言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第20話_暁鐘を揺らす
 祠の前の空気は、夜の名残を少しだけ抱えていた。静が太鼓の面に掌を置いて、拍をひとつずつ起こす。眠っている町を、肩を揺すって起こすみたいに。結花は鏡から出た息を整え、欠片を胸の前に掲げた。「戻った。—本物」
 光が頷き、沙耶香が槍の石突で地面をとん、と打つ。兵が一歩、同時に退く。退くのは逃げるためではなく、間合いを整えるためだ。歩美が印判を確かめ、空が結び目を読み上げる。「井戸、蔵、港、祠—通しで張れてる」

 結花は五つの欠片を布の上に並べた。色が違う。雪洞の青、港の白、祭りの朱、裏世界の夜、そして、最初の光。色が違うのに、互いを拒まない。さとみが膝をつき、指先で縁の厚みを測る。惇が風箱で炉に火を入れ、赤い呼吸をつくる。
「今日の目的は?」光が場の耳に向けて、わざと声に出す。
「両界の拍を合わせる」結花は答える。「それができなければ、封じは板が外れて落ちる」
 静が太鼓を二打、間を置いて一打。拍の隙間に、貴之の読経が入る。言葉の角を丸くして、音に変える。華は人々を後ろへ下げ、子どもたちを抱き上げ、恐怖の匂いを歌で薄める。勇気は波の尾に立ち、来るか来ないかの境界を目で押さえる。

 結花は欠片をひっくり返し、裏側の傷を見た。誰かがつけた惜しみの跡。惜しむ手は、いつも同じところに落ちる。そこを、さとみの鍛つ鍵が埋める。「頼む」
「任せて」
 さとみは鍵を差し込み、惇がハンマーで軽く叩く。金と霊が、喧嘩しない強さで噛み合う。歩美が時刻を記す。空が紙の端を押さえて、風にさらわれないようにする。「次—結花」

 結花は息を吸い、吐く。言い訳を一つ、心の外へ置く。「遅れたのは、必要な遅れ。—それでいい」
 静の拍が三つ、速くなる。結花は欠片の中心に指を置き、ほんのずらす。ずらし方は、裏世界で覚えた。抱いて、離す。離して、繋ぐ。欠片が虹光を吐いた。光は、まっすぐ上に行かず、横に広がる。橋は、上ではなく、横に架かるのだと、光が自ら名乗る。
 群衆が息を呑む。港の端で、境界波がひとつ溶けた。太鼓の拍が、町全体の鼓動と重なる。静の肩が、少しだけ落ちる。

 祠の陰で、誰かがすすり泣いた。怒りでなく、安堵の涙。結花はその音を聞いて、欠片の縁をもう一度撫でる。縁は、弦だ。弦は触れ続けると疲れる。今、離す。離したとき、繋がりが残る。
「統合、完了」歩美が記録の最後の一行を書き、判を押す。
「まだ終わりじゃない」空が紙束を抱え直す。「ここからが、準備」
「ここからが、橋」光が言い、例え話を足す。「今のは、杭打ち。これから板を渡す」
 結花は頷いた。太鼓の拍が、片付けの拍に変わる。祠は静けさを取り戻すが、静けさは眠りではない。目覚める前の、深い息だ。