杏珠と蒼磨の脱獄計画

――神など、いない。

暗闇の中、杏珠(あんじゅ)は唇を噛みしめた。彼女の手足には見えない鎖が巻きつき、この心の牢獄から一歩も外へ出させない。ここは「テン」という男の内面世界――彼が神と名乗り、支配する檻の中だ。

「……はぁ、はぁ……」

杏珠は虚ろに膝を抱え、震える指先を自分の腕に食い込ませる。皮膚が裂け、血の気が滲んでも、痛みさえも現実味を帯びない。この世界で唯一確かなのは、テンの存在だけ。彼の鼓動、吐息、欲望――全てが杏珠を縛りつける。

ふと、空間が歪んだ。

「杏珠。また、苦しんでいるのか?」

低く響く声。テンが現れる。黒ずくめの聖職衣をまとった巨躯の男。その手は常に胸元に触れ、まるで何かを確かめるように撫で下ろす。彼の指先が神父服の上を滑るたび、杏珠の内側に鈍い疼きが走った。

「……触らないで」

杏珠が呟くと、テンの唇が緩む。

「お前の声は、いつも俺のここを震わせる」

彼は自らの左胸を押さえ、艶やかに舌を這わせた。その仕草は祈りにも似て、しかし明らかに淫らだ。杏珠は目を背けようとするが、テンの次の動作で喉が詰まる。

――ぐちり、と音がした。

テンがズボンの前を擦る。布の皺、蠢く指の動き。杏珠の腹部が熱を帯び、自分ではない誰かの快楽が胃を抉る。

「やめて……!」

「どうしてだ? お前は俺の中にいる。俺の悦びはお前のものだ」

テンはゆっくりと自慰を続ける。そのたび杏珠の体が軋み、膝から崩れ落ちそうになる。彼女の呼吸が荒れ、額に汗が浮かぶ。

(蒼磨さん……)

現実で待つ彼氏の名を頭の中で反芻する。蒼磨(そうま)はきっと、今も彼女を探している。この狂った神父の呪縛から引き剥がすために――。

「……逃げる」

杏珠が歯の間で噛みしめた言葉に、テンの動きが止まる。

「何だと?」

「私は……絶対に、ここから出てみせる……!」

次の瞬間、テンの手が杏珠の喉元に襲いかかった。が、それは彼女の肌を貫かず、胸中の奥深くへと沈んでいく。内側から締め上げられるような圧迫感。杏珠はのけ反り、涙を零す。

「愚かな娘だ」

テンが嗤う。

「お前は既に俺の一部だ。脱獄など、夢のまた夢」

そう言い残し、彼の姿が霧散する。

味な余韻だけが杏珠の体にまとわりついた。

――だが、杏珠は諦めない。

「……違う」

震える指先で、自分の腕を掴む。血の気のない肌に、かすかな温もりを感じる。

(蒼磨さんの手は、もっと……暖かい)

現実の記憶が、かすかな光のように心を照らす。蒼磨との約束、交わした言葉、触れ合った温もり――それらはテンの支配するこの世界では決して再現できない「現実」の欠片だ。

杏珠はゆっくりと立ち上がる。足元に広がる暗闇は、まるで彼女の影のように蠢いている。

「ここは、あんたの心の中……でも、私の心は、まだ私のものよ」

彼女がそう呟くと、暗闇の一部がかすかに揺らめいた。

(……気づかれたか?)

テンの世界は完璧ではない。彼の欲望や執着が形作ったこの牢獄には、矛盾やほころびが潜んでいる。杏珠はこの数日間、ただ怯えるだけでなく、この世界の「法則」を観察していた。

――テンが強い感情を抱いた時、空間が歪む。
――彼の意識が杏珠から離れる瞬間、鎖の重みが軽くなる。
――そして何より、彼女自身の「抵抗」が、この世界に微妙な亀裂を生む。

杏珠は唇を噛んだ。

(次こそ……)

テンが再び現れるのは、きっと彼が性的な興奮を覚えた時だ。その瞬間こそが、彼の支配が最も強く、しかし同時に最も脆くなる時――

「待っていて、蒼磨さん……」

杏珠は静かに目を閉じ、次の機会を待つ。

(私は必ず、この檻を壊す)

暗闇の中、彼女の決意だけが炎のように揺らめいた。

――神など、いない。だが、脱獄の可能性は、確かにここにあった。