言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第16話_蔵火を攫う
 防疫蔵の建設は、空の指揮で夜明けから始まった。場所は三カ所。港と井戸と祠の三角形の中心に小さな蔵を置き、そこを結ぶ板橋を張る。誰がいつどこへ運ぶか、歩美の帳面に矢印が増えるたび、町は少しずつ呼吸を整える。
 ところが正午、資材が消えた。いや、消えたというより、賭場で溶けた。勇気の顔に笑いと汗が同居している。「悪い。すぐ増やす」
「どうやって?」結花は首をかしげる。「木材は種を蒔けば生えないよ」
「だから、賭ける。増やすには、賭けるのが速い」
「目に見える物を賭けるのは、遅い」結花は指を一本立てた。「無形を賭けて」

 無形とは、何か。勇気は一瞬だけ黙った。賭場の空気は、勝者と敗者の汗でねっとりしている。番人が笑い、札が音を立てる。結花は机の上の賽子を手に取り、指の腹で転がした。「賭け台は、蔵の材木三十束。—わたしの命を担保にして、倍にして」
「待て」光が割って入る。「命は、賭けない」
「実質的には賭けないよ」結花は微笑した。「担保にするのは、命じゃなくて、わたしの“言い訳”」
「言い訳?」番人が目を細める。
「うん。もし負けたら、わたしは町中で“わたしが賭けに負けたから建設が遅れた”って毎朝言い続ける。恥を、毎日。三十日」
 賭場が静まる。恥は、命より重いときがある。勇気が口笛を吹いた。「乗った」

賭けの内容は単純だった。賽子を二つ。三度勝負。出目の合計が大きい方が勝ち。勇気は、直感に従うタイプだ。出目の偏りの匂いを嗅ぎ取るのが得意。結花は、出目より人を見る。番人の指の動き、観客の肩の揺れ、札の重ね方。小さな不自然が、空気の端で擦れる音を立てる。
 一投目、勇気が勝つ。二投目、番人が勝つ。三投目は、同点。番人が笑い、再投を宣言した瞬間、結花は机の下の影に声を投げた。「今、札を動かした人。右手を止めて」
 影が、ぴたりと固まる。勇気…木三十束の札が、結花の前に移動する。結花は息を吐き、番人に頭を下げた。「恥は、明日から要らないみたい」
「残念」番人が肩をすくめる。「でも、恥を賭ける度胸は、もう一度見たい」
「恥は、毎日は賭けないよ。板が足りなくなる」

 午後、資材は。蔵へ運ばれ、板橋が伸び始めた。華が子どもたちに歌を教え、沙耶香が人の流れを逆走する者に短く頭を下げてから道を戻させる。「すみません。こっちは妖の風上です」謝罪は、命令より強い。歩美は印判を押し続け、空は図面に汗のしみを増やす。
 夕刻、最初の蔵が立ち上がった。結花は柱に手を当て、木の体温を確かめた。「無形を賭けるの、効くね」
「効く」勇気は笑う。「でも、二度は効かない」
「二度目は、別の無形を賭ければいい。たとえば—わたしの“ありがとう”」
「それは、賭けじゃなくて、報いだよ」

 夜、港から風が上がる。蔵の板が鳴り、結花は天井の梁を見た。誰かの恥と、誰かの勇気と、誰かの謝罪で、梁は立っている。強い。板橋の先には、まだ見えない橋が続いている。鏡の口が開く前に、こちらの橋を完成させる。恥を賭けても、間に合わせる。