第2話_雫を売る
昼下がり、湊桜の雨脚は細く長く降り続いていた。結花は濡れた石畳を踏みしめながら、港のはずれにある古い茶屋の軒先に駆け込んだ。
茶屋の中では華が派手な帯を結び、紅を差して座っていた。
「おや、結花じゃないの。港で暴れたって聞いたけど、今度は何をしでかしたの?」
「言い訳するけど、妖のせいだからね。私は巻き込まれただけ」
結花は笑って肩の雨を払った。
華は湯気を立てる急須を持ち上げ、茶碗に湯を注ぐ。
「それで、今日は何の用?」
「ちょっと相談。鏡に変な声が閉じ込められてるかもしれないの」
華の手が止まった。
「また厄介な話ね…」
外では通りすがりの旅人が雨宿りに茶屋へ入ってきた。顔色の悪い若者で、背負った行李がびしょ濡れになっている。
結花は咄嗟に声をかけた。
「大丈夫? 荷物、重そう」
「…いや、大丈夫だ」
若者は低く答え、隅に座り込んだ。
結花はその表情に何かを感じ取った。
「ねえ、あんたの顔、雨より暗いよ。何か困ってる?」
「別に…」
華が目で合図する。「関わらない方がいい」と言わんばかりだったが、結花は微笑んだ。
「困ってるなら、話だけでも聞くよ。ほら、茶代はいらないから」
若者は一瞬ためらい、そしてぽつりと漏らした。
「…仕事を失ったんだ。荷も売れない。どうやってこの町で生きればいいか…」
結花は腕を組んで考え、口角を上げた。
「じゃあ、売り物じゃなくて“体験”を売ろうか」
「体験?」
「うん。たとえば『旅人の思い出を買う』とか。誰もやってないでしょ?」
華が呆れ顔で言った。
「また突飛なことを…」
「でも、おもしろいと思わない?」
結花は若者に向き直った。
「人に話してみたい思い出を一つ売って。代わりに、ここで食事を振る舞う。それでどう?」
若者は戸惑いながらも、小さく頷いた。
若者は茶碗を両手で包み込み、と語り始めた。
「北の山を越えた村で、祭りを見たんだ。灯りが千もあって、川面に映ると空みたいだった…」
その声はかすれていたが、目の奥だけは鮮やかに輝いていた。
結花はうんうんと頷きながら聞き入り、ぱんと手を叩いた。
「ほら、いい話! これで一杯食べていきなよ」
華は苦笑しながら台所に立ち、味噌汁と握り飯を出した。
「あんたのそういうところ、変わらないね」
「だって楽しいでしょ? 困ってる人が笑うの、好きなんだよ」
結花はにこりと笑い、若者もつられて微笑んだ。
その時、茶屋の戸が勢いよく開き、濡れた足袋の役人が飛び込んできた。
「結花! 朝の鏡、覚えているか!」
「え、なに? もう話したじゃない」
「いや、鏡の封が勝手に解けていた。中を覗いた者がひとり、気を失ったんだ」
茶屋の空気が凍る。結花は無意識に木槌へ手を伸ばしていた。
「行かなきゃ」
華が慌てて袖を掴んだ。
「待ちなさいよ! また巻き込まれる気?」
「言い訳しようと思ったけど、無理だわ」
結花は華に笑いかけ、茶屋を飛び出した。
雨脚は強まり、道が白く煙る。光が役所の前で待っていた。
「結花、やっぱり来たか」
「当たり前。で、鏡は?」
光は重くうなずき、裏手の蔵を指差した。そこから、ぞわりとした冷気が漏れ出しているのがわかる。
結花は木槌を握りしめ、深呼吸した。
(声の主…あんた、まだそこにいるんでしょ)
蔵の扉を押し開けると、ひやりとした空気が肌を刺した。中には朝と同じ鏡があり、布が半分外れている。
光が肩越しに囁く。
「封の札が焼けてる…誰かが故意に剥がしたんだ」
「誰が…?」
結花が言い終える前に、鏡の表面が波打ち、あの声が響いた。
《――解いて》
冷気が渦を巻き、結花の足元から黒い影が立ち上がる。
影は朝と同じ形をしていたが、今度は顔の位置に白い仮面が浮かんでいた。
「またあんたか…でも、今回は逃がさない!」
結花は木槌を振り下ろした。乾いた衝撃が響き、影が後ろにたじろぐ。
光が横から支えを入れる。
「結花、無茶するな!」
「無茶じゃない、いつも通り!」
影が鏡に戻ろうとするたび、結花は道をふさぎ、何度も木槌を打ち込んだ。
仮面がひび割れ、影は一声だけ悲鳴を上げて霧のように消えた。
残された鏡は静かで、ただ冷たく光を放っていた。
結花は荒い息をつきながら鏡に近づく。
「ねえ、本当に誰かいるの?」
すると、鏡面に淡い光が点り、結花の姿を映し返した。
《…助けて》
確かに聞こえた声。結花の胸が締め付けられる。
「わかった。あんたを探す。だから、もう少し待って」
その言葉に応えるように、光が一瞬だけ強まった。
光は結花の肩に手を置いた。
「また面倒なことになりそうだな」
「うん。でも、面白いでしょ?」
結花は小さく笑い、鏡を見つめ続けた。
役所の人々が駆け込み、鏡を囲んだ。先ほど気を失った書役も担がれてきて、まだ意識が戻らない。
「やっぱり、この鏡は危ないんじゃないか…」
結花は木槌を腰に戻し、深く息を吸った。
「ねえ、この鏡、私に預けてくれない?」
役人たちが一斉に目を丸くする。
「お、お前に? 妖が出るんだぞ」
「だからよ。私、今朝も今日も対処したし、ちょっと気になるんだ」
光が苦笑した。
「結花の“ちょっと”は大抵ろくでもないが…まあ止めても無駄か」
役所の長は考え、しぶしぶうなずいた。
「だが必ず報告を入れろ。独断は許さんぞ」
「わかってる」
結花は笑い、鏡に視線を落とした。
(助けを求める声…無視なんてできない)
外に出ると雨は上がっており、夕焼けが港を金色に染めていた。
結花は歩き出し、光が隣に並ぶ。
「で、どうするつもりだ?」
「声の正体を探す。きっとあの鏡には、ただの妖じゃない何かがいる」
「やっぱりそう来たか…」
光は空を見上げ、小さく笑った。
「まあいい。お前が進むなら、俺も付き合う」
「ありがとう」
結花は足を止め、振り返って港を眺めた。
波の向こうに、異国の船影がゆらゆらと浮かんでいる。その甲板には見知らぬ人影が立っていた。
(新しい騒ぎの匂いがする…)
結花は木槌を握り直し、小さくつぶやいた。
「言い訳する時間はなさそうだね」
その夜、茶屋の二階で華が腕を組んで待っていた。
「で、また面倒を持ち帰ったのね」
「うん。でも放っておけないでしょ」
結花は鏡の前に腰を下ろし、布をかけ直した。
「声が本物だとして、どうするつもり?」
「助けるよ。だって、助けてって言われたし」
華は呆れた顔をしながらも、結花の隣に腰を下ろした。
「やれやれ…。でも、あんたが動くと町も動くから、私も協力するわ」
「ありがとう」
結花は微笑み、鏡に触れた。冷たい表面が指先に伝わる。
その瞬間、微かな声が再び響いた。
《――来て》
結花の背筋がぞくりとする。
「どこに?」と小さく問いかけると、鏡の奥で淡い光が走った。海の向こうを指し示すように。
華が眉をひそめた。
「港の向こうか…嫌な予感がするね」
「うん。でも、面白くなりそう」
結花は笑い、木槌を握った。
昼下がり、湊桜の雨脚は細く長く降り続いていた。結花は濡れた石畳を踏みしめながら、港のはずれにある古い茶屋の軒先に駆け込んだ。
茶屋の中では華が派手な帯を結び、紅を差して座っていた。
「おや、結花じゃないの。港で暴れたって聞いたけど、今度は何をしでかしたの?」
「言い訳するけど、妖のせいだからね。私は巻き込まれただけ」
結花は笑って肩の雨を払った。
華は湯気を立てる急須を持ち上げ、茶碗に湯を注ぐ。
「それで、今日は何の用?」
「ちょっと相談。鏡に変な声が閉じ込められてるかもしれないの」
華の手が止まった。
「また厄介な話ね…」
外では通りすがりの旅人が雨宿りに茶屋へ入ってきた。顔色の悪い若者で、背負った行李がびしょ濡れになっている。
結花は咄嗟に声をかけた。
「大丈夫? 荷物、重そう」
「…いや、大丈夫だ」
若者は低く答え、隅に座り込んだ。
結花はその表情に何かを感じ取った。
「ねえ、あんたの顔、雨より暗いよ。何か困ってる?」
「別に…」
華が目で合図する。「関わらない方がいい」と言わんばかりだったが、結花は微笑んだ。
「困ってるなら、話だけでも聞くよ。ほら、茶代はいらないから」
若者は一瞬ためらい、そしてぽつりと漏らした。
「…仕事を失ったんだ。荷も売れない。どうやってこの町で生きればいいか…」
結花は腕を組んで考え、口角を上げた。
「じゃあ、売り物じゃなくて“体験”を売ろうか」
「体験?」
「うん。たとえば『旅人の思い出を買う』とか。誰もやってないでしょ?」
華が呆れ顔で言った。
「また突飛なことを…」
「でも、おもしろいと思わない?」
結花は若者に向き直った。
「人に話してみたい思い出を一つ売って。代わりに、ここで食事を振る舞う。それでどう?」
若者は戸惑いながらも、小さく頷いた。
若者は茶碗を両手で包み込み、と語り始めた。
「北の山を越えた村で、祭りを見たんだ。灯りが千もあって、川面に映ると空みたいだった…」
その声はかすれていたが、目の奥だけは鮮やかに輝いていた。
結花はうんうんと頷きながら聞き入り、ぱんと手を叩いた。
「ほら、いい話! これで一杯食べていきなよ」
華は苦笑しながら台所に立ち、味噌汁と握り飯を出した。
「あんたのそういうところ、変わらないね」
「だって楽しいでしょ? 困ってる人が笑うの、好きなんだよ」
結花はにこりと笑い、若者もつられて微笑んだ。
その時、茶屋の戸が勢いよく開き、濡れた足袋の役人が飛び込んできた。
「結花! 朝の鏡、覚えているか!」
「え、なに? もう話したじゃない」
「いや、鏡の封が勝手に解けていた。中を覗いた者がひとり、気を失ったんだ」
茶屋の空気が凍る。結花は無意識に木槌へ手を伸ばしていた。
「行かなきゃ」
華が慌てて袖を掴んだ。
「待ちなさいよ! また巻き込まれる気?」
「言い訳しようと思ったけど、無理だわ」
結花は華に笑いかけ、茶屋を飛び出した。
雨脚は強まり、道が白く煙る。光が役所の前で待っていた。
「結花、やっぱり来たか」
「当たり前。で、鏡は?」
光は重くうなずき、裏手の蔵を指差した。そこから、ぞわりとした冷気が漏れ出しているのがわかる。
結花は木槌を握りしめ、深呼吸した。
(声の主…あんた、まだそこにいるんでしょ)
蔵の扉を押し開けると、ひやりとした空気が肌を刺した。中には朝と同じ鏡があり、布が半分外れている。
光が肩越しに囁く。
「封の札が焼けてる…誰かが故意に剥がしたんだ」
「誰が…?」
結花が言い終える前に、鏡の表面が波打ち、あの声が響いた。
《――解いて》
冷気が渦を巻き、結花の足元から黒い影が立ち上がる。
影は朝と同じ形をしていたが、今度は顔の位置に白い仮面が浮かんでいた。
「またあんたか…でも、今回は逃がさない!」
結花は木槌を振り下ろした。乾いた衝撃が響き、影が後ろにたじろぐ。
光が横から支えを入れる。
「結花、無茶するな!」
「無茶じゃない、いつも通り!」
影が鏡に戻ろうとするたび、結花は道をふさぎ、何度も木槌を打ち込んだ。
仮面がひび割れ、影は一声だけ悲鳴を上げて霧のように消えた。
残された鏡は静かで、ただ冷たく光を放っていた。
結花は荒い息をつきながら鏡に近づく。
「ねえ、本当に誰かいるの?」
すると、鏡面に淡い光が点り、結花の姿を映し返した。
《…助けて》
確かに聞こえた声。結花の胸が締め付けられる。
「わかった。あんたを探す。だから、もう少し待って」
その言葉に応えるように、光が一瞬だけ強まった。
光は結花の肩に手を置いた。
「また面倒なことになりそうだな」
「うん。でも、面白いでしょ?」
結花は小さく笑い、鏡を見つめ続けた。
役所の人々が駆け込み、鏡を囲んだ。先ほど気を失った書役も担がれてきて、まだ意識が戻らない。
「やっぱり、この鏡は危ないんじゃないか…」
結花は木槌を腰に戻し、深く息を吸った。
「ねえ、この鏡、私に預けてくれない?」
役人たちが一斉に目を丸くする。
「お、お前に? 妖が出るんだぞ」
「だからよ。私、今朝も今日も対処したし、ちょっと気になるんだ」
光が苦笑した。
「結花の“ちょっと”は大抵ろくでもないが…まあ止めても無駄か」
役所の長は考え、しぶしぶうなずいた。
「だが必ず報告を入れろ。独断は許さんぞ」
「わかってる」
結花は笑い、鏡に視線を落とした。
(助けを求める声…無視なんてできない)
外に出ると雨は上がっており、夕焼けが港を金色に染めていた。
結花は歩き出し、光が隣に並ぶ。
「で、どうするつもりだ?」
「声の正体を探す。きっとあの鏡には、ただの妖じゃない何かがいる」
「やっぱりそう来たか…」
光は空を見上げ、小さく笑った。
「まあいい。お前が進むなら、俺も付き合う」
「ありがとう」
結花は足を止め、振り返って港を眺めた。
波の向こうに、異国の船影がゆらゆらと浮かんでいる。その甲板には見知らぬ人影が立っていた。
(新しい騒ぎの匂いがする…)
結花は木槌を握り直し、小さくつぶやいた。
「言い訳する時間はなさそうだね」
その夜、茶屋の二階で華が腕を組んで待っていた。
「で、また面倒を持ち帰ったのね」
「うん。でも放っておけないでしょ」
結花は鏡の前に腰を下ろし、布をかけ直した。
「声が本物だとして、どうするつもり?」
「助けるよ。だって、助けてって言われたし」
華は呆れた顔をしながらも、結花の隣に腰を下ろした。
「やれやれ…。でも、あんたが動くと町も動くから、私も協力するわ」
「ありがとう」
結花は微笑み、鏡に触れた。冷たい表面が指先に伝わる。
その瞬間、微かな声が再び響いた。
《――来て》
結花の背筋がぞくりとする。
「どこに?」と小さく問いかけると、鏡の奥で淡い光が走った。海の向こうを指し示すように。
華が眉をひそめた。
「港の向こうか…嫌な予感がするね」
「うん。でも、面白くなりそう」
結花は笑い、木槌を握った。



