第14話_雪渓を覗く
真夏の昼でも冷気が棲むという雪洞は、霊峰千蛇の北斜面に口を開けている。出立は土用の入り、午後三つ時。結花と貴之は、どの道を通り、いつ戻るか、誰に見届けさせるかを短く確かめ、山の禁域へ踏み入れた。案内人は貴之ただ一人。修験の白衣に、涙を見せぬという彼の信条が縫い付けてあるみたいに無地だった。
岩肌は汗を吸わない。靴の底が鳴るたび、古い音が返る。何百年前にも、誰かが同じ場所で息を止めたのだとわかるほどに、音が乾いていた。
「寒い?」
「怖い」結花は素直に言った。「でも、怖いほうが、道が見える」
「ならば、よい」貴之は振り返らない。「怖いときに人は歌い、歌えば霊は眠る」
雪洞の口に至ると、風は音を変えた。夏の葉を渡る風ではなく、石の腹を撫でる風だ。貴之は鈴を鳴らし、短く祝詞を唱える。言葉は、言葉より前の場所から来て、洞の闇に溶けた。
「欠片は、どこ?」
「洞の奥の氷の裏。火で溶かしてはならぬ。叩いても割れぬ。—抱け」
「抱く?」
「抱いて、温で外す」
結花は笑う。「それは、言い訳みたい」
「言い訳?」
「他に手がないときに、人は“抱け”って言う。実は手があるのに」
「なら、君は手を見つける」
彼らは肩幅ほどの闇を、背を触れ合わぬ距離で進んだ。陽は洞の外に置いてきたが、時間は肩口を這ってついてくる。光が戻った。氷だ。洞の腹に張り付いた青は、遠い空より澄んでいる。氷の向こうに、薄虹色の欠片が眠っていた。
結花は掌を氷に当てた。冷たさは痛みの手前で止まり、皮膚の裏側で静かな火に変わる。「抱け、ね」
貴之は頷き、背嚢から薄布を出した。布は祭りのときに幼子を負うためのものらしい。結花は氷と欠片の間に布を滑り込ませ、と呼吸を合わせた。吐くときに体温を布へ、吸うときに洞の風を背中へ。
時間が細くなる。数えることをやめる。布が、氷の裏からするりと抜けた。欠片が、音もなく腕に落ちる。抱いたのは、氷ではなく、欠片の孤独だったのだと、結花は肩で理解した。
その瞬間、洞が低く唸った。氷が鳴る。貴之が反射で結花の腕を引いた。次の刹那、天井の霜が毛のように逆立ち、白い粉が降る。足元がずれる。結花は膝を落とし、欠片を胸で庇った。
「走る?」
「走らぬ」
貴之は首を振り、太い息を一つ吐くと、鈴を強く鳴らした。読経が始まる。切るような声でなく、眠らせる声。洞の腹が歌に同意したのか、粉雪の降りが細くなる。彼の声が震えないことに、結花は驚かない。彼は涙を見せぬ。声も、同じだと思っていた。
出口が近づいたとき、貴之の足が止まった。洞口の縁に、古い木札がいくつも括られている。そこに、ひとつだけ新しい札があった。墨の色が、まだ若い。「—沙耶香」
貴之は札に指を触れ、爪が白くなるまで押した。結花は気づく。彼の“涙を見せぬ”は、涙を持たぬことではない。見せないために、別の場所を痛めてきただけだ。
「置いていかれたの?」
「守らせてもらえなかったのだ」
貴之の声に、細いひびが入った。ひびは、洞の冷気で固まる前に、言葉になった。「弱いのは、俺だ」
結花は欠片を抱えたまま、肩を貴之の肩に軽く当てた。「弱いのは、わたしもだよ。弱い同士は、寄りかかると、まっすぐ歩ける」
貴之は、笑った。見えない涙が、声の奥で蒸発する音がした気がした。彼は札を結び直し、最後にもう一度鈴を鳴らした。洞の風が頷いた。
帰り道、陽は西へ傾き、山肌の影が長く伸びた。欠片は布に包まれ、結花の背に負われている。貴之は前を歩きながら、ふいに口を開いた。
「抱く、というのは、言い訳ではないのだな」
「うん。言い訳は、次の板を渡すための橋。抱くのは、その板がまだ届かないあいだの、仮の橋」
「仮の橋でも、渡れるのだな」
「渡れるよ。今日、渡った」
二人は山を下り、夕餉の匂いが漂い始めた湊桜へ戻った。寂しさは背中から消え、代わりに、誰かの体温が薄く残っていた。欠片もまた、少しだけ温かった。
真夏の昼でも冷気が棲むという雪洞は、霊峰千蛇の北斜面に口を開けている。出立は土用の入り、午後三つ時。結花と貴之は、どの道を通り、いつ戻るか、誰に見届けさせるかを短く確かめ、山の禁域へ踏み入れた。案内人は貴之ただ一人。修験の白衣に、涙を見せぬという彼の信条が縫い付けてあるみたいに無地だった。
岩肌は汗を吸わない。靴の底が鳴るたび、古い音が返る。何百年前にも、誰かが同じ場所で息を止めたのだとわかるほどに、音が乾いていた。
「寒い?」
「怖い」結花は素直に言った。「でも、怖いほうが、道が見える」
「ならば、よい」貴之は振り返らない。「怖いときに人は歌い、歌えば霊は眠る」
雪洞の口に至ると、風は音を変えた。夏の葉を渡る風ではなく、石の腹を撫でる風だ。貴之は鈴を鳴らし、短く祝詞を唱える。言葉は、言葉より前の場所から来て、洞の闇に溶けた。
「欠片は、どこ?」
「洞の奥の氷の裏。火で溶かしてはならぬ。叩いても割れぬ。—抱け」
「抱く?」
「抱いて、温で外す」
結花は笑う。「それは、言い訳みたい」
「言い訳?」
「他に手がないときに、人は“抱け”って言う。実は手があるのに」
「なら、君は手を見つける」
彼らは肩幅ほどの闇を、背を触れ合わぬ距離で進んだ。陽は洞の外に置いてきたが、時間は肩口を這ってついてくる。光が戻った。氷だ。洞の腹に張り付いた青は、遠い空より澄んでいる。氷の向こうに、薄虹色の欠片が眠っていた。
結花は掌を氷に当てた。冷たさは痛みの手前で止まり、皮膚の裏側で静かな火に変わる。「抱け、ね」
貴之は頷き、背嚢から薄布を出した。布は祭りのときに幼子を負うためのものらしい。結花は氷と欠片の間に布を滑り込ませ、と呼吸を合わせた。吐くときに体温を布へ、吸うときに洞の風を背中へ。
時間が細くなる。数えることをやめる。布が、氷の裏からするりと抜けた。欠片が、音もなく腕に落ちる。抱いたのは、氷ではなく、欠片の孤独だったのだと、結花は肩で理解した。
その瞬間、洞が低く唸った。氷が鳴る。貴之が反射で結花の腕を引いた。次の刹那、天井の霜が毛のように逆立ち、白い粉が降る。足元がずれる。結花は膝を落とし、欠片を胸で庇った。
「走る?」
「走らぬ」
貴之は首を振り、太い息を一つ吐くと、鈴を強く鳴らした。読経が始まる。切るような声でなく、眠らせる声。洞の腹が歌に同意したのか、粉雪の降りが細くなる。彼の声が震えないことに、結花は驚かない。彼は涙を見せぬ。声も、同じだと思っていた。
出口が近づいたとき、貴之の足が止まった。洞口の縁に、古い木札がいくつも括られている。そこに、ひとつだけ新しい札があった。墨の色が、まだ若い。「—沙耶香」
貴之は札に指を触れ、爪が白くなるまで押した。結花は気づく。彼の“涙を見せぬ”は、涙を持たぬことではない。見せないために、別の場所を痛めてきただけだ。
「置いていかれたの?」
「守らせてもらえなかったのだ」
貴之の声に、細いひびが入った。ひびは、洞の冷気で固まる前に、言葉になった。「弱いのは、俺だ」
結花は欠片を抱えたまま、肩を貴之の肩に軽く当てた。「弱いのは、わたしもだよ。弱い同士は、寄りかかると、まっすぐ歩ける」
貴之は、笑った。見えない涙が、声の奥で蒸発する音がした気がした。彼は札を結び直し、最後にもう一度鈴を鳴らした。洞の風が頷いた。
帰り道、陽は西へ傾き、山肌の影が長く伸びた。欠片は布に包まれ、結花の背に負われている。貴之は前を歩きながら、ふいに口を開いた。
「抱く、というのは、言い訳ではないのだな」
「うん。言い訳は、次の板を渡すための橋。抱くのは、その板がまだ届かないあいだの、仮の橋」
「仮の橋でも、渡れるのだな」
「渡れるよ。今日、渡った」
二人は山を下り、夕餉の匂いが漂い始めた湊桜へ戻った。寂しさは背中から消え、代わりに、誰かの体温が薄く残っていた。欠片もまた、少しだけ温かった。

