第七話「鬼神の報せ」

 朝霧は、眠っているふりをしただけで、何ひとつ隠してはくれなかった。
 空堀は白い気配で満たされ、ぬかるみは足の下で音もなく形を変える。泥は何でも受け入れるが、何も記憶しない。記憶しない地面の上でこそ、沖田静はよく動く。踏み出すたび、靴底が吸い込まれ、放され、短く鳴く。その小さな音のほうが、咳や怒鳴り声よりも正確だった。
 小隊同士が堀の底でぶつかった。槍の穂先が泥に沈み、持ち手の指が強張って、肘の内側が遅れる。遅れのほうへ、静は潜る。低く、膝の高さへ沈み込み、膝裏の薄い皮膜を一息で断った。倒れる身体が泥に吸われ、両腕が空を掴もうとして空を掴めない。倒れた者の槍を踏んで前に出る。踏まれた木が短く悲鳴を上げ、その悲鳴が空堀の白にほどけて消える。
「右――」
 背で今村春一の気配が動く。短盾が側面からの打撃を受け止め、革の匂いが霧の湿りに重なる。盾の重みが彼の肩に均等に入り、その均等さが隊の呼吸を揃える。
 前に出る。泥が跳ね、ふくらはぎに冷たさが散る。噴き上がった泥はすぐ落ち、落ちて、消える。消えるものは信じられる。残るものは、あとでこそげ落とすしかない。
 槍の穂が、また沈んだ。沈む前に、静は柄を斜めに払った。払った勢いで穂先がぶれ、ぶれた先が敵の袖をかすめ、袖の中の二の腕が緊張の形で固まる。固まる筋肉は、次の合図になる。合図の斜めに、刃を置く。置く、だけ。押さない。押せば、長くなる。長くなれば、鈍る。
「下! 泥!」
 誰かの叫びが、遅れて届く。遅い叫びは、役に立たない。役に立たない音を背にしながら、静は泥の浅い場所へ細く入り込む。浅い泥は足を借りられる。借りた足で、ひとつ終わらせる。
 空堀の斜面が、短く崩れた。砕けた土が滑り、根の細い毛が空に露出する。露出した根は、どこか人の静脈に似ていた。似ていると気づいた瞬間には、もう刃は戻されている。戻された刃の背に、霧の水滴がひとつ付いた。水滴は冷たい。冷たいものは、現実だ。
 土塀の角――そこで、音が変わった。横薙ぎの矢が、霧を切って走る。矢の羽根が泥を噛んで、泥の黒を細い線で空中に引いた。瞬きのあいだに、春一の手が静の襟を掴み、地面が近づく。引き倒される。背に土の冷たさ、頬に霧。矢の音は頭上で遠のき――遠のかなかった。
 ぶす、と低く潰れた音。春一の肩口に矢が深く入った。矢羽が肩甲の上で震え、泥が羽根に貼りついたまま、震えの形で残る。春一は一瞬、息を吐いた。吐き方は、笑いに似ていた。
「行け」
 声は短く、命令というより、道の形を示す。
 静は頷いた。頷きと同時に、体がもう角に向かっていた。矢の出所――土塀の角から少し引いた細路。塀の裂け目が、藁束の影を引いている。影の厚みで人数が分かる。二。
 走る。泥が跳ね、足音は短い。短さの連続で、間が消える。消えた間に、石を拾った。拾う動きは斜め下、投げる動きは斜め上。藁束の陰に潜む弓手の顔が、反射で上を向く。石が瓦に当たり、乾いた音が一度。顔が出る。そこへ、間を詰める。詰めながら、鞘で喉を打つ。喉の奥の音が潰れて、体が素直に膝を折る。
 二人目は賢い。弦を引き切る前に、後ろへ下がった。その賢さのために、弦はまだ弱い。弱い弦に切っ先を沿わせる。弦が切れ、音が切れ、狙いが消える。倒れる身体から矢筒を蹴り離し、革の匂いが霧に溶ける。矢筒が地面を転がり、矢の羽根に泥が貼りつく。羽根は泥を嫌う。嫌悪の角度で、矢が無力になる。
 戻る。戻り路の土塀は、霧で重くなり、角の苔が湿っていた。春一は土塀にもたれて座り、血が手甲を伝って滴っていた。滴りは一定ではない。一定にしないのが、身体のやさしさだ。静は膝をつき、矢の柄を手で押さえ、矢尻の向きと肉の入り方を確かめる。入っている角度が悪い。抜けば、長くなる。長くなれば、失う。
「抜かない」
 彼は決めた。布切れを噛ませ、肩を固定する。紐が血で硬くなる前に、形を決める。
「立てますか?」
 春一は笑った。歯は見せない。
「立つさ」
 立つと言った声が、短いのに、深かった。深さは、ここまで連れてきた時間のぶんだけあった。
 退却の合図が、隊のうしろから短く飛んだ。静は春一を支え、立たせる。立つことは、戦いの半分だ。半分ができれば、もう半分は体がやる。退く最中、土塀が崩れた。崩れる音が雨になり、瓦が本当に雨のように降った。角の冷たさが肩に当たり、腕に当たり、脚に当たる。春一が最後尾を守り、静は前へ。瓦の角は冷たい。冷たさは鈍さと違って、すぐに消える。消える痛みは、いま無視できる。
「曲がる!」
 角を曲がる瞬間、春一が短く声を上げた。膝が落ちる。土と血の匂いが濃くなり、世界が急に狭くなる。狭くなった世界では、呼吸の幅が合わなくなる。合わない呼吸を、静は数で合わせようとした。ひとつ、ふたつ――数が出ない。胸の奥で何かが固く膨らみ、数を押し返した。
 駆け寄る。春一の唇が濡れ、目が静を見た。焦点は、まだ、ある。あるうちに、春一が笑った。笑って、言った。
「数、数えるな」
 言葉は短い。短いのに、残酷なほど優しい。
「今は……俺だけ見ろ」
 静は喉で返事をした。
「……はい」
 時間が、薄く伸びた。伸びるものは嫌いだ。嫌いだが、今は伸びる。伸びた時間の中で、春一の瞳から焦点が抜けた。肩が軽くなった。軽さは、悪い予感に似ている。悪い予感のほうが、いつも当たる。静は何も言わず、春一の目を閉じさせ、手甲の紐を結び直した。紐は血で固まり、指の腹で押しても動かない。動かないものは、誓いに似ている。似ているだけで、違う。
 遠くで鐘が鳴った。一定の間隔で。風が頬を打った。頬が熱いのか冷たいのか、分からなかった。数を数えようとして、数が出てこない。胸の内に熱いものがせり上がる。それが涙という名を持つのか、まだ分からない。ただ、立ち上がったとき、笑いはどこにもなかった。骨のきわにすら、上がらなかった。
 堀の底の泥は、何も記憶しないはずだった。だが、春一の足跡だけは、なぜか目に見えて残った。残ったと感じたのは、自分のせいだ。踏まない。踏めば長くなる。長くなれば、鈍る。鈍れば、じぶんが、ずれる。
「運ぶ」
 彼がよく言った言葉が、耳の内側で生きていた。薪でも、人でも。運べると言って、いつも先に道を開けた。いま、道は狭い。狭い道は、刃を短くする。短くなった刃は、世界を汚さない。汚すな――春一の背が、何度も教えてくれた。
 静は春一の肩をもう一度押さえ、そっと地面へまっすぐに置いた。手甲の紐は、もう解けない。解けない紐を結び直すという無駄は、彼にとって初めての祈りに似ていた。祈りは要らない。要らないが、今は、置いていくわけにいかない。置いていけば、ここで終わったものが長く残る。残らせないために、短く結び、短く折り、短く息を吐く。
 隊が乱れぬよう、静は声を出した。
「前へ」
 いつもの声と同じに出したつもりだった。ちがった。声の重さが、喉の内側に引っかかり、角張っていた。角は、刃の辺とよく似ている。似ているのに、切れない。
 土塀の崩れ礫が足に当たる。瓦の角が膝に刺さり、布が切れる。切れた布の端が風に揺れ、春一の血の匂いを捕まえて放さない。捕まえた匂いが、鼻の奥に白く残る。白い匂い――血の金気と泥の冷たさが混ざると、なぜか白いものを思い出す。白装束。白い背。白い死神。子どもの落書き。全部が、いまは遠い。
 空堀の斜面を上がる。上がるたび、ふくらはぎが拒む。拒む筋肉に、命令をする。命令は短く。短い命令は、身体に馴染む。動く。動くたび、春一の「数、数えるな」が耳のどこかで合図を出す。いまは数えない。数えれば、終わりの形が崩れる。崩れた形は長く残る。残せない。
 土塀の向こうの細路に出た。藁束が二つ、無造作に転がっている。さっきの弓手の影は、もうない。矢筒が泥に半ば埋まり、革の匂いはまだ温かい。温かさはすぐ消える。消える前に、彼は蹴って溝へ落とした。落とされた矢は、明日には誰にも拾われないだろう。拾われないものだけが、安心だ。
 前を走る僧兵が振り返り、静の目を見た。見てはいけないものを見てしまったという顔――それが、隊の呼吸を乱す。乱れる前に、静は視線を下げた。泥の表面がわずかに光り、そこに小さく自分の顔が揺れている。揺れは、笑いに似ていた。似ていただけだ。頬は上がらない。上がらせない。骨のきわは、今夜いっぱい沈黙させる。
 退却線の先で、また塀が崩れた。降る瓦の雨は、さっきより大粒だ。音が大きい。大きい音は、勇気を奪う。奪われる前に、音の手前で動く。春一がいつもそうしたように。いつも、先に通り道をつくったように。
 角を抜けたところで、静は足を止めた。止める理由は、ない。理由を探すと、長くなる。長いものは、今はいらない。ただ、止めた。止めて、振り向かない。振り向けば、長くなる。背中だけで、春一がもういないことが分かってしまうから。
 鐘がまた鳴った。一定の間隔で。遠い。遠さは、やさしい。やさしいものに甘えないよう、彼は短く吸って、短く吐く。吐いた息が白くないのが悔しい。白い息は、冬のほうにだけ許される。いまはまだ、秋の残り香が泥の中に温度を持っている。
 小隊の最後尾を、別の僧兵が受け継いだ。盾の革は、春一のものより少し固い。固さは、未熟さだ。未熟さを責めると、隊が壊れる。壊れないように、静は前へ出た。前へ出ながら、背中に人間の形の欠落をはっきり感じた。欠落は風と似ている。見えないのに、絶えず押す。押されながら、歩く。歩きながら、刃の角度を変える。
 細路はやがて、市壁の影に合流した。影は濃い。濃い影の中では、呼吸が大きくなる。大きくなる呼吸を、短い数で切る。ひとつ、ふたつ――いや。
 数えるな。
 耳の奥で、春一が笑う。笑って、叱る。叱り方はやさしい。やさしい叱責ほど深く刺さる。
「運べる」
 小声で繰り返す。いま運ぶべきなのは、隊。自分の足。刃の線。春一が最後に残した形。形は、短い。短いから、強い。強いものは、すぐ消える。消えるから、残る。残るのは、動きの癖だけだ。
 坂を上がり切ったところで、静は立ち止まり、空を見なかった。空は、見れば長くなる。代わりに、土塀の礫の一つを拾った。冷たい。冷たさは、まだ要る。頬に当てた。温度が分からない。分からないという事実だけが、ここにある。事実は短い。短いものだけが、正確さを持つ。正確さだけが、彼に残された居場所だ。
「静」
 隊の誰かが呼ぶ。
「――大丈夫ですよ」
 喉が答える。答えの形は、いつもの形に似せた。似せた言葉が、隊の足を前に出す。出された足の音のなかに、春一の歩幅が混じっている気がした。混じって、すぐに消えた。消えるのが、やさしさだ。
 空堀の縁から遠ざかるほど、朝霧は薄くなっていった。薄くなる霧が、いまだけ記憶を赦す。赦しは、短い。短いあいだに、静は自分の手の甲を見た。泥と血で汚れて、爪の隙間に黒が残っている。黒は、落ちにくい。落ちにくいものは、明日に持ち越される。明日――その二文字は、いま、刃の外だ。
 市の角をいくつも抜け、隊は安全と呼べるほどではない場所で、ようやく呼吸を整えた。整えるための空気は、浅くて、冷たい。冷たさに感謝する。冷たいものは、熱を証明してくれる。証明がなければ、情は嘘になる。嘘を嫌うのが、彼の冷淡さだ。冷淡は、薄い礼儀に似ている。礼儀を持って、彼は白装束の裾の泥を払わなかった。払えば、長くなる。払わないで、前を見た。
「報せるか」
 誰かが言った。
 春一のことを、という意味だ。
 静は首を振らなかった。振れば、長くなる。代わりに、木の鳴きを探した。白鞘の木。指で弾けば、いつも小さく鳴く。今朝は鳴かない。鳴かないものの側に、彼は立つ。立って、短く言った。
「行ってきます」
 誰にも向けていない。いつもと同じ。いつもとちがうのは、背中に返る声がないことだけ。声のない背中は、風になる。風になった背中が、頬を打ち続ける。頬が熱いのか冷たいのか、まだ分からない。
 蓮華宗の庫裏へ向かう道は、薄い陽が差して、土塀の影がはっきりした。影は、春一の背と同じくらい正直だ。正直なものに、彼はいつも救われる。救いは、終わりの中にしかない、と僧正の夜に知ったはずなのに、いまは形を持たないまま、胸の裏で熱に変わっている。熱い。
 これは、何だ。
 名がない。
 名がないのは、よい。名は形だ。形は、断てる。断てば、声は消える。消えないものだけが、内側に残る。
 書院の前に立つと、風が変わった。緋の袈裟のほつれを押さえながら、蓮光が戸口へ出る。目が短く動いた。動きの最後に、すでに知っている者の目になった。
「――そうか」
 言葉はそれだけでよかった。よくて、痛かった。
「報せ、受け取った。おまえの背で」
 蓮光の声は、個を慰めず、隊を責めず、ただ出来事だけに触れた。出来事に触れる声は、冷たい。冷たさは、彼の純粋に似ている。
 静は頷き、問わなかった。問えば、長くなる。長くなれば、鈍る。鈍れば、春一の終わりがずれる。ずれた終わりは、残酷だ。春一の終わりは、彼自身の言葉で締められた――数を数えるな。今は、俺だけ見ろ。
 見た。
 見たから、もう数えない。今日だけは。
 蓮光が火鉢に手を翳す。灰が白く揺れ、炭の赤が薄く呼吸する。
「鬼神の報せは、たいてい遅れて届く」
「はい」
「だが今朝は早かった」
「はい」
「おまえが運んだからだ」
 静は、はじめて、胸の奥の熱に名前があるかもしれないと思った。思っただけで、名づけなかった。名づければ、長くなる。長くなれば、鈍る。鈍れば、刃が曲がる。曲がった刃では、春一の背に報いることができない。
「これからも、運べ」
 蓮光は言った。
「斬る前に運べ。終わらせる前に、道をつくれ。春一のやり口は、宗の血にもなる」
 宗の名、という言葉が、灰の上で小さく跳ねた。跳ねた音は、鐘の間隔と同じだった。一定で、遠くて、やさしい。
 庫裏を辞したあと、静は庭に出た。砂紋の箒目は新しく、波はまだ誰の足も受け入れていない。受け入れられる前に、石の縁だけを踏む。波は崩れない。崩れない波の縁に、白装束の裾が一瞬、美しく触れた。
 鬼神――誰かが自分に貼った名。名は形だ。形を断てば、声は消える。
 だが、今朝は――
 名の外から届いた。春一という、人の背の形で。
 空堀の白は、陽に溶けだしていた。泥は乾けば割れ、割れ目に風が砂を運ぶ。割れ目は地図に似る。地図は、道を選ばせる。選べるうちは、生きている。生きているなら、行く。
 行きながら、数えない。
 笑いは、骨のきわにひっそり沈んだままだ。
 上がらない頬が、今はちょうどいい。頬の筋を休ませたかわりに、背中の筋肉が、いつもより少しだけ正確に動く。正確さだけが、彼の居場所だ。居場所を失えば、彼は何者でもなくなる。何者でもない時間を、春一は「今は、それでいい」と言ってくれた。今は。
 今は、運ぶ。
 春一の報せを、背に受けて。
 堀から離れ、町筋に入ると、人の声が増えた。増えた声のなかに、犬が一度だけ短く吠える。応えない吠えは、昨夜の橋の下と同じだった。変わらないものがあると、呼吸が整う。整った呼吸で、彼はいつものように呟く。
「行ってきます」
 誰にも向けない挨拶は、今朝だけは、風に返された気がした。風は、背から頬へ回り込み、目の奥の熱を冷まさない。冷まないまま、彼は歩く。歩いて、運ぶ。運んで、斬る。斬って、終わらせる。終わらせて、また運ぶ。
 そうやって、鬼神の報せは、今日も薄く、確かに、街じゅうに行き渡る――白い背が、一度も笑わずに通り過ぎたという、それだけの報せとして。