。

