第10話_籠灯を掲げる
町祭りの前夜、湊桜は灯りの数で昼を超えた。籠灯が路地に吊られ、紙の薄さに油の匂いが透ける。太鼓の音はまだ鳴らない。静は叩かない拍を整えるため、鼓面に掌を置いて歩いた。拍が始まる前の沈黙は、もっとも濃い音だ。結花は華と肩を並べ、広場の端に積まれた灯りの箱を見下ろした。今日の目的は、人の心の動きと鏡の動きが繋がるかを確かめること—そして、もし繋がるなら、どの“間”で繋ぐかを測ること。
広場の中央では、華が舞の準備をしている。衣の紐を緩め、足袋の指を一本ずつ伸ばし、汗をかく前に笑う。笑いは、観客の肩の力をほどく。ほどけた肩には、拍が入る余白ができる。
「今日は、踊りの途中で止まるからね」
「止まる?」結花が首を傾げる。
「うん。止まると、見ている人が勝手に続きを想像する。想像は、心の足」
結花は灯りの一つを選び、柳の枝の籠を開けた。芯は短く、油は半分。風はないのに、火は拍を刻む。「—鏡みたいだ」
「鏡?」
「人が動くと、遅れて動く」
結花は灯りを両手で包み、呼吸の間隔を火に合わせた。吸うときに火は小さくなり、吐くときに大きくなる。人と火が、同じ拍を持つまで待つ。待つのは、技術だ。静が遠くで、まだ叩かない太鼓を撫でる音を立てた。それが合図だった。
華が舞台に上がる。音楽はない。彼女は自分で拍を作る。右足の親指の付け根に体重を乗せて、左の肩を半分落とす。観客が息を止める。息を止める音は、拍よりもはっきり聞こえるときがある。
「止めるよ」華が囁いた瞬間、動きが空中でほどけ、宙に残った布の端が、時間を引っ張る。結花は灯りを見つめ、火の拍が一拍分、遅れるのを待った。遅れが来たところで、火に掌を寄せる。掌の影が火を包み、火はさらに遅れる。遅れすぎると消える。消える一歩手前で、結花は掌を退ける。
火は、消えなかった。代わりに、震えが細くなった。震えが細くなると、揺れやすくなる。結花は灯りを人の目線の高さに掲げ、囁いた。「—いま」
華が舞を再開する。観客の息が戻る。戻った息に、火は少しだけ先に動いた。先に動く火は、鏡よりも素直だ。結花は視線を巡らせ、祠のある方角の闇の厚みを測った。厚みは、まだ重い。重い闇には、拍をもう一層積む必要がある。
そこへ、仮面舞踏の夜に顔を見せた仮面師が、半分だけ紙を剝いだ面を抱えて現れた。「踊りに、これを混ぜてほしい」
「混ぜる?」華が仮面を受け取り、重さを量る。「軽いね」
「軽くした。半分、素顔にする練習だ」
結花は灯りを仮面の前に掲げ、影を見た。半分の影は、半分の怖さを連れてくる。怖さは、拍にすると消化できる。「仮面を、人に回して」
「回す?」
「一人三拍。つける、見せる、外す」
華が笑って頷いた。観客に仮面が回り始める。人は三拍の間だけ、自分の顔を観察する。観察は、攻撃より遅い。遅いものは、広場を壊さない。
静が太鼓の前に立った。まだ叩かない。代わりに、観客に向かって掌を見せる。掌の皮膚の皺は、拍の地図だ。「今から打つのは、祝う拍じゃありません」
ざわめきが落ちる。「詫びる拍です。—祭りの前に、詫びる」
結花は灯りを低く下げた。広場の底にいる小さな子にも見える高さ。静が太鼓を一度だけ、深く打つ。詫びる拍は、腹の底を起こし、目の高さを低くする。火の息が細くなり、灯りの芯が短い影を落とす。観客の背筋が、自然に少しだけ曲がる。曲がった背中は、折れにくい。
詫びる拍が三つ終わると、静は太鼓の縁を指で撫で、「祝う拍は明日」と言った。今日、ここで必要なのは、拍の“間”だ。拍と拍の間に、鏡は呼吸を合わせる。結花は灯りをもう一度掲げ、遠くの祠の闇へ向けた。闇の厚みが、薄くなる。薄くなれば、次は色を入れられる。
華の舞が再開する。彼女は途中でまた止まり、観客の想像に続きを渡す。渡された想像は、会場に小さな橋をいくつも架ける。橋が増えると、人の視線は滑るようになる。視線が滑ると、危険は切れる。
終盤、結花は灯りを複数に増やした。籠灯を三つ、違う高さに掲げる。低い灯りは子どもの目線、中段は大人の胸、上段は祠の方向。三つの火の拍がずれずれだったのが、静の“叩かない拍”に合わせて、少しずつ寄っていく。寄っていく速度を、人の拍手で支える。拍手は太鼓より軽く、火より速い。速さの違いが、揃う。
「仮説、当たり」結花は火を見て小さく言った。「人が動くと、鏡が動く。鏡が動くと、灯りが揺れる。—なら、灯りを整えれば、鏡の息も整う」
「明日は、太鼓が本気を出す」静が笑う。
「わたしも、言い訳を本気で使う」結花は肩の力を抜いた。「逃げるためじゃなく、橋板の“間”を増やすために」
祭りの前夜は、夜更けに近づくほどなった。人の声が落ち、灯りの火が長く細く揺れる。結花は広場の端で、灯りの一つに手をかざし、息を合わせた。火は、彼女の掌の影を吸い込み、また吐き出した。祠の方向の闇は、重いのに、薄く見えた。薄く見えるのは、明日、色が入るからだ。
華が舞台を降り、仮面師が半分の面を抱えて礼をした。「明日、もう半分、剝ぐ」
「剝ぐ前に、三拍だけ止まって」
「止まる?」
「自分に見せる」
仮面師は頷き、去っていった。静は太鼓を布で包み、光は広場の端で縄を巻いた。結花は灯りの芯を短く切り、籠を閉じた。「—明日、灯りが橋になる」
誰も答えない。誰も答えないのは、言葉より長い返事だ。結花は灯りを胸に抱え、広場を後にした。風は弱く、潮は低く、夜は“間”だけを増やしていった。
町祭りの前夜、湊桜は灯りの数で昼を超えた。籠灯が路地に吊られ、紙の薄さに油の匂いが透ける。太鼓の音はまだ鳴らない。静は叩かない拍を整えるため、鼓面に掌を置いて歩いた。拍が始まる前の沈黙は、もっとも濃い音だ。結花は華と肩を並べ、広場の端に積まれた灯りの箱を見下ろした。今日の目的は、人の心の動きと鏡の動きが繋がるかを確かめること—そして、もし繋がるなら、どの“間”で繋ぐかを測ること。
広場の中央では、華が舞の準備をしている。衣の紐を緩め、足袋の指を一本ずつ伸ばし、汗をかく前に笑う。笑いは、観客の肩の力をほどく。ほどけた肩には、拍が入る余白ができる。
「今日は、踊りの途中で止まるからね」
「止まる?」結花が首を傾げる。
「うん。止まると、見ている人が勝手に続きを想像する。想像は、心の足」
結花は灯りの一つを選び、柳の枝の籠を開けた。芯は短く、油は半分。風はないのに、火は拍を刻む。「—鏡みたいだ」
「鏡?」
「人が動くと、遅れて動く」
結花は灯りを両手で包み、呼吸の間隔を火に合わせた。吸うときに火は小さくなり、吐くときに大きくなる。人と火が、同じ拍を持つまで待つ。待つのは、技術だ。静が遠くで、まだ叩かない太鼓を撫でる音を立てた。それが合図だった。
華が舞台に上がる。音楽はない。彼女は自分で拍を作る。右足の親指の付け根に体重を乗せて、左の肩を半分落とす。観客が息を止める。息を止める音は、拍よりもはっきり聞こえるときがある。
「止めるよ」華が囁いた瞬間、動きが空中でほどけ、宙に残った布の端が、時間を引っ張る。結花は灯りを見つめ、火の拍が一拍分、遅れるのを待った。遅れが来たところで、火に掌を寄せる。掌の影が火を包み、火はさらに遅れる。遅れすぎると消える。消える一歩手前で、結花は掌を退ける。
火は、消えなかった。代わりに、震えが細くなった。震えが細くなると、揺れやすくなる。結花は灯りを人の目線の高さに掲げ、囁いた。「—いま」
華が舞を再開する。観客の息が戻る。戻った息に、火は少しだけ先に動いた。先に動く火は、鏡よりも素直だ。結花は視線を巡らせ、祠のある方角の闇の厚みを測った。厚みは、まだ重い。重い闇には、拍をもう一層積む必要がある。
そこへ、仮面舞踏の夜に顔を見せた仮面師が、半分だけ紙を剝いだ面を抱えて現れた。「踊りに、これを混ぜてほしい」
「混ぜる?」華が仮面を受け取り、重さを量る。「軽いね」
「軽くした。半分、素顔にする練習だ」
結花は灯りを仮面の前に掲げ、影を見た。半分の影は、半分の怖さを連れてくる。怖さは、拍にすると消化できる。「仮面を、人に回して」
「回す?」
「一人三拍。つける、見せる、外す」
華が笑って頷いた。観客に仮面が回り始める。人は三拍の間だけ、自分の顔を観察する。観察は、攻撃より遅い。遅いものは、広場を壊さない。
静が太鼓の前に立った。まだ叩かない。代わりに、観客に向かって掌を見せる。掌の皮膚の皺は、拍の地図だ。「今から打つのは、祝う拍じゃありません」
ざわめきが落ちる。「詫びる拍です。—祭りの前に、詫びる」
結花は灯りを低く下げた。広場の底にいる小さな子にも見える高さ。静が太鼓を一度だけ、深く打つ。詫びる拍は、腹の底を起こし、目の高さを低くする。火の息が細くなり、灯りの芯が短い影を落とす。観客の背筋が、自然に少しだけ曲がる。曲がった背中は、折れにくい。
詫びる拍が三つ終わると、静は太鼓の縁を指で撫で、「祝う拍は明日」と言った。今日、ここで必要なのは、拍の“間”だ。拍と拍の間に、鏡は呼吸を合わせる。結花は灯りをもう一度掲げ、遠くの祠の闇へ向けた。闇の厚みが、薄くなる。薄くなれば、次は色を入れられる。
華の舞が再開する。彼女は途中でまた止まり、観客の想像に続きを渡す。渡された想像は、会場に小さな橋をいくつも架ける。橋が増えると、人の視線は滑るようになる。視線が滑ると、危険は切れる。
終盤、結花は灯りを複数に増やした。籠灯を三つ、違う高さに掲げる。低い灯りは子どもの目線、中段は大人の胸、上段は祠の方向。三つの火の拍がずれずれだったのが、静の“叩かない拍”に合わせて、少しずつ寄っていく。寄っていく速度を、人の拍手で支える。拍手は太鼓より軽く、火より速い。速さの違いが、揃う。
「仮説、当たり」結花は火を見て小さく言った。「人が動くと、鏡が動く。鏡が動くと、灯りが揺れる。—なら、灯りを整えれば、鏡の息も整う」
「明日は、太鼓が本気を出す」静が笑う。
「わたしも、言い訳を本気で使う」結花は肩の力を抜いた。「逃げるためじゃなく、橋板の“間”を増やすために」
祭りの前夜は、夜更けに近づくほどなった。人の声が落ち、灯りの火が長く細く揺れる。結花は広場の端で、灯りの一つに手をかざし、息を合わせた。火は、彼女の掌の影を吸い込み、また吐き出した。祠の方向の闇は、重いのに、薄く見えた。薄く見えるのは、明日、色が入るからだ。
華が舞台を降り、仮面師が半分の面を抱えて礼をした。「明日、もう半分、剝ぐ」
「剝ぐ前に、三拍だけ止まって」
「止まる?」
「自分に見せる」
仮面師は頷き、去っていった。静は太鼓を布で包み、光は広場の端で縄を巻いた。結花は灯りの芯を短く切り、籠を閉じた。「—明日、灯りが橋になる」
誰も答えない。誰も答えないのは、言葉より長い返事だ。結花は灯りを胸に抱え、広場を後にした。風は弱く、潮は低く、夜は“間”だけを増やしていった。

