言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第12話_月見を破る
 夜。芝居小屋の前には、提灯の列が月の道のように伸びていた。今日は特別興行—『月見の絵合わせ』。浮世絵師の新作を舞台の上で披露し、競りにかける趣向だ。欠片③は、その“絵中絵”に隠されている。結花は髪を低く結い、男装に近い装いで裏口から入った。華は舞台袖で衣装の紐を締め、静は太鼓台の陰に腰を下ろし、光は客席の端で物売りに紛れ、空は裏方の通路を把握し、歩美は競札の規定を書き直し、晃太は救護箱を用意し、沙耶香は舞台裏の出口に立ち、さとみと惇は小道具の箱を運んだ。

 舞台は、夜の庭の趣向。屏風に描かれた月は、見事に“本物に似せた偽物”で、客席のざわめきがひときわ高くなる。絵の中の月は、水面にもう一つの月を映し、その水面のさらに底に、小さな欠片の光が隠されている—そういう仕掛けだと、結花は予想していた。絵師の癖、墨の運び、金泥の散らし方、紙の繊維の方向、どれも彼女の目には“手口”として見える。

 第一幕が始まる。華が舞台中央に出て、扇を開く。扇の鈴は二つだけ。半拍ずれは、観客の心を撫でるため。静の太鼓は舞台の下で低く響き、音は床板を通って客席の足の裏に届く。光は物売りの声を上げながら、比喩で客の耳を少しだけ“軽く”していく。空は裏方の動線を一度だけ切り替え、出入りの拍をずらす。歩美は競札のルールに「幕間の入札は無効」の条目を加え、晃太は舞台の端で転倒の危険を避ける砂を撒く。沙耶香は袖幕の影で立ち、さとみと惇は箱の蓋を音を立てずに開け閉めする。

 第二幕、絵師が舞台に呼ばれ、屏風の前で筆の運びを披露する。観客は息を呑む。絵師はわざと筆を止め、墨の滲みを見せ、「偶然が美を作る」と口上を述べる。結花は袖の陰から、その筆の止め方が“偶然に見せかけた必然”であることを見抜いた。滲みの端に、極細の白が一本走っている。白は、光を通す道。—欠片へ通じる細い道。

 幕間。結花は華と入れ替わるように舞台へ上がった。踊り子の影に隠れるようにして、屏風の前へ。扇の骨で、ごく小さく、紙の裏を叩く。音は出ない。紙の繊維が方向を変える。静の太鼓が一度だけ低く鳴り、床板の下の空気が揺れる。光が物売りの声を少しだけ上げ、客の視線を舞台の端へ流す。空が裏方の動きを遅らせ、歩美が札の確認に客を集め、晃太が救護箱を持って客席通路を通り、沙耶香が袖幕で一歩前に出て視界を切り、さとみと惇が箱の配置を入れ替える。
 —今。

 結花は袖から小さな刃物を出し、屏風の“絵中絵”の部分にほんの針先ほどの切れ目を入れた。切れ目は見えない。見えないが、紙の呼吸は変わる。紙が息を吸う。吸った息で、欠片の光が一瞬、近づく。彼女は小さな薄板を差し込み、光を掬った。掬った瞬間、絵の中の月が曇る。観客は気づかない。曇りは、芝居の煙のせいだと受け止める。—成功。

 しかし、仕掛けは一重ではなかった。屏風の背後、木戸の陰から黒い影が伸びる。誰かが、同じ瞬間を狙っていた。結花は薄板を袖に滑り込ませ、体をひねって影の手首を掴んだ。冷たい。人の手の温度ではない。影は滑り、舞台の下へ逃げる。沙耶香が槍の柄で床を叩く。静の太鼓が応える。華が扇を高く上げ、客席へ向けて笑う。「幕間の余興でございます!」
 笑いが大きく波打ち、影の動きは鈍る。結花は床下へ飛び降り、暗がりで影と対峙した。影は人の形をしているが、人ではない。鏡から漏れた“手口”だ。彼女は霊槌の柄を逆手に持ち、影の肘に当てた。音はしない。手応えはある。影は薄くなり、床板の隙間から吸い込まれるように消えた。

 舞台上では、光が比喩で事態を手品に変え、空が裏方を元の動線に戻し、歩美が「幕間入札無効」の条目を読んで笑いを取る。晃太は転んだ客を起こし、沙耶香は袖幕の影に戻る。さとみと惇は箱の蓋を閉め、華が舞を再開する。—何事もなかったように。

 最終幕、競りの口上。結花は客席の最後列で立ち、袖の内側に隠した薄板を指で撫でた。欠片③は、ほんの微かな冷気を放っている。冷たいが、拒んではいない。彼女は深く息を吸い、吐いた。「—戻る」
 戻るのは、舞台ではない。港だ。干潟だ。笑いを返す場所だ。今日、彼女は“奪う”のではなく“返す”動きを身に付けた。返すことは、奪うより難しい。奪うのは勢いだが、返すのは拍だ。

 幕が降り、客が引き、明かりが落ちる。裏口で、エヴァンが待っていた。「—君は、奪わなかった」
 「返した」結花は頷く。「奪ったら、舞台が壊れる」
「君は、壊す代わりに、ずらした」
「ずらすと、戻れる」結花は薄板を帯に挟んだ。「戻れる道があるうちは、笑いに飲まれない」

 小屋を出ると、月は薄雲の向こうにあった。光は弱いが、道は見える。結花は空を仰ぎ、鈴を鳴らした。小さな音が、夜の肌に吸い込まれていく。「—明日、干潟で」
 彼女は歩き出した。灯の落ちた路地は、昼とは別の町に見える。扉は閉じ、影は伸び、猫が一匹、塀の上を歩く。足音は静かで、しかし速い。心は、静かで、しかし熱い。返す日が来る。彼女は笑いを、橋に変える。

 芝居小屋の外では、競り落とせなかった客が口惜しさに肩を怒らせ、逆に負けて笑い飛ばす客もいた。笑い飛ばす方が、拍は残る。怒りは、拍を乱す。結花はさりげなく負けた客の肩を叩き、短い比喩を渡した。「負けは、橋の継ぎ目。継ぎ目がない橋は、折れる」
 「なるほどな」男は鼻を鳴らし、笑った。「継ぎ目に酒でも塗るか」
 「塗りすぎると滑る」光が横から割り込み、三人で笑った。

 舞台裏で、絵師がため息をついた。「あの滲みは、偶然じゃないのに、偶然だと思われた」
 「偶然に見せるのが腕です」歩美が帳面を閉じる。「紙の上では、偶然と必然は同じ字で書けます」
 「怖いことを言う」絵師は目を細めた。「だが、気に入った」

 結花は小道具の箱の中から、細い針金と丸環をひとつ拝借した。「明日の干潟で、帆布の角度を固定するのに使う」
 「それ、小屋の道具だぞ」と惇が言う。
 「借りる。返す」
 「返す日は?」
 「明日、笑って」
 「なら、貸す」惇は笑った。

 帰り道、エヴァンが肩を並べて歩いた。「君は、いつも“返す”と言う」
 「返さないと、奪い続ける人になる」
 「君は、奪う人ではない」
 「奪うこともある。でも、その前に返す道を作る」
 エヴァンはうなずき、「私は遅らせる」ともう一度言った。「遅らせる道も、道だろう?」
 「もちろん」結花は笑う。「遅らせる道がないと、走る道は転ぶ」

 家に帰りつくと、鏡の面が曇り、また澄んだ。彼女は掌を当て、短く囁く。「—明日、返す。返したら、橋にする」

 幕が降りた後も、小屋の床下では微かな気配が残っていた。結花は懐中の灯で隙間を照らし、爪ほどの小さな銀の欠片が釘の影に落ちているのを見つけた。囮に使われた雲母板の破片だ。拾い上げ、匂いを嗅ぐ。—薬品。干潟で嗅いだものと同じ。彼女は布に包み、歩美の帳面に貼り付ける。「証拠は、歌にも、紙にも、匂いにも、残す」
 「匂いは、時刻の印」晃太が頷く。「今日の匂いは、明日の風で薄くなる」

 裏口で待ち伏せしていた男たちが、結花に近づいた。商人同盟の手の者。彼らは表では礼儀正しく、裏では乱暴だ。「—お嬢さん、舞台の“お手伝い”の礼を」
 「礼なら、歌で」結花は微笑み、即興で短い歌を口ずさんだ。歌詞は彼らの靴の汚れと手の癖、袖口の金糸のほつれ、言葉の端の訛りをなぞる。笑いが起き、男たちの肩が落ちる。肩が落ちたところで、沙耶香が間に入り、丁寧に会釈して道を塞いだ。「本日はこれにて」
 彼らは舌打ちを飲み込み、退いた。退かせる礼。礼は、強い。

 帰路、月は雲の向こうで形を変えた。欠けた月は、完全ではないが、道を照らすには十分だ。結花は帯の鈴を鳴らし、指で角度を数えた。—退く、測る、返す、橋にする。四拍子。今日の芝居で得たのは、返すための“間”の作り方。間を作れば、笑いは飲み込まれずに流れる。流れた笑いは、明日の干潟で使える。彼女は歩を速め、港の家々の屋根の稜線を一つずつ越えていった。

 小屋の片付けの手伝いをしながら、結花は舞台の板の音を一枚ずつ耳で覚えた。硬い板、柔らかい板、節のある板。板の記憶は、足の裏で読める。足の裏で読む訓練は、干潟でも同じだ。砂の目、湿り、温度—全部が、板の癖に似ている。
 絵師は帰り際、結花に小さな硯を渡した。「君は紙に線を引く癖がある。なら、この硯を」
 「返します」
 「返さなくていい。君が返すのは、別のものだろう」
 結花は笑って受け取り、硯の重さを掌で測った。重いが、気持ちは軽い。

 港へ向かう途中、風が背中を押した。西から東へ。明日の風が、もう準備を始めている。結花は鈴を三度鳴らし、太鼓の幻聴を胸の内で鳴らした。—退く、測る、返す、橋にする。四拍子が、歩幅に溶ける。

 港に戻ると、沙耶香が短い地図を広げた。「明朝、義勇の若いのを干潟の両端に置く。槍は布巻き、声は低く。—見せるのは秩序」
 「見せる秩序があると、笑いは安心して揺れる」結花は地図に指を置く。「揺れない笑いは、鏡に届かない」
 貴之は短い読経を二つ選び、「どちらも戻りに効く」と言った。静は太鼓の皮をもう一度張り直し、華は扇の骨を調整する。空は帆布の位置を確定し、歩美は条目の余白に『明日、返す』と小さく書いた。晃太は瓶の蓋を確かめ、勇気は鐘の紐を太く結び替える。—全員の手が、同じ四拍子に入る。

 家に戻ってから、結花は短く日記を書いた。「祭の灯は芯を短く。田は深い一本。芝居は返す間。明日は、干潟で笑いを返す」。筆を置き、鏡に手を当てる。「行くよ」
 鏡は静かだったが、静けさは拒絶ではない。静けさは、拍の前の拍だ。彼女は灯を落とし、眠りの底で太鼓の音を一度だけ聞いた気がした。—戻れ。

 眠りに落ちる直前、結花はふと起き上がり、帯の鈴を掌に包んだ。掌の中で、鈴は言葉にならない音を持っている。彼女は目を閉じ、その音に拍を当てた。遅い拍、深い拍、戻る拍。—身体がそのまま歩き出す拍だ。
 窓の外、風鈴が一度だけ鳴った。偶然かもしれない。けれど、偶然に見せかけた必然は、今日幾度も見た。結花は微笑み、再び目を閉じた。明日は、笑いを返す。そして、橋にする。橋は、一人で渡るためではない。皆で渡るためにある。

 夜半、遠くで太鼓が一打、風に乗って届いた。誰の太鼓かは判らない。けれど、その一打で町全体が同じ方向へ呼吸した気がした。結花は布団の中で微笑み、心の中で鈴を鳴らした。退く、測る、返す、橋にする。拍は揃った。あとは、踏むだけだ。
 朝の匂いがまだ遠い時刻、港は静かで、しかしどこか弾んでいた。誰もが知らないふりをして、明日の拍を待っている。結花はその“待ち”を掌で撫で、眠りに落ちた。
 彼女の最後の意識は、鈴の余韻と太鼓の皮の柔らかさだった。眠りの底で、干潟が一度だけ、笑った。

 その夜の夢の中で、結花は舞台の板と干潟の砂が同じ模様で並んでいるのを見た。板の節は潮の渦に、砂の波は扇の骨に、太鼓の面は月の淵に、それぞれ溶け合っていた。彼女は板から板へ、砂から砂へ、跳ねるように渡った。渡るたびに鈴が鳴り、鳴るたびに遠くの誰かが笑った。誰なのかは判らない。けれど、その笑いは“しなる笑い”だった。割れない笑い。—目が覚めたとき、彼女はその笑いの角度をきちんと覚えていた。

 枕元の硯に指を添え、墨の気配を感じた。絵師から預かった硯は、夜でも冷たく、重い。「返さなくていい」と言われたが、彼女はやはり返すつもりでいる。返す相手は、たぶん絵師ではなく、明日の干潟だ。線を引くための道具は、線を渡すために使う。渡した線は、橋になる。橋になったら、誰かがまた別の線を引ける。そうして町は、少しずつ“言い訳しない”方へ進む。そう思うと、眠りの中の呼吸が深くなり、体の奥の拍が、港の拍とぴたりと重なった。
 明け方前の静けさは、拍の前の拍だった—そう確かめるように、遠くで誰かが、ひとつだけ鈴を鳴らした。