第13話_枠を越える
真夏の蒸気が残る夜明け前、湊桜の町は眠りと覚醒の境をと揺れていた。診療所の障子を鳴らしたのは、血で湿った布を抱えた町人の肩と、駆け込んだ二人の足音だった。担ぎ込まれた晃太は、脇腹に短刀を受けていた。刃は浅く、しかし狙いは深い。誰かが「医者の口をふさげ」と命じた手つきで刺している。
結花は立ち尽くした。足袋の先まで震えが降りてきたのに、それをごまかす言い訳がいつもより遅れて出てこない。「たまたま転んだのかもね」と口の中でつぶやいてみても、血の匂いが嘘を押し返した。
光が灯を増やし、手早く人を捌く。桶に湯、布に灰、戸口には見張り。例え話で人を並べる。『船が座礁したら、最初にやるのは船底の穴を押さえること。責めるのは朝日が出てからだ』。言葉は静かで、命令に聞こえないのに誰も逆らわない。晃太が浅く笑い、「それ、好きだ」と唇だけで言った。
どうして晃太が狙われたのか。理由はひとつでじゅうぶんだった。鏡の欠片を追う連中にとって、貧しい者に薬湯と仕事をつなぐ晃太は、町の心臓を握る邪魔者だ。治るはずの人間を治してしまう者ほど、兵器を求める者には面倒くさい。
結花は思考の梯子を一段抜かして登ろうとして足を滑らせた。自分のせいじゃない、と言えば楽になれた。だが、晃太が刺された瞬間の風景が、何度もまぶたの裏でよみがえる。熱を持つ闇。走る影。戸の桟の軋み。自分はそこにいなかった。だからこそ、言い訳の出番は本当は今なのだとわかっていても、喉が乾いて声が出ない。
傷は洗われ、縫われ、縛られた。針が皮を渡る音に合わせて、光が小声で話をつなぐ。『肋の間は、棟梁でいえば梁と梁の間。釘の打ち直しは丁寧に、ね』。場に散った緊張が、少しずつ集まって一枚の布になる。
外は、東の端だけが薄く白んでいた。結花は土間に膝をつき、掌で冷たい床を押した。血も涙も床に吸われる。『わたしのせいじゃない』と言えば、少しは楽になる。だが、それで晃太の苦しみが薄まるわけじゃない。息を吸った。喉の奥に石が一つあるみたいだった。
「光。言い訳していい?」
光は針を置き、顔だけこちらに向けた。「いいとも。君の言い訳は、次の手を見つけるための地図だ」
「わたしが見張りを頼んだのは、港側だけだった。裏路地の抜け道を見落とした。だから刺客は、迷わずここまで来られた」
「なるほど。じゃあ、次は裏路地に橋をかけよう」
「橋?」
「君の得意なやつ。目に見えないけれど、誰もが渡れる橋さ」
その時、障子の向こうで足音が止まった。刃物の匂い。結花の体が先に動いた。戸を引くより早く、彼女は回れ右して長椅子を蹴り、通路を塞いだ。刹那、薄闇から飛び込んできた影が、長椅子の脚に躓いて倒れ込む。床に落ちた短刀の柄に、白い布が巻かれていた。売り物の印。商人同盟の札。
「捕まえて」
結花の声は震えていなかった。義勇の若者たちが影を押さえ、光が縄の結び目を肩で締めた。影は歯を食いしばって黙っている。結花はしゃがみこみ、目線を合わせた。
「…よ。君は今、その小僧になれる」
男の唇が、かすかに緩んだ。「…路地裏の、藍染めの旗の家」
光が若者に指示を飛ばし、二人が駆ける。結花は男の手首の布を外し、商人の印を見た。晃太の脇腹を狙う刃は、町の財布から伸びていた。
朝が来た。結花はやっと息を長く吐けた。晃太が浅い眠りに沈むのを見届け、戸外に出る。海の匂いが、夜の血の匂いを押し流していく。
「光。わたし、怖かった」
「怖くていい。怖いから、君は考える」
「言い訳、もうひとつしていい?」
「いくつでも」
「晃太が刺されたのは、わたしが“みんな助ける”って言ったからだ。できもしない約束をして、敵を増やした」
光は笑い、潮風に目を細めた。「できもしない約束ほど、人は動く。できる約束だけしていると、町は昨日のままだ。君が増やしたのは、敵だけじゃない。味方もだよ」
結花は口を噤み、海を見た。白い波の端の、さらにその向こうに、見えない橋の影を思い描く。裏路地に橋をかける方法は、すでに二つ浮かんでいた。商人同盟の札を逆に使うこと、そして—晃太が起きたら、彼の患者の動線を聞き取ること。町の血管は、患者の脚がいちばんよく知っている。
診療所の戸が再び開き、静が入ってくる。大祭の準備の手が空いたのか、彼女は笑って頭を下げた。「太鼓の稽古、少しお休み。脈を見させて」
「お願い」
静は結花の手首を取って笑う。「強い。ちゃんと生きてる」
「生きてるうちに、やることがある」
「そう。だから叩くの。太鼓は、怖さの音を別の音に変える楽器だから」
日が高くなる前に、結花は町年寄の屋敷へ走った。空は帳場で、既に新しい紙を広げていた。路地の図。縦横に線が引かれ、余白に数字が踊る。
「裏路地に橋を」
「言われると思った。—二種だ。目に見える橋と、見えない橋」
「見えない橋は、合言葉と印」
「見える橋は、夜泣き石に渡す板。音で合図を返す」
二人の会話に、光が後ろから追いついた。「例え話で言うなら、蜘蛛の糸は一本だと切れる。だから、綱にする。町に張る綱は、君たちの言い訳の数だけ強くなる」
晃太が目を開けたのは、昼近く。彼はまず痛みを確かめ、それから窓の外の光を一度だけ見た。「また、手伝わせて」
「もちろん」結花は即答した。「でも、少しは寝てから」
晃太は目を閉じ、笑った。眠りに戻る口元が、仕事の段取りをつぶやくみたいに、動いた。
刺客は午後、奉行所に引き渡された。歩美が記録を取り、沙耶香が短く頭を下げてから縄を締め直した。謝罪は先手で、処置は淡々と。町は、言い訳を外に向けず、中に向けるやり方を覚えつつあった。
夕刻、潮の匂いが濃くなる頃、結花はもう一度、診療所の戸口に立った。朝よりも静かな空気。針の跡の糸は、まだ赤かった。彼女は小さく呟く。「言い訳は、次の板を渡すために使う。逃げるためじゃない」
光が外から頷く気配を見せ、夕風が二人の間を渡っていった。
真夏の蒸気が残る夜明け前、湊桜の町は眠りと覚醒の境をと揺れていた。診療所の障子を鳴らしたのは、血で湿った布を抱えた町人の肩と、駆け込んだ二人の足音だった。担ぎ込まれた晃太は、脇腹に短刀を受けていた。刃は浅く、しかし狙いは深い。誰かが「医者の口をふさげ」と命じた手つきで刺している。
結花は立ち尽くした。足袋の先まで震えが降りてきたのに、それをごまかす言い訳がいつもより遅れて出てこない。「たまたま転んだのかもね」と口の中でつぶやいてみても、血の匂いが嘘を押し返した。
光が灯を増やし、手早く人を捌く。桶に湯、布に灰、戸口には見張り。例え話で人を並べる。『船が座礁したら、最初にやるのは船底の穴を押さえること。責めるのは朝日が出てからだ』。言葉は静かで、命令に聞こえないのに誰も逆らわない。晃太が浅く笑い、「それ、好きだ」と唇だけで言った。
どうして晃太が狙われたのか。理由はひとつでじゅうぶんだった。鏡の欠片を追う連中にとって、貧しい者に薬湯と仕事をつなぐ晃太は、町の心臓を握る邪魔者だ。治るはずの人間を治してしまう者ほど、兵器を求める者には面倒くさい。
結花は思考の梯子を一段抜かして登ろうとして足を滑らせた。自分のせいじゃない、と言えば楽になれた。だが、晃太が刺された瞬間の風景が、何度もまぶたの裏でよみがえる。熱を持つ闇。走る影。戸の桟の軋み。自分はそこにいなかった。だからこそ、言い訳の出番は本当は今なのだとわかっていても、喉が乾いて声が出ない。
傷は洗われ、縫われ、縛られた。針が皮を渡る音に合わせて、光が小声で話をつなぐ。『肋の間は、棟梁でいえば梁と梁の間。釘の打ち直しは丁寧に、ね』。場に散った緊張が、少しずつ集まって一枚の布になる。
外は、東の端だけが薄く白んでいた。結花は土間に膝をつき、掌で冷たい床を押した。血も涙も床に吸われる。『わたしのせいじゃない』と言えば、少しは楽になる。だが、それで晃太の苦しみが薄まるわけじゃない。息を吸った。喉の奥に石が一つあるみたいだった。
「光。言い訳していい?」
光は針を置き、顔だけこちらに向けた。「いいとも。君の言い訳は、次の手を見つけるための地図だ」
「わたしが見張りを頼んだのは、港側だけだった。裏路地の抜け道を見落とした。だから刺客は、迷わずここまで来られた」
「なるほど。じゃあ、次は裏路地に橋をかけよう」
「橋?」
「君の得意なやつ。目に見えないけれど、誰もが渡れる橋さ」
その時、障子の向こうで足音が止まった。刃物の匂い。結花の体が先に動いた。戸を引くより早く、彼女は回れ右して長椅子を蹴り、通路を塞いだ。刹那、薄闇から飛び込んできた影が、長椅子の脚に躓いて倒れ込む。床に落ちた短刀の柄に、白い布が巻かれていた。売り物の印。商人同盟の札。
「捕まえて」
結花の声は震えていなかった。義勇の若者たちが影を押さえ、光が縄の結び目を肩で締めた。影は歯を食いしばって黙っている。結花はしゃがみこみ、目線を合わせた。
「…よ。君は今、その小僧になれる」
男の唇が、かすかに緩んだ。「…路地裏の、藍染めの旗の家」
光が若者に指示を飛ばし、二人が駆ける。結花は男の手首の布を外し、商人の印を見た。晃太の脇腹を狙う刃は、町の財布から伸びていた。
朝が来た。結花はやっと息を長く吐けた。晃太が浅い眠りに沈むのを見届け、戸外に出る。海の匂いが、夜の血の匂いを押し流していく。
「光。わたし、怖かった」
「怖くていい。怖いから、君は考える」
「言い訳、もうひとつしていい?」
「いくつでも」
「晃太が刺されたのは、わたしが“みんな助ける”って言ったからだ。できもしない約束をして、敵を増やした」
光は笑い、潮風に目を細めた。「できもしない約束ほど、人は動く。できる約束だけしていると、町は昨日のままだ。君が増やしたのは、敵だけじゃない。味方もだよ」
結花は口を噤み、海を見た。白い波の端の、さらにその向こうに、見えない橋の影を思い描く。裏路地に橋をかける方法は、すでに二つ浮かんでいた。商人同盟の札を逆に使うこと、そして—晃太が起きたら、彼の患者の動線を聞き取ること。町の血管は、患者の脚がいちばんよく知っている。
診療所の戸が再び開き、静が入ってくる。大祭の準備の手が空いたのか、彼女は笑って頭を下げた。「太鼓の稽古、少しお休み。脈を見させて」
「お願い」
静は結花の手首を取って笑う。「強い。ちゃんと生きてる」
「生きてるうちに、やることがある」
「そう。だから叩くの。太鼓は、怖さの音を別の音に変える楽器だから」
日が高くなる前に、結花は町年寄の屋敷へ走った。空は帳場で、既に新しい紙を広げていた。路地の図。縦横に線が引かれ、余白に数字が踊る。
「裏路地に橋を」
「言われると思った。—二種だ。目に見える橋と、見えない橋」
「見えない橋は、合言葉と印」
「見える橋は、夜泣き石に渡す板。音で合図を返す」
二人の会話に、光が後ろから追いついた。「例え話で言うなら、蜘蛛の糸は一本だと切れる。だから、綱にする。町に張る綱は、君たちの言い訳の数だけ強くなる」
晃太が目を開けたのは、昼近く。彼はまず痛みを確かめ、それから窓の外の光を一度だけ見た。「また、手伝わせて」
「もちろん」結花は即答した。「でも、少しは寝てから」
晃太は目を閉じ、笑った。眠りに戻る口元が、仕事の段取りをつぶやくみたいに、動いた。
刺客は午後、奉行所に引き渡された。歩美が記録を取り、沙耶香が短く頭を下げてから縄を締め直した。謝罪は先手で、処置は淡々と。町は、言い訳を外に向けず、中に向けるやり方を覚えつつあった。
夕刻、潮の匂いが濃くなる頃、結花はもう一度、診療所の戸口に立った。朝よりも静かな空気。針の跡の糸は、まだ赤かった。彼女は小さく呟く。「言い訳は、次の板を渡すために使う。逃げるためじゃない」
光が外から頷く気配を見せ、夕風が二人の間を渡っていった。

