言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第17話_襲雷を裂く
 夕立の予感が空の底で膨らんでいた午後、祠の方角から乾いた音が走った。耳が先に痛み、次に胸が痛む。大砲の音だ。商人同盟が、最後の理性を畳んだ。
 石段が砕け、紙垂が裂ける。祠の奥に眠る鏡が、薄目を開けたように光った。沙耶香が武士隊を整列させ、短く頭を下げてから叫ぶ。「時間を稼ぐ!」謝罪は、命令の前に置かれる。兵はそれで速く動く。
 結花は祠の前で立ち止まり、息を吸った。言い訳を探す癖が、今は役に立つ。逃げるためではなく、口説くために使う。「鏡、聞こえる?」
 答えは、風と石の間から来た。「聞こえる。遅かったね」

鏡は、光ではなく、言葉で応える。結花は手のひらを板に見立て、胸の前で水平に保った。鏡の表面に、町の影が流れる。幼子が泣き、若い母が笑い、老いた手が針を通す。境界波の縁で、誰かが転ぶ。起こす手が伸びる。
「君は人を映す。映して、傷つけるときがある」
「映すのは人間だ。わたしじゃない」
「そう。だから、人間のほうから頼みに来た。もう一度、眠って」
「眠る理由は?」
「大人の言い訳をする」
「聞こう」
「町はまだ、橋の途中。板が足りない。板が…
 結花は歯を噛んだ。可愛い言い訳は、もう使えない年になっている。「じゃあ、取引する。眠ってくれたら、君の寂しさを減らす。人と妖が、同じ橋を渡るところを見せる」
「見せる?」
「見せるよ。約束する」
「約束。—またそれ」

 大砲が二度目を吐いた。祠の木鼻が飛び、香の灰が舞う。沙耶香の槍が、突きではなく、受けに回る。兵の足が、間合いを保ったまま下がる。光が後方から叫ぶ。「間合いは、波! 押しすぎるな、引きすぎるな!」例えは、怖さを数に変える。
 結花は祠の奥へ半歩踏み出し、鏡の縁に指を伸ばした。冷たさが皮膚から骨へ移る。「お願い。眠って」
「—いや」
 短い拒絶は、刃物より短かった。結花は指を引く。目の前で、祠の影が揺れる。鏡は起きる。町は、もう少しで追いつくのに。間に合わないとき、言い訳は板にならない。

 その時、背中に太鼓の低い音が触れた。静だ。彼女は祠の手前で、鼓面に掌を置き、音を押し殺すように叩く。音は、眠りの前の呼吸に似ている。結花は鏡から目を離さず、静の拍に自分の心拍を合わせた。速すぎた鼓動が、音をひとつ飛ばす。飛ばした分、言葉が戻る。
「眠って。眠らないなら、わたしが入る。君の中へ」
「入る?」
「うん。言い訳を全部持って、入る」
「面白い」鏡が笑った気がした。「なら、来い」

 第三射が来る前に、結花は鏡面に両手を当てた。光が振り返る間もなく、祠の前の空気が折れ、彼女の体が水に落ちるように裏側へ滑った。視界の端で、光が叫ぶ。「時間を稼げ!」沙耶香の「承知!」が重なる。太鼓の拍は、鎧の下の心臓に届く速さで続いた。

 鏡は眠らない。だから、こちらから目を閉じて飛び込む。結花はそう決めて、息を止めた。次の瞬間、世界は反転し、色の順序が変わった。