言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第19話_玻璃を砕く
 鏡の内側の空は、割れる前の卵の殻に似ていた。薄く、光を通し、ひびの走り方だけが現実と違う。結花は18歩目で足を止めた。帯の内にしまった“欠片”の重みが、軽すぎる。軽いものは、嘘をつく。さとみの打つ鉄は、もう少しだけ肩にかかるはずだ。
 立ち止まると、風が止まった。裏日本の風は、人が歩くことで吹く。王女—裏の結花—は距離を変えずに、また近づく。「どうしたの」
「軽い」
「軽い?」
「さっき、君からもらったもの。導きに使うにはよくできている。でも、鍵穴は回らない」

 王女の指が微かに動く。袖から、さきほど置いていった短刀が滑り出る。刃は、光を飲む側に折れている。「なら、続き」
「続き、ね」
 結花は帯の中の“欠片”を出し、掌で転がした。角が甘い。誰かが泣かないように配慮して磨いた玩具だ。これは、寂しさを慰めるための代用品。約束では扉は開かない。誓いでも開かない。—なら、必要なのは“弁論”。言葉を使わない、身体の論。
 短刀が来る。結花は避けない。布を巻いて抱き、ずらし、踏み替える。足裏で拾った地の凹凸を、膝で記憶し直す。裏日本の石は、陰でできている。陰は光より先に疲れる。疲れたところを、釘で止めるように指を置く。

「あなたは、抱く」王女が言う。「抱いて、逃がす」
「そう。抱いたほうが、離れやすい」
「では、抱けないものは?」
「砕く」
 結花は掌を返し、軽い“欠片”を空へ放った。落ちる前に、布で包んだ短刀の柄でなぞる。音がしない。沈黙は音より速い。沈黙が先に走って、“欠片”の輪郭を縫い直す。ひびが見えた。玩具の芯に、薄いガラスが二重に重なっている。外側の玻璃は涙を弾くため、内側は怒りを映すため。その二重を、沈黙で割る。

 ぱき、と卵の殻のような音が、遅れて聞こえた。空のひびと、掌の上のひびが、同じ方向へ伸びる。王女の睫毛が震え、短刀の刃がだけ鈍る。結花はそこへ指を挟み、「今」と呟いた。
 玻璃が砕け、軽さが落ちる。代わりに、重みが来る。肩に来るべき重み。さとみの鍛つ鉄と喧嘩しない重さ。これが、本物の欠片だ。王女の視線が、欠片と結花の間を往復する。

「あなたは、割るのが上手」
「割らないと、繋げられない」
「繋ぐために、割る」
「うん。割るのは、壊すためじゃない」
 王女は短刀を下ろし、布を見た。「布は?」
「返す」結花は雪洞から連れてきた布を差し出す。「今日の分の寂しさは、ここに置いていく」
「置いていく?」
「軽すぎるものは、返すのが礼儀」
 王女は布を受け取り、短刀を布に包み直した。刃の眠り方が、さっきより深い。「証は?」
「薄い板を背負って、外で見せる。—それと、ひとつだけ、ここで」

 結花は欠片を胸に当て、目を閉じた。音が全部引いていく。静の太鼓の拍が、遠いのに輪郭だけはくっきり届く。拍の間(ま)に合わせ、欠片の縁を指で撫でる。欠片の縁は、弦だ。弦は、張りすぎると切れ、緩すぎると鳴らない。今は、鳴る。
 王女が、息を呑んだ。裏日本の空に、現実側の朝の色がうっすら混じる。「行くの?」
「行く。次は、外で続き」
「また、それ」
「うん。薄い板を、たくさん」

 帰路は、来たときより短かった。欠片が重く、道が素直だからだ。鏡面の縁に手を置くと、冷たさの向こうに木の匂いがあった。祠の匂い。結花は振り返らなかった。振り返れば、寂しさが手招きする。王女は何も言わない。何も言わないのは、言葉より長い返事だ。
 結花は欠片を抱いて、鏡の外へ戻った。外界の風が体に当たり、汗の塩がやっと現実の味に変わる。「ただいま」
 太鼓の拍が、答えた。