名もなき剣に、雪が降る ― 天文蓮華戦乱記

第三話「生まれ落ちた火種」

 火打石の音が、二度、三度。
 湿った空気の継ぎ目で光が跳ね、油の匂いが路地に薄くのびる。
 京の市中、西の空はいまだ鉛の雲で縫い止められ、軒から落ちる雨は細く長く、糸を引くように続いていた。路地の奥に、見慣れぬ旗が少しだけ覗く。赤錆のような朱に黒の線が重なり、中央に描かれた蓮弁はつめたく固い。――本願寺系に連なる「西方浄院衆」の旗である。
 白装束の男は、雨樋の下に立っていた。
 沖田静。
 長い髪を一つに束ね、袖をたくし上げることもなく、白のまま濡れもしない。雨樋の口から滴る雨粒を指でひとつ弾き、落ちる速さと重さを量る。
 雨は、いい。音の層を増やして、刃の入る隙間を作ってくれる。
「にごっている」
 小さく言って指を払う。雨粒が空気の薄膜を突いて、地面の泥に淡い円を描いた。円は、ゆっくり外へ広がり、やがて別の円と重なって形を失う。
 火打石の音がまたひとつ。
 油の匂いが濃くなる。旗の下で、誰かが火を起こした。湿った木に火はすぐ移らない。油を足す。その匂いは、刃の匂いの手前にある。
 ――いますね。
 静は雨樋から身を離し、白鞘の柄巻にわずかに触れ、すぐ手を引いた。
 癖は、長さになる。
 長さは、重さになる。
 重さは、鈍りになる。
 今日は短く、正確に。火の匂いがそう言っている。
     ※
 四つ角は、いつも最初にうるさくなる。
 上下左右から声が集まり、足が集まり、視線が集まり、やがて刃が集まる。
 上階の格子窓から、女の声が落ちた。
「子を頼む――!」
 短い叫びは、言葉というよりも息の形で、雨の層に混じってすぐに崩れた。
 地上では、肩衣で顔を覆った男たちが動く。目だけがぎらつき、口は布に隠れて見えない。
 西方浄院衆の旗の下に集う者たちと、蓮華宗の町衆、それに雇われの浪人たち――それぞれの論理が、雨のなかで混ざり、境界を失い、ひとつの騒音へと変わっていく。
 静は、騒音のなかを歩いた。
 命じられた標的リストは、胸の内側にだけ在る。薄墨の字は、雨で滲まない。
 視界の周辺で叫びが立ち、涙がこぼれる。
 それらは眼の端で輪郭を曖昧にし、中心には入らない。
 中心に入るのは、刃の反射と、足の角度と、衣の裾の重さと、火の成分だけ。
 ――今日の火は、油が多い。
 滑る石畳に草履の歯がわずかに沈む。濡れた草履が鳴らす小さな音が、拍子木の代わりに胸の内で刻まれる。
 四つ角の中央で、ひとりが転んだ。
 倒れた拍子に袖がめくれ、手首の痣が出る。
 静はそこを見ない。痣は目印だが、今日の標的にはない種類の色だ。
「子を――!」
 上の格子窓で女がもう一度叫び、雨に濡れた木枠がわずかに軋む。
 静は一度だけ顔を上げた。
 格子の向こう、幼い手が二つ、木の縁を握っている。
 その手は白く、指先が少し紫がかっている。
 息を止めて見つめるだけで、助けになどならない。
 だから、彼は目を戻した。
 標的の背は、雨の層の向こうに必ずいる。
「終わる方で」
 呟きは、歯の裏で溶けた。
     ※
 港の小屋は、海ではなく川に面している。
 川風は染みと匂いを運ぶ。昼に火を焚いた油の残り香が、木の壁の節目からまだ微かに出てくる。
 扉には縄の手がかり。引けば、軋む。押せば、鳴く。
 静は押さない。
 縄に指をかけ、扉を半寸引いた。
 隙間から、湿った木の匂いと、遅れて人の息の重さが出た。
 標的の連絡役は、意外にも齢を重ねた僧だった。
 禿げた頭に薄い産毛が残り、瞼の皮は厚く、口は大きい。
 僧は刃を構えない。
 扉を背で塞ぎ、静の目を正面から受ける。
「私は、まだ行くべきところがある」
 うそぶく、と言うには声が静かすぎた。
「我が身に意味があると、まだ思いたいのだ」
 静は一歩で距離を詰めた。
 柄頭が、僧のこめかみに吸い込まれる角度は、脈を外すほどに浅く、意識だけを切るほどに正確だった。
 鈍い音が骨の裏で跳ね、僧の膝が先に落ちる。
 口から、油紙包みが転がった。
 包みは、扉の下の段差で一度跳ね、湿った床の上に音を置く。
 静は拾い上げ、軽く振る。重さは紙と薄い木札と、何か硬いものひとつ。
「意味は、終わるときにしか見えません」
 静かに言って、包みを袖に収める。
 僧の胸は上下している。呼吸の音は浅く、しかし整っている。
 殺してもよかった。
 けれど、今日の火は油が濃い。火の方が、すぐに奪うだろう。
 奪うべきは、場所ではない。今日は言葉だ。
 言葉が、終わる。
 戸口の隙間から、雨のにおいが戻る。
 遠くで拍子木が鳴った気がした。
 あるいは、濡れた草履が土を離れる音が胸のうちで反響しただけかもしれない。
     ※
 小屋を出ると、雨は上がっていた。
 空の色は変わらない。雲はまだ低く、光は地面に届くまでに薄い膜で濾される。
 血だまりの上に、雨の名残が落ちた。
 水面が、同心円をひとつ、ふたつ、みっつと描く。
 静は立ち止まり、円の中心が消えないことを確かめるように、長く見つめた。
 中心はいつも、最後まで残る。
 最後に残ったものだけが、意味と呼ばれる。
 だから、彼は中心を見ていた。
「まだ、消えない」
 独り言のように呟く。
 指先を伸ばし、円が完全な輪になる瞬間を待つ。
 輪が閉じたとき、刃の角度がひとつ決まる。
 彼にとって、世界はいつもそうやって整う。
     ※
 四つ角を離れ、裏長屋へ出る。
 壁は湿り、土は捏ねられて滑り、木の柵はあちこちで割れている。
 壁の一角に、泥で描かれた落書きがあった。
「白い死神」
 稚拙な字。筆は手のひらか、棒の先だ。
 その横に、幼い手で描いた蓮花。
 花弁は丸く、中央に点が打ってある。
 子供が何かを見て、知って、書いた。
 静は一瞥し、通り過ぎた。
「しろいの、こないで」
 乾いた声が地面の高さから聞こえた。
 板塀の隙間の向こうに、子が膝を抱えている。
 髪は濡れ、頬に泥が付いている。
 静は立ち止まり、しかし振り向かない。
「……行きませんよ」
 声は柔らかく、しかし風よりも短い距離で消えた。
 濡れた草履が、もう一度だけ鳴る。
 草履の歯に泥が溜まり、歩くたびに形を変える。
 同じ道は、二度と踏めない。
 彼はそれを楽しんでいた。
 楽しみは、罪ではない。
 だが、楽しみは彼をどこにも繋がない。
 繋がらないから、彼は斬る。
 斬るときだけ、世界が自分へ寄ってくる。
     ※
 西方浄院衆の旗は、夕刻になっても路地の奥に残っていた。
 旗を支える竹は濡れ、布は重く、風がないのにわずかに撓む。
 旗の根元で、肩衣の男がひとり、火打石を指の腹で弄んでいた。
 石と火口の間で火は起きず、ただ金属の匂いだけが指先に移る。
 男は顔を布で覆ったまま、目だけで周りを測る。
 そこへ、静が影のように立った。
「終わりましたよ」
 淡く言う。
 男の目だけが大きくなり、布の奥で呼吸が浅くなる。
「……何を」
「今日の火です」
 静は視線を旗の布へ移し、指先で空の湿りをひとつ掬った。
「火は、もう移らない」
 男は火打石を落とした。
 石は土に沈まず、濡れた上を滑って止まった。
 静は拾わない。
 背を向け、旗の影をまたいで歩き出した。
 旗の影は、彼の白を汚さない。
 汚してはいけない、のではない。
 汚れない角度で、彼はいつも歩いている。
 角度は、刃を守る。
 刃は、彼を守らない。
 守らないから、彼はいつも孤独だ。
 孤独は、軽い。
 軽いものは、よく飛ぶ。
 飛ぶものは、よく落ちる。
 落ちる場所を探すのが、今日という日だ。
     ※
 港小屋から持ち出した油紙包みは、袖の中で重さを保っていた。
 静は人目のない軒の影に入り、包みの蜜の封を爪で弾いてほどく。
 和紙が湿りを吸って、指先に気持ちのいい抵抗を残す。
 中には薄い木札が二枚、紙に包まれた粉末が少量、そして短い文が一本。
 木札には三つの名。
 紙の粉末は火口を早く燃え上がらせるためのものだ。
 文は、西方浄院衆からどこかへ宛てた伝書で、書き手は年を経た僧侶の手だろう。筆の運びは遅く、字は強い。
《明朝、四つ角。拍、三つで合図》
《子を囮に》
《終われば、蓮の印を》
 静は一度、眼を閉じた。
 拍は三つ。
 合図が音であるのは、救いだ。
 音は、刃の外側にある。
 刃は音の内側にある。
 内側にあるものは、変えられる。
 木札の名のひとつは、すでに終わっている。
 残りの二つは、まだ「生きている」。
 生きているものは、いつも重い。
 彼はそれを袖に戻し、背筋を伸ばした。
     ※
 雨上がりの空は、けっして晴れない。
 だが、晴れない空は、刃の光を均一にする。
 均一な光は、影の境目をはっきりさせる。
 影の境目がはっきりすれば、刃の角度はまっすぐ決まる。
 静は、四つ角へ戻った。
 上の格子窓は閉じられ、女の声は消え、子の手は見えない。
 地面に残った同心円だけが、まだうすく震えている。
 中心は、ぎりぎり残っていた。
「よかった」
 心のどこかで笑いが点き、すぐに消えた。
 四つ角の端で、濡れた草履を脱いで干している男がいた。
 男は静の白を見て、視線を落とす。
「……兄さん」
 蓮華宗の下っ端だ。
「今日のことは――」
「終わりです」
 静は遮らない。ただ、短く言う。
 言葉はすぐに終わる。
 終わった場所に、次の刃が立つ。
     ※
 裏長屋をもう一度抜ける。
 泥の蓮花は、雨上がりの光で輪郭が甘くなっていた。
 花弁の中央の点は、子の指の跡だ。
「しろいの、こないで」
 さっきの声が、まだ板塀の隙間に残っている気がする。
 静は足を止めない。
 止めれば、今度は自分が点になる。
 点は、消える。
 彼は点にはならない。
 円を見ている。
 円の外に立っている。
 外に立つ者は、いつでも入れる。
 入るときは、短く。
 短く入れば、長く斬れる。
 路地の端で、老婆が布を絞っていた。
 老婆は静を見て、目を細め、何も言わない。
 言葉がないのは、救いだ。
 言葉は刃の側に落ちる。
 落ちた言葉に、刃は触れない。
 触れずに、通る。
     ※
 夕暮れ、旗は降ろされ、火は消され、油の匂いだけが路地に薄く残った。
 静は橋の袂に立ち、川面に映る空の皺を眺める。
 同心円が、ゆっくり広がり、別の円に溶け、また現れ、また消える。
 中心は、いつも最後に消える。
 その法則がある限り、刃は正確でいられる。
 正確でいることが、彼に残された唯一の「居場所」に似た。
 居場所は、名ではない。
 名を捨てたときから、彼の居場所は「斬る場所」にだけある。
 斬る場所は、どこにでもある。
 どこにでもあるのに、たったいま、ここにしかない。
 それが、彼にはおもしろくて仕方がない。
 おもしろさは、罪である前に、命をつなぐ糸だ。
 糸は細い。
 細い糸はよく切れる。
 切れるから、結び直す。
 結び直すのに、刃を使う。
「生まれ落ちた火種は、いつも湿っている」
 独白は、欄干に染み込み、川風に薄められる。
「湿っているから、すぐには燃えない。だから、みんな油を足す。足せば燃える。燃えれば、終わる」
 指で欄干の木目をなぞり、そこに見えない円を描く。
 円は刃の外側で回り、刃は円の中心に立つ。
 中心は、最後に消える。
 彼は、笑う。
 飄々と、ひどくあどけない笑みで。
     ※
 夜、古い祠の前。
 紙垂は雨を吸って重く、木彫りの蓮は煤けて艶を保つ。
 静は刀身を抜き、布で拭う。
 刃は冷え、指先の体温を少しだけ奪う。
「良い夜です」
 祠に向かって一礼はしない。
 かわりに、刃先を空へ向け、欠けがないことだけを確かめる。
 火は消え、円は消え、言葉は消え、名は最初からない。
 残っているのは、角度と、長さと、重さと、匂い。
 それが揃うときにだけ、彼は居られる。
 居るために、斬る。
 斬るために、笑う。
 笑うために、孤独である。
 孤独は、軽い。
 軽いものは、よく飛ぶ。
 飛ぶものは、よく落ちる。
 落ちる場所は、また明日、音が教える。
 遠くで、拍子木がひとつ鳴った。
 どこかの誰かが結び目を作ろうとしている。
 彼は鞘に刃を納め、白装束の皺を指で伸ばした。
「行ってきます」
 誰にともなく告げて、闇へ紛れず、白のまま歩き出した。
 白は、闇に混じらない。
 闇が白を覚えている。
 それで充分だ。
 充分だから、彼は今日も、名のないほうへ。