第15話_盆灯を沈める
立秋前の湿気は、町の隅々にまで入り込んでいた。湊桜の路地の陰で、子どもの笑い声が急に途切れ、次の瞬間には低い唸りに変わる。皮膚の下を、光っていない鱗が走る。人が妖へ傾く速度は、風鈴が止まるよりも速い。誰かが叫ぶ。叫んだ本人の声が、すぐ別の者の喉からも出る。
午前、結花は疫源の地図を引いた。診療所、井戸、賭場、蔵、港。行き交う人の流れを糸で繋ぎ、糸の結び目の色を変える。赤は昨日、藍は今朝、白は噂。光が横で、例え話で糸を人に変えていく。「この糸は、船の係留索。どの杭が緩めば船が流される?」
「—鏡本体」
結花の口から出た言葉は、自分でも意外なほど重かった。欠片ではなく、本体が揺れている。封じが弱まり、人の心の縫い目から妖気が吹き込んでいる。
午後、空の案で防疫蔵の配置が決まった。蔵は、井戸と港と祠の三角形の内側に建てる。風の通り道を遮らず、人の通り道を制御する。歩美が奉行所の印判を走らせ、沙耶香が武士隊を二手に割る。晃太は薬湯の材料を指折りし、華は子どもを集めて遊び歌で手洗いを覚えさせる。「手のひら、甲、指の間。妖は泡で眠るよ」
結花は自分に言い訳をつくって、現場を一つ飛ばした。祠だ。鏡の本体が、目を開けかけている。怖い。怖いから、まず井戸を見にいく、と足を向けた—が、途中で足が止まる。「逃げたら、橋は腐る」光の声が背中から追いついた気がした。
祠は潮の匂いを孕んでいる。石段に、紙垂が貼り付く。静が太鼓を抱え、と歩いてきた。叩く前の、沈黙の拍が長い。
「祠は、怒ってる?」
「怒ってはいない」静は首を振る。「寂しがってるだけ。約束した人が、来ないから」
「約束?」
「封じのときに、誰かが言った。“また来る”って」
結花は石段に手をついた。冷たい。約束を守れない者の冷たさだ。自分の手が、そこに混じっている気がして、指を握り直した。
夕刻、最初の境界波が港の端で立ち上がった。見えない波が、人の膝の高さで跳ねる。貴之が護摩経で抑え、勇気が直感で波の尾を踏む。さとみは鍛冶場を閉め、炉を滅菌に転じた。晃太が運び込まれた船員の胸に手を当て、呼吸の間隔を別のリズムへずらす。「この人、海では息が長い。陸では短い。なら、海の歌をここで歌わせる」
結花は走った。防疫蔵、井戸、祠、港。四隅に人を置き、見えない糸を引く。光が言った係留索は、結び直すたびに太くなる。夜が降りてきて、町の灯りが一つずつ上がる。灯りは怖さを照らすが、怖さを消さない。消し方は別にある。
真夜中、祠の奥で、ふいに声がした。人の声とも、風ともつかぬ。結花の背中が汗で冷える。「誰?」
答えはない。だが、確かに言葉の形をしている。『来たの? 来ないの?』
結花は喉を鳴らした。「来た。遅くなって、ごめん」
静が太鼓の縁を一度だけ叩く。音は、許しを乞うための合図に似ていた。祠の空気が、と沈む。結花は、その沈みの底に、女の気配を感じ取る。王女。鏡の向こうに囚われ、町を見下ろしてきた者。怒ってはいない。寂しいのだ。寂しさは、怒りより始末が悪い。人を引き戻すからだ。
明け方、境界波の高さは膝から腰へ伸びかけたが、町全体の呼吸が少し揃ってきた。結花は石段に座り込み、額の汗を袖で拭った。「原因は、鏡本体。対処は、欠片を全部揃えて、祠の封じ直し。—でも、その前に」
「謝る?」光が横に腰を下ろした。
「うん。約束を伸ばしつづけたことに」
「謝る相手は、町だけじゃない」
「知ってる。王女にも」
朝の光が、水面に薄く揺れた。結花は立ち上がり、祠の暗がりに向かって、と頭を下げた。謝罪は言い訳ではない。次の橋板を渡すための、最初の杭打ちだ。
立秋前の湿気は、町の隅々にまで入り込んでいた。湊桜の路地の陰で、子どもの笑い声が急に途切れ、次の瞬間には低い唸りに変わる。皮膚の下を、光っていない鱗が走る。人が妖へ傾く速度は、風鈴が止まるよりも速い。誰かが叫ぶ。叫んだ本人の声が、すぐ別の者の喉からも出る。
午前、結花は疫源の地図を引いた。診療所、井戸、賭場、蔵、港。行き交う人の流れを糸で繋ぎ、糸の結び目の色を変える。赤は昨日、藍は今朝、白は噂。光が横で、例え話で糸を人に変えていく。「この糸は、船の係留索。どの杭が緩めば船が流される?」
「—鏡本体」
結花の口から出た言葉は、自分でも意外なほど重かった。欠片ではなく、本体が揺れている。封じが弱まり、人の心の縫い目から妖気が吹き込んでいる。
午後、空の案で防疫蔵の配置が決まった。蔵は、井戸と港と祠の三角形の内側に建てる。風の通り道を遮らず、人の通り道を制御する。歩美が奉行所の印判を走らせ、沙耶香が武士隊を二手に割る。晃太は薬湯の材料を指折りし、華は子どもを集めて遊び歌で手洗いを覚えさせる。「手のひら、甲、指の間。妖は泡で眠るよ」
結花は自分に言い訳をつくって、現場を一つ飛ばした。祠だ。鏡の本体が、目を開けかけている。怖い。怖いから、まず井戸を見にいく、と足を向けた—が、途中で足が止まる。「逃げたら、橋は腐る」光の声が背中から追いついた気がした。
祠は潮の匂いを孕んでいる。石段に、紙垂が貼り付く。静が太鼓を抱え、と歩いてきた。叩く前の、沈黙の拍が長い。
「祠は、怒ってる?」
「怒ってはいない」静は首を振る。「寂しがってるだけ。約束した人が、来ないから」
「約束?」
「封じのときに、誰かが言った。“また来る”って」
結花は石段に手をついた。冷たい。約束を守れない者の冷たさだ。自分の手が、そこに混じっている気がして、指を握り直した。
夕刻、最初の境界波が港の端で立ち上がった。見えない波が、人の膝の高さで跳ねる。貴之が護摩経で抑え、勇気が直感で波の尾を踏む。さとみは鍛冶場を閉め、炉を滅菌に転じた。晃太が運び込まれた船員の胸に手を当て、呼吸の間隔を別のリズムへずらす。「この人、海では息が長い。陸では短い。なら、海の歌をここで歌わせる」
結花は走った。防疫蔵、井戸、祠、港。四隅に人を置き、見えない糸を引く。光が言った係留索は、結び直すたびに太くなる。夜が降りてきて、町の灯りが一つずつ上がる。灯りは怖さを照らすが、怖さを消さない。消し方は別にある。
真夜中、祠の奥で、ふいに声がした。人の声とも、風ともつかぬ。結花の背中が汗で冷える。「誰?」
答えはない。だが、確かに言葉の形をしている。『来たの? 来ないの?』
結花は喉を鳴らした。「来た。遅くなって、ごめん」
静が太鼓の縁を一度だけ叩く。音は、許しを乞うための合図に似ていた。祠の空気が、と沈む。結花は、その沈みの底に、女の気配を感じ取る。王女。鏡の向こうに囚われ、町を見下ろしてきた者。怒ってはいない。寂しいのだ。寂しさは、怒りより始末が悪い。人を引き戻すからだ。
明け方、境界波の高さは膝から腰へ伸びかけたが、町全体の呼吸が少し揃ってきた。結花は石段に座り込み、額の汗を袖で拭った。「原因は、鏡本体。対処は、欠片を全部揃えて、祠の封じ直し。—でも、その前に」
「謝る?」光が横に腰を下ろした。
「うん。約束を伸ばしつづけたことに」
「謝る相手は、町だけじゃない」
「知ってる。王女にも」
朝の光が、水面に薄く揺れた。結花は立ち上がり、祠の暗がりに向かって、と頭を下げた。謝罪は言い訳ではない。次の橋板を渡すための、最初の杭打ちだ。

