第1話_薄明に走る
初夏の薄明、湊桜の磁器市は、まだ眠っている色と起きかけの音で満ちていた。白磁の鉢が露のように積まれ、染付の皿に朝の雲がひとかけら落ちる。潮の匂いに焼き物の粉っぽさが混じるこの場所で、結花は肩に古い風呂敷を掛け、光は腰に縄を巻いて歩いていた。今日の目的は、祠の近くで噂になっている“鏡の噛みつき”の正体を、買い物客の足に紛れて確かめること。誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、どうする—足の裏で確かめながら進むのが、ふたりのいつものやり方だ。
最初の異変は、皿の山の陰で起きた。行商の老人が抱えていた手鏡の束が、包みの上からむずむずと動いた。包み紐が自分でほどけ、鏡の表が露に触れる。次の瞬間、露が形を持って、魚の鱗のように鏡の上を走った。老人が叫んで手を離す。鏡は地面で弾み、二つ、三つに割れ—はしなかった。割れずに、生き物の背のように丸く反り、露店の脚に噛みついた。
「噛みつき、だね」結花が唇を曲げる。
「どう見ても」光は縄の端をほどきながら応じた。「暴れる舟と同じだ。まずは岸へ寄せる」
人が集まり、声が高くなる。怖さの匂いは、波より速く広がる。結花は、言い訳を探した。逃げるためではない。場の呼吸をひとつ遅らせるために。「大丈夫、今日は吉日だから」
「根拠は?」皿問屋の若い衆が睨む。
「根拠は—後で持ってくる。今は、後で怒られるための時間が要るの」
若い衆は呆れて笑い、肩の力が半分抜けた。その隙に結花は露の桶を借り、片方の手で風呂敷を広げ、もう片方の手で桶の水面を揺らした。揺れは小波。鏡の背の鱗が、揺れの拍を真似する。真似をするものは、変えられる。
光は人垣の前に立ち、声の高さを半分落として言った。「みんな、皿を割らずに嵐をやり過ごしたことはあるかい?」
人々が顔を見合わせる。光は続けた。「舟が暴れるとき、舵は強く握らない。指を一本、緩める。波は敵じゃない、帰り道を探しているだけだ」
例え話は命令より効く。人の足が半歩下がり、輪がゆるむ。その間に結花は風呂敷の端を鏡の片側にかぶせ、露の桶を反対側に置いた。「水を噛んで。脚じゃなくて」
鏡は、水面に牙を立てようとした。牙は見えないが、音が出る。ちいさな擦過音。結花はその音を追いかけ、風呂敷をもう少し広げて、鏡と水の間の“喉”を作る。噛みたいものがあれば、噛む先は変えられる。
だが、鏡は一枚だけではなかった。老人の包みから、さらに二枚が転がり出て、露店の影の方へ走った。影は、影を呼ぶ。二枚が木箱を倒し、盥の水が道に流れる。子どもが滑り、誰かが叫ぶ。結花は風呂敷の端を光に投げた。
「役人の顔、できる?」
「役人?」
「怒らない役人」
光は頷き、腰の縄を肩にかけ直した。声の出し方を変える。目尻を少しだけ下げ、額の横の筋肉を休ませる。彼は、息を吸ってから、場の空気に命じるのではなく、お願いした。「道を、もう一尺、空けてください。舟に縄をかけます。—誰も罰しません」
“罰しません”の四文字が、輪を広げた。人は、罰を先に予感して動けなくなる。動けなくなれば、割れるのは皿と心だ。
結花は鏡の喉に作った風呂敷の管を、盥の水の筋へ繋いだ。水が鏡に届くより先に、音が届く。小波の拍が、鏡の鱗の順番を変える。露店の脚に噛みついていた背中が、少しだけ緩む。その隙に、結花は手製の板—割れた箱の蓋—を差し込んだ。板は舌。舌を与えると、噛む相手は噛むのをやめて舐めはじめる。舐めるものは、眠くなる。
鏡は、眠りかけた。眠りかけたところへ、三枚目が飛び込んでくる。眠りかけのものは、起こされやすい。結花は唇を噛み、「言い訳」をもうひとつ使った。「失敗したら、わたしのせい。だから、今は、誰も責めないで」
その言葉のほうが効いた。人は、責めるより先に息を飲む。息が止まれば、足が止まる。足が止まれば、割れる音は減る。
鏡を眠らせるには、もう一手が要る。結花は磁器市の端に積まれた白砂の袋を指差し、若い衆に頼んだ。「一握り、借りる」
「ただじゃないぞ」
「あとで倍、払う。今日の吉日の根拠をつけて」
若い衆は笑って砂を掴み、結花の掌に落とした。結花は砂を指の腹でつまみ、鏡の縁に細く落としていく。砂は、音を食う。鱗の擦れる音が、砂に飲まれて唐紙のようになる。なれば、眠りは深くなる。光が縄を鏡の胴に回し、老人の手を取って一緒に引いた。鏡は盥の水に顎を浸し、動かなくなった。
息が戻る。人の輪が、拍手と笑いに変わる。老人が何度も頭を下げ、若い衆が砂袋をひとつ結花に押しつける。「吉日、ほんとなら、明日も来い」
「明日は—」結花は言いかけて、口を閉じた。約束は、薄い板。薄い板は、たくさん並べると強い。今日は、板を一枚だけ置いていく。「明日の朝、祠へ。鏡の眠りを見に行く。そこで払う」
光が笑い、例え話を足す。「板は、一度に何枚も持つと落とす。今日は一枚。明日はもう一枚」
片づけが始まると、別の声が結花を呼んだ。磁器市の端で、異国の布を広げていた女が、籠灯を指差していた。まだ日も登りきらないのに、灯りは籠の中で薄く息をしている。「さっきの揺れで、こいつも目を覚ました」
結花は籠灯に近づき、柳の枝で編まれた薄い影の中を覗いた。油皿に浮かんだ芯が、風もないのに拍を持って揺れている。「…人の心が動くと、鏡だけじゃなく、灯りも動くのか」
「理屈より、拍だな」光が帽子のつばを押さえた。「太鼓が鳴れば、人が動く。人が動けば、鏡も灯りも遅れて動く」
「遅れて、ね。じゃあ、遅れを追い越させれば、逆に止まる?」
「どうやって?」
「—祭りで、試す」
磁器市を抜けると、潮が日を連れて上がってきた。結花は風呂敷を肩から下ろし、砂の袋をひとつ抱え直した。「今日の言い訳、数はいくつ?」
「三つ」光が指を立てる。「吉日の根拠は後払い。失敗は私のせい。明日は一枚だけ板を置く。—どれも、次の手の場所を教えてくれる言い訳だ」
「逃げるためじゃない、橋板の“間”を作るための言い訳」
結花は自分に言い聞かせるように呟き、祠の方角へ目をやった。鏡の眠りは浅い。眠りが浅いものは、歌で深くする。歌は拍でできている。拍は、人が持っている。
「行こう。祠に、吉日を連れて行く」
ふたりは歩き出した。露の残る石畳が朝日に乾いていく。磁器市は、割れなかった皿よりも、割らずに済んだ心の数を数えて、と店を広げていった。
初夏の薄明、湊桜の磁器市は、まだ眠っている色と起きかけの音で満ちていた。白磁の鉢が露のように積まれ、染付の皿に朝の雲がひとかけら落ちる。潮の匂いに焼き物の粉っぽさが混じるこの場所で、結花は肩に古い風呂敷を掛け、光は腰に縄を巻いて歩いていた。今日の目的は、祠の近くで噂になっている“鏡の噛みつき”の正体を、買い物客の足に紛れて確かめること。誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、どうする—足の裏で確かめながら進むのが、ふたりのいつものやり方だ。
最初の異変は、皿の山の陰で起きた。行商の老人が抱えていた手鏡の束が、包みの上からむずむずと動いた。包み紐が自分でほどけ、鏡の表が露に触れる。次の瞬間、露が形を持って、魚の鱗のように鏡の上を走った。老人が叫んで手を離す。鏡は地面で弾み、二つ、三つに割れ—はしなかった。割れずに、生き物の背のように丸く反り、露店の脚に噛みついた。
「噛みつき、だね」結花が唇を曲げる。
「どう見ても」光は縄の端をほどきながら応じた。「暴れる舟と同じだ。まずは岸へ寄せる」
人が集まり、声が高くなる。怖さの匂いは、波より速く広がる。結花は、言い訳を探した。逃げるためではない。場の呼吸をひとつ遅らせるために。「大丈夫、今日は吉日だから」
「根拠は?」皿問屋の若い衆が睨む。
「根拠は—後で持ってくる。今は、後で怒られるための時間が要るの」
若い衆は呆れて笑い、肩の力が半分抜けた。その隙に結花は露の桶を借り、片方の手で風呂敷を広げ、もう片方の手で桶の水面を揺らした。揺れは小波。鏡の背の鱗が、揺れの拍を真似する。真似をするものは、変えられる。
光は人垣の前に立ち、声の高さを半分落として言った。「みんな、皿を割らずに嵐をやり過ごしたことはあるかい?」
人々が顔を見合わせる。光は続けた。「舟が暴れるとき、舵は強く握らない。指を一本、緩める。波は敵じゃない、帰り道を探しているだけだ」
例え話は命令より効く。人の足が半歩下がり、輪がゆるむ。その間に結花は風呂敷の端を鏡の片側にかぶせ、露の桶を反対側に置いた。「水を噛んで。脚じゃなくて」
鏡は、水面に牙を立てようとした。牙は見えないが、音が出る。ちいさな擦過音。結花はその音を追いかけ、風呂敷をもう少し広げて、鏡と水の間の“喉”を作る。噛みたいものがあれば、噛む先は変えられる。
だが、鏡は一枚だけではなかった。老人の包みから、さらに二枚が転がり出て、露店の影の方へ走った。影は、影を呼ぶ。二枚が木箱を倒し、盥の水が道に流れる。子どもが滑り、誰かが叫ぶ。結花は風呂敷の端を光に投げた。
「役人の顔、できる?」
「役人?」
「怒らない役人」
光は頷き、腰の縄を肩にかけ直した。声の出し方を変える。目尻を少しだけ下げ、額の横の筋肉を休ませる。彼は、息を吸ってから、場の空気に命じるのではなく、お願いした。「道を、もう一尺、空けてください。舟に縄をかけます。—誰も罰しません」
“罰しません”の四文字が、輪を広げた。人は、罰を先に予感して動けなくなる。動けなくなれば、割れるのは皿と心だ。
結花は鏡の喉に作った風呂敷の管を、盥の水の筋へ繋いだ。水が鏡に届くより先に、音が届く。小波の拍が、鏡の鱗の順番を変える。露店の脚に噛みついていた背中が、少しだけ緩む。その隙に、結花は手製の板—割れた箱の蓋—を差し込んだ。板は舌。舌を与えると、噛む相手は噛むのをやめて舐めはじめる。舐めるものは、眠くなる。
鏡は、眠りかけた。眠りかけたところへ、三枚目が飛び込んでくる。眠りかけのものは、起こされやすい。結花は唇を噛み、「言い訳」をもうひとつ使った。「失敗したら、わたしのせい。だから、今は、誰も責めないで」
その言葉のほうが効いた。人は、責めるより先に息を飲む。息が止まれば、足が止まる。足が止まれば、割れる音は減る。
鏡を眠らせるには、もう一手が要る。結花は磁器市の端に積まれた白砂の袋を指差し、若い衆に頼んだ。「一握り、借りる」
「ただじゃないぞ」
「あとで倍、払う。今日の吉日の根拠をつけて」
若い衆は笑って砂を掴み、結花の掌に落とした。結花は砂を指の腹でつまみ、鏡の縁に細く落としていく。砂は、音を食う。鱗の擦れる音が、砂に飲まれて唐紙のようになる。なれば、眠りは深くなる。光が縄を鏡の胴に回し、老人の手を取って一緒に引いた。鏡は盥の水に顎を浸し、動かなくなった。
息が戻る。人の輪が、拍手と笑いに変わる。老人が何度も頭を下げ、若い衆が砂袋をひとつ結花に押しつける。「吉日、ほんとなら、明日も来い」
「明日は—」結花は言いかけて、口を閉じた。約束は、薄い板。薄い板は、たくさん並べると強い。今日は、板を一枚だけ置いていく。「明日の朝、祠へ。鏡の眠りを見に行く。そこで払う」
光が笑い、例え話を足す。「板は、一度に何枚も持つと落とす。今日は一枚。明日はもう一枚」
片づけが始まると、別の声が結花を呼んだ。磁器市の端で、異国の布を広げていた女が、籠灯を指差していた。まだ日も登りきらないのに、灯りは籠の中で薄く息をしている。「さっきの揺れで、こいつも目を覚ました」
結花は籠灯に近づき、柳の枝で編まれた薄い影の中を覗いた。油皿に浮かんだ芯が、風もないのに拍を持って揺れている。「…人の心が動くと、鏡だけじゃなく、灯りも動くのか」
「理屈より、拍だな」光が帽子のつばを押さえた。「太鼓が鳴れば、人が動く。人が動けば、鏡も灯りも遅れて動く」
「遅れて、ね。じゃあ、遅れを追い越させれば、逆に止まる?」
「どうやって?」
「—祭りで、試す」
磁器市を抜けると、潮が日を連れて上がってきた。結花は風呂敷を肩から下ろし、砂の袋をひとつ抱え直した。「今日の言い訳、数はいくつ?」
「三つ」光が指を立てる。「吉日の根拠は後払い。失敗は私のせい。明日は一枚だけ板を置く。—どれも、次の手の場所を教えてくれる言い訳だ」
「逃げるためじゃない、橋板の“間”を作るための言い訳」
結花は自分に言い聞かせるように呟き、祠の方角へ目をやった。鏡の眠りは浅い。眠りが浅いものは、歌で深くする。歌は拍でできている。拍は、人が持っている。
「行こう。祠に、吉日を連れて行く」
ふたりは歩き出した。露の残る石畳が朝日に乾いていく。磁器市は、割れなかった皿よりも、割らずに済んだ心の数を数えて、と店を広げていった。



