杏珠と蒼磨の脱獄計画

暗闇の牢獄で、杏珠は再び膝を抱えていた。テンの支配は砂のように崩れたはずだった。アレキサンドリアの力で、蒼磨の願いが彼女を救い出した瞬間、自由の味を感じた。だが、完全な解放はまだ遠い。テンの残滓――彼の欲望の欠片が、杏珠の心に微かな影を落としていた。

「まだ……終わってないの?」

杏珠の呟きが、虚無の空間に響く。彼女の手には新たな宝石が握られていた。深い青が揺らめくサファイア。蒼磨が彼女を救出した後、見つけたもう一つの手がかりだ。テンの世界が完全に消滅する前に、どこからともなく現れたこの宝石は、まるで杏珠を試すように冷たく輝いていた。
蒼磨は倉庫街の片隅で、杏珠の手を握りながらそのサファイアを見つめる。

「アレキサンドリアが言ってた。テンの力は完全には消えないかもしれないって……この宝石、別のフェアリーが宿ってるのか?」

杏珠は頷き、宝石を強く握る。彼女の心には、テンの影がまだ蠢いている感覚があった。まるで、彼女の恐怖や不安を喰らうように。
その時、サファイアが青白く発光し、空間が揺れた。小さな影が現れる。二頭身の姿はアレキサンドリアに似ているが、布の代わりに水のような膜に包まれ、頭部には波のような光が揺れている。テレパシーの声が、杏珠と蒼磨の頭に流れ込む。

《ボク……サフィラ。サファイアの……守り手。君たちの……心、揺れてる。助ける?》

声はアレキサンドリアよりもさらにたどたどしく、まるで水面を滑るような柔らかさがあった。サフィラの目は大きく、純粋だが、どこか深淵を覗くような神秘さを湛えている。

「サフィラ……? アレキサンドリアとは違う力を持ってるのか?」蒼磨が尋ねる。

《ボク、記憶の……水、操る。心の傷、洗う。テンの影、流せる……かも》

杏珠の目が光る。「テンの影を? 本当に消せるの?」

《試す、価値ある。君の心、強くないと……だめ。ボク、導くだけ》

サフィラの小さな手が、空中で円を描く。すると、杏珠の周囲に水のような光の膜が広がった。彼女の意識は再びテンの残滓が潜む心の深層へと引き込まれる。そこは、暗闇ではなく、まるで深い海の底のような世界だった。テンの声が、泡のように浮かんでは消える。

『お前は俺から逃れられない……』

杏珠は歯を食いしばる。だが、サフィラのテレパシーが彼女を支える。

《恐れ、流す。君の記憶、取り戻す。蒼磨さんの……愛、信じて》

サフィラの力は、杏珠の心に沈むテンの残滓を水のように洗い流すものだった。彼女の恐怖、絶望、テンの欲望に塗れた記憶が、青い光の波に溶けていく。杏珠は蒼磨との思い出――彼の温かい手、笑顔、約束――を強く思い浮かべる。それが、サフィラの力を増幅させた。

「不快不潔汚物なんて、もういらない!!!」

杏珠の叫びと共に、テンの声が水泡のように弾け、完全に消滅した。サフィラの膜が消え、杏珠は現実で蒼磨の腕に倒れ込む。彼女の目は澄み、初めて心が軽くなった気がした。

「ありがとう、サフィラ……そして、蒼磨さん」

サフィラはふわっと浮かび、満足げにテレパシーを送る。

《心、きれい。ボク、嬉しい。もう、影、ないよ》

サファイアの光が静かに収まり、サフィラの姿も消えた。蒼磨は杏珠を抱きしめ、彼女の額にキスを落とす。

「もう大丈夫だ。俺がずっとそばにいる」

杏珠は頷き、初めて心から笑った。テンの牢獄は完全に消え、彼女の心は自由だった。