言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第11話_早苗を刈る
 朝靄の水田は、空を逆さに映す鏡だった。浅い水の面が、薄い雲をゆるく撫でる。畦道に立つ稲の苗は、まだ小さな舌のようで、風が吹くと一斉に囁く。結花は草鞋を脱ぎ、裾を高くからげて田に入った。冷たい泥が、足首より少し上までと登ってくる。「—惇!」
 鍛冶場から連絡を絶っていた惇は、田の端にしゃがみ込み、泥に小さな穴をいくつも開けていた。顔はまだ少年の輪郭を残し、目の縁に疲れの薄い線がある。「…すみません。僕、鍛冶場を—」
 「言葉はいらない」結花は笑って、苗束を手に取った。「競争しよう。早苗の列、私が勝ったら、君は戻る。君が勝ったら、私が口を出すのをやめる」
 惇は驚いた顔のまま、しかし頷いた。「…判りました」

 田植え勝負は、単純で、残酷だ。苗を摘み、指で根を揃え、泥に差し込む。その一連が拍になり、拍が乱れると、苗の並びは崩れる。崩れた並びは、風で倒れる。—鍛冶も同じだ。拍が乱れれば、火は怒り、刃は泣く。
 結花は最初の一列を黙って植えた。呼吸は、昨日の太鼓に合わせる。吸って、差し込み、吐いて、手を離す。惇は最初、手元を見ていたが、顔を上げ、結花の肩の動きを真似た。真似ることは、考えるより早い。考えるのは、後でいい。
 「数えない?」惇が訊いた。
 「数えると、遅くなる」結花は首を振る。「数えないと、速くなる」

 畦の向こうで、華が扇を閉じ、静が太鼓を軽く鳴らす。遠くで勇気が掛け声を出し、沙耶香が若者に足さばきを教えている。空は水門の開け閉めを見て、歩美は年貢の帳面の空白を指で撫でる。晃太は水に薬草をひとつ落として、足の痺れを軽くする。さとみは苗の間隔を見て、「刃物で言えば、合い口」と小声で言った。—皆が、田植えの拍に自分の役割の拍を合わせている。

 惇の手は、途中で何度か止まった。泥に差し込む角度が、決まらない。角度が決まらないと、泥が余計な力で抵抗する。結花は何も言わず、惇の隣の苗を一本だけ、深く植えた。深い一本は目立たないが、列の“重し”になる。惇はそれを見て、次の苗をだけ深く差し込んだ。拍が戻り、列の乱れは整った。
 「深いと、抜けにくい」惇が言う。
 「深いと、風に揺れにくい」結花は笑う。「人も同じ」

 勝敗は、最後の一列の半分でついた。惇の指が早く、正確で、並びが美しかった。結花は腰を伸ばし、泥を払い、笑った。「—勝ち。君の勝ち」
 惇は泥のついた顔で目を丸くする。「本当に?」
 「本当に。約束通り、私は口を出すのをやめる。—でも、ひとつだけ頼む」
 「なんですか」
 「鍛冶場に戻るとき、“怖い”って言って」
 惇は唇を結び、頷いた。「怖いです」
 「よし」結花は手を差し出した。「怖いを言えたら、戻れる」

 昼、畦で握り飯を頬張りながら、惇はぽつぽつと話し始めた。鍛冶場の火が高くて、音が大きくて、さとみの背中が大きくて、追いつけない気がして、逃げたかったこと。逃げる言い訳を、頭の中で何度も作ったこと。言い訳は軽くて、軽いものは水に浮くけれど、流されること。「—だから、重しが要るんだと思った。深い一本」
 結花は頷いた。「深い一本は、誰かの手で植えられていることが多い。自分の一本じゃないから、重しになる」
 惇は目を伏せ、声を小さくした。「さとみ姐さんの背中は、重しです」
 さとみは笑って、惇の頭を軽く叩いた。「重しって言うな。錘だ。錘は、動かすためにある」

 午後、結花は惇を連れて鍛冶場へ戻った。炉の火は今までと同じように熱く、ふいごの音は鼓動のように強弱を繰り返す。惇は入口で一度だけ足を止めたが、「怖いです」ともう一度言い、足を踏み入れた。さとみは何も言わず、火箸を渡した。惇はそれを受け取り、炉の中の鉄の色を見極める。その目は、田で深く植えた一本の色を覚えていた。拍が戻る。火も戻る。
 「行ける」結花は小声で言い、鍛冶場を出た。

 帰り道、田の水面で夕日が粉のように砕けていた。結花は水面に手を入れ、冷たさを指で確かめた。冷たさはまだある。退く冷たさではない。進む冷たさだ。—明日は、干潟。笑いを返す日。惇の“怖い”が、深い一本になった。深い一本があると、足は速くなる。

 夕暮れ、空が田の水門を閉めながら言った。「俺が嫌われ役をやると言っただろう。—田でも同じだ。水を止めるのは嫌われる」
 「でも、止めるから、根が張る」結花は笑う。「嫌われ者は、橋の一番強い板」
 空は肩をすくめ、「橋の釘でもいい」と言った。「釘は、抜く時に音がする。それが合図だ」

 結花は最後に、田の端でひとつだけ苗を植えた。順番外れの一本。誰も見ない場所の一本。—いつか折れそうになった時、ここへ来て、この一本の場所を確かめるために。彼女は泥を払い、鈴を鳴らし、港へ戻った。

 田植えのあと、結花は惇に“失敗の名付け”を教えた。「失敗に名前を付けると、呼び出せる。呼び出せれば、並べ替えられる」
 「並べ替える?」
 「うん。『手が震えた一列』『深さが足りない一列』『早さに負けた一列』。名前を付けたら、順番を変えられる。次は『深さが足りない一列』を先に直す、とか」
 惇は泥の上に指で字を書いた。ぎこちない字だが、線はまっすぐだ。「…『怖いを言えた一列』」
 「それは最後に残すといい。最後に残った“言えた”は、次の始まりになる」

 鍛冶場に戻る前、結花は惇を連れて町外れの小さな橋に寄った。橋板は古く、ぎしぎし鳴る。結花は板の継ぎ目を足で確かめ、どの板が最初に割れそうかを惇に示した。「—弱い板を知ると、怖さが減る」
 「減る?」
「知らない怖さは、大きい。知ってる怖さは、小分けにできる」
 惇はうなずき、橋の下を覗き込んだ。流れは速いが、底は浅い。「落ちても、立てる」
 「そう。だから渡れる」

 鍛冶場では、さとみが新しい火床の角度を試していた。西洋鋼を混ぜると、火の色が変わる。惇はそれを見て、田で学んだ“深い一本”を刃の中心に重ねるように槌を振った。槌音が、田の太鼓と同じ拍で響く。「—いける」さとみが目だけで笑う。惇の呼吸は落ち着き、肩の力は抜けた。彼は初めて、自分の拍を“自分の言葉”で説明できた。「今のは、『怖いを言えた一槌』です」
 「いい名前」結花は頷いた。

 夕方、田の持ち主の老夫婦が握り飯を差し入れてくれた。「若いのに、よう働く」と婆は言い、「若いから、働ける」と爺は笑った。惇は照れ、結花は受け取った握り飯を両手で持って頭を下げた。—橋は、礼で強くなる。礼は、拍の終止符だ。終止符があると、次の曲が始めやすい。

 夜、結花は一人で水田に戻った。月が薄く、風が弱い。水面に映る自分の顔は、昼の自分よりも少しだけ大人びて見えた。彼女は指で水を撫で、「—ありがとう」と言った。誰に、ではない。今日の拍に、だ。拍は、人と道具と天気の間に生まれる“合意”だ。合意に礼を言うと、合意は明日も戻ってくる。

 田からの帰り、結花は惇に“もしも”の稽古をもう一本だけ渡した。「もしも、さとみがいない日が来たら?」
 惇は即答できなかった。泥の道に小さな石があり、彼はそれを蹴って時間を稼いだ。「…僕が、火の高さを決める」
 「決めるのが怖いなら?」
 「怖いを言ってから、決める」
 「上等」結花は笑った。「決める前に“怖い”を言うと、決めた後に“後悔”を少なくできる」

 鍛冶場に着くと、さとみが惇に『雌雄逆転』の設計図を渡した。鍵の雌雄を入れ替える案は、結花の“枠を越える”発想から生まれたものだ。「怖い時は、図面を声に出して読め」とさとみ。「声は火の高さを決める」
 惇は図面を読み上げ、声が少しずつ安定する。声が安定すると、火も安定する。火が安定すると、刃が歌う。歌う刃は、折れない。

 夕刻、集落の子どもたちが田に集まり、年寄りが“昔の田植え唄”を教えた。拍はで、言葉は簡単だ。結花はそれに合わせて手拍子を打ち、「—遅い拍に強い」と気づく。遅い拍は、戻りが深い。戻りが深い拍は、鏡の深いところまで届く。明日の干潟で必要なのは、速さではなく、深さだ。彼女は鈴を握り、「遅く鳴らす」練習をした。

 夜、惇は結花に小さな紙片を渡した。「『怖いを言えた一槌』の次は、『任された一槌』です」
 「任された?」
 「さとみ姐さんが、火床を任せてくれた」
「おめでとう」
 「怖いです」
 「それでいい」結花は真面目に言った。「怖いは、任せられた証拠」

 帰り道、田の畦で貴之が座っていた。「泣きたい時は、山へ来い」と彼は言った。「山は、泣き言の倉だ」
 「今日は、田に預けた」結花は笑う。「明日は、干潟にも少し預ける」
 貴之は頷き、「預け先が多い者は、強い」とだけ言って立ち上がった。

 翌朝の田で、結花は草取りを手伝いながら、惇に“見えない仕事”の話をした。「刃を鍛える前に、火床の灰を掃く。田を植える前に、畦の草を抜く。見えない仕事は、拍の前の拍」
 「拍の前の拍?」
 「うん。聞こえない音符。これがあると、聞こえる音が綺麗になる」
 惇は黙って頷き、畦の草を根から抜いた。抜いた草は束ねて、田の端に積む。束ねた草は、風除けになる。風除けがあると、苗の“深い一本”が折れない。

 昼過ぎ、村の婆が古い話をした。「昔、田に鏡が落ちたことがあってねえ。水が笑って、皆が笑って、でも牛だけは泣いたよ」
 「牛が?」結花が笑う。
 「牛は、重いものを知ってるからねえ」婆は目を細めた。「重い笑いは、足を取る」
 結花はその言葉を借り、「—だから、軽い笑いで行く」と決めた。明日の干潟の笑いは、軽く、しかし芯がある笑い。子どもの笑い、歌の笑い、返す笑い。

 夕べ、惇は鍛冶場の隅で短い日記を書いた。「今日、怖いを言えた。任された。明日、返すのを手伝う」。結花は横から覗き、「いい紙」と言って頷いた。紙は、明日を連れてくる。書いたことは、身体が覚える。

 日が傾く頃、光が田に来て、畦に腰を下ろした。「比喩を一つ」と彼は言う。「田は本のページだ。苗は文字だ。行間が詰まりすぎると読めないし、空き過ぎても意味が薄い」
 「じゃあ、私は行間係」結花は笑い、惇は真剣にうなずいた。
 「俺は目次だな」空がいつの間にか立っていて、木札を振った。「どこへ行けば何があるか、先に示す」
 「私は誤植直し」歩美が帳面を掲げる。「間違いを間違いのままにしない」
 皆が笑い、拍が丸くなった。丸くなった拍は、風に強い。風に強い拍は、明日の干潟で崩れない。

 最後に、結花は惇に鈴を一つ渡した。「恐れたら鳴らす。鳴らしたら、笑う。笑ったら、続ける」
 惇は鈴を握り、深く礼をした。「続けます」
 その声は、朝よりも少し低く、芯があった。

 夜の田の端で、結花は惇と並んで星を見た。「星は、人が勝手に線を引いたのに、みんな同じ形で呼ぶ」
 「なぜです?」
 「線の引き方に、拍があるから。拍が合う線は、共有される」
 惇は黙り、「僕も線を引きたい」と言った。「怖いを言えた線、任された線、続けた線」
 「引けるよ。線は、折れても継げる」
 風が涼しくなり、田の面に小さな波が立った。結花は頷き、「—明日」とだけ言った。

 帰り際、婆が縁側で言った。「若いの、夢で田を見たら、それは良い兆しだよ」
 「夢、見るかな」惇が笑う。
 「見るよ」結花は肩を叩いた。「見たら、鈴を鳴らせ」

 家に戻ると、戸口に小さな束の稲が立てかけてあった。さとみの字で札が付いている—『深い一本』。惇はそれを両手で受け取り、床の間に飾った。「折れませんように」
 「折れても、継げますように」結花が言い足すと、惇は笑った。「継ぎ目が、橋になる」
 夜が深まり、田の虫が鳴いた。鳴き声は一定ではないが、全体としては拍になっている。拍を聞きながら、惇は鈴を一度だけ小さく鳴らした。—続ける。
 明け方、惇は夢で田を見た。目が覚めると、胸の中で鈴が小さく鳴っていた。—行ける。彼は立ち上がり、火床へ向かった。
 東の空が白む。田の鏡が微かに笑った。