言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第18話_影を潜る
 落ちた先は、水底ではなかった。鏡の内側は、裏返しの日本—人と妖の影が地面から少し浮いて歩く“裏日本”。空は地の色、地は空の色。町の輪郭が薄墨で描かれ、そこに色だけが遅れて追いついてくる。
 結花は膝をつき、掌で地面を押した。硬さはある。冷たさは、記憶の冷たさだ。遠くで、祭りの笛が逆再生のように吸い込まれていく。彼女は立ち上がり、声を整えた。「誰かいる?」
「いる」
 返事は、彼女の声と同じ高さで返ってきた。姿が現れる。結花に似た輪郭。瞳の奥に夜がある。裏結花—鏡の王女。

「遅かったね」
「遅れた」結花は認めた。「町で約束を守るのに、時間が必要だった」
「約束。あなたたちは、約束が好き」
「君たちも、好きだ」
「わたしたちは、誓いが好き」王女の唇が動く。「約束は、人が破るために結ぶもの。誓いは、破られたときに人を斬るために結ぶもの」
「どちらも、橋の材料だよ」
「橋?」
「うん。人と妖の間に張る板。約束は薄い板、誓いは厚い板。薄い板をたくさん並べれば、厚い板に勝てる」

 王女は笑わない。笑わないまま、結花に近づく。距離は変わらないのに、近くなる。「言い訳を見せて」
「なんで?」
「あなたはそれで生き延びてきた。なら、こちらにも役に立つ」
「わかった」結花は息を吐き、言い訳を並べ始めた。「遅れたのは、人を助けていたから。人を助けるのは、わたしが楽しいから。町に橋を架けるのは、旅がしたいから。旅がしたいのは、怖いから」
「怖いから?」
「怖いものがある場所へ行く方が、退屈が少ない」
「退屈が少ないと?」
「泣く時間が減る」

 王女の瞳が、少しだけ柔らかくなった。「泣くの?」
「泣くよ。昨日も泣いた」
「どこで?」
「雪洞の札の前と、診療所の戸口で」
「なぜ?」
「守れなかったから。守ると決めたのに」
「言い訳は?」
「言い訳は、次の板を渡すために、昨日の板を外す道具。だから、持ってきた」

 王女は衣の袖から短刀を出した。刃は鏡の欠片の色をしている。「言葉の弁論は終わり。次は“言葉なき弁論”。あなたの言い訳が板なら、わたしの短刀は釘」
「上等」結花は構えない。構えないまま、足の裏で地面のざらつきを確かめる。短刀が来た。速い。刃は肩の前で止められた。止めたのは、結花の手に持った—布切れ。雪洞で欠片を抱いた布。温の残り香。刃が布に飲まれ、力が吸われる。

「抱く、ね」王女が目を細める。
「うん。抱いて、ずらす」
 結花は布で刃を包み、半歩ずれ、王女の足の側面にわずかな重みを置いた。転ばせない。ただ、進路を変える。その間に、言葉を挟む。「君は寂しい。寂しさは、怒りより強い。だから、怒るふりをしている」
「ふり?」
「ふりをしているあいだは、泣かずに済む」
 王女のまぶたが、落ちた。短刀が遅くなる。遅くなれば、言葉は間に合う。「寂しさを少し減らす。鏡が眠るあいだ、人と妖が同じ橋を渡るところを…は帯の内から、小さな鍵を出した。さとみが打った封印の鍔の雛形。鍵は未完だが、未来の形をしている。王女はそれを見て、首を傾げた。
「未完成」
「未来は、いつも未完成」
「気に入らない言い訳」
「気に入るまで、並べてみせる」

 沈黙が降りた。沈黙は、音より速い。二人は沈黙の上を歩いた。短刀が再び動き、布がそれを受け、足がずれ、視線が絡む。時間のほうが先に疲れて、場にこぼれた。
 最後に、王女の手から短刀が落ちた。布の上で、刃は眠っている。
「鍵を置いていきなさい」
「いや」結花は笑った。「これは、外で仕上げる」
「なら、欠片を置いていきなさい」
「それも、いや」
「では、何を置いていく?」
「約束」
 王女の瞳に、夜が少しだけ薄くなった。「薄い板ね」
「うん。薄い板を、たくさん」

 遠くで太鼓が鳴る。外の静の拍だ。音は遅れて届く。結花は王女に背を向けず、半身で歩いた。「また来る」
「また、それ」
「今度は、薄い板を背負って」
 王女は何も言わなかった。何も言わないことは、許しと似ている。結花は布と短刀を置き、代わりに欠片を拾った。鏡面がひと呼吸だけ柔らかくなり、外界の光がひと筋、こちらへ差し込んだ。彼女はその光を踏み、表の世界へ戻った。