第十七話「記す者」
筆の先が紙の繊維を裂き、墨の小さな滲みを残す。
その音が、今村秋一の一日の始まりであり、終わりだった。
夜更けに、火を落とした囲炉裏の匂いがまだ家の奥に漂っている。雨戸の外からは、遠い拍子木の音。街のどこかで夜番が「火の用心」と叫んでいる。けれど秋一の耳には、別の拍子木がこだましていた。あの夜、廃寺で確かに響いた一打の錯覚。白が闇に混じらず、蓮がその背に沈んでいった夜の音。
見上げれば、鴨居には火の痕が残っている。黒い筋が木目を歪ませ、そこだけ時間の流れが止まっているように見えた。燃え上がった炎が空気を吸い込み、吐き出し、同心円のように広がり、そして最後には中心へと収束した――あの夜の光景が脳裏に蘇る。
中心は消えない、と誰かが言っていた気がする。秋一自身の心の奥底で、声がまだ囁いていた。
筆を進める。
だが、何を書くべきか。
武功を記す気はなかった。
彼は戦場に立ったわけではない。白がどれほどの数を斬ったのか、蓮がどれほどの血を流したのか、数字にすれば確かに壮絶だろう。だが、それを並べれば長くなる。長くなれば、鈍る。鈍れば、ずれる。ずれた言葉は、人を傷つける。
秋一が残したいのはただひとつ。
白が最後に「守るためだけに斬った」ということ。
そして、彼が笑わずに終わったこと。
蓮が白の尊厳を守るために、短くも正確に死んだということ。
それ以上は不要だった。
筆を止め、墨壺を見つめる。墨の水面に、秋一の顔が映る。まだ幼い。だが、その目の奥には「見てしまったもの」が映っていた。
「斬る前に息を吐け」――春一の声がよみがえる。
あの人の教えは、刀の技ではなく、呼吸の律だった。秋一はその順序を守るように、文章を刻んでいく。
句点は拍子木の一打であり、読み手の呼吸を乱さないための礼儀。礼儀があれば、刃は短くままでいられる。秋一はそう信じた。
白は闇に混じらなかった。
混じらずに消えた。
だが、闇のほうが白を覚えている。
街の老婆が、廃寺の前で言った言葉を思い出す。
――「白は白のまま、闇に混じらない。闇が白を覚えている」。
その反復が、秋一の文章に一行だけ、私語として混ざった。
書き進めながら、彼は名をできるだけ削った。
蓮華宗の名は記す。だが、末端の名は出さない。仇を列挙すれば長くなる。長くなれば鈍る。鈍れば、また誰かが傷つく。
代わりに「角度」「長さ」「重さ」「息」という見出しを置く。これは蓮の机にあった短い書き付けを写したものだ。読む者がその呼吸で追体験できれば、それでいい。
紙の上で、秋一の筆は迷わなかった。
迷えば長くなる。
長くなれば鈍る。
鈍れば、白の尊厳はまた損なわれる。
夜が更け、墨の匂いが濃くなっても、秋一は筆を止めない。
言葉が少ないほど、記憶は鮮やかになる。
削った白さが、闇をより深く照らす。
やがて最後の段落。
秋一は筆を置き、静かに声にする。
「行ってきます」
どこへ、とは言わない。
次に読む誰かの内側へ、という意味だった。
紙の上に置かれた短い言葉が、白と蓮の尊厳をこれからも守り続ける。祈らずに、ただ整える。祈りは長くなる。整えば、短く伝わる。
巻紙を丸め、紐で結ぶ。結び目は固すぎず、緩すぎず。
指が覚えているのは、春一に教わった結び方だ。
窓の外で、拍子木が一度だけ鳴った。
京は、相変わらずうるさい。
うるさいままでいい。
うるささの中で、短く正確に生きる。
灯を吹き消す。
残ったのは、白い余白だけ。
白は闇に混じらない。
闇が白を覚える。
そして白は、誰かの息に変わる。
筆の先が紙の繊維を裂き、墨の小さな滲みを残す。
その音が、今村秋一の一日の始まりであり、終わりだった。
夜更けに、火を落とした囲炉裏の匂いがまだ家の奥に漂っている。雨戸の外からは、遠い拍子木の音。街のどこかで夜番が「火の用心」と叫んでいる。けれど秋一の耳には、別の拍子木がこだましていた。あの夜、廃寺で確かに響いた一打の錯覚。白が闇に混じらず、蓮がその背に沈んでいった夜の音。
見上げれば、鴨居には火の痕が残っている。黒い筋が木目を歪ませ、そこだけ時間の流れが止まっているように見えた。燃え上がった炎が空気を吸い込み、吐き出し、同心円のように広がり、そして最後には中心へと収束した――あの夜の光景が脳裏に蘇る。
中心は消えない、と誰かが言っていた気がする。秋一自身の心の奥底で、声がまだ囁いていた。
筆を進める。
だが、何を書くべきか。
武功を記す気はなかった。
彼は戦場に立ったわけではない。白がどれほどの数を斬ったのか、蓮がどれほどの血を流したのか、数字にすれば確かに壮絶だろう。だが、それを並べれば長くなる。長くなれば、鈍る。鈍れば、ずれる。ずれた言葉は、人を傷つける。
秋一が残したいのはただひとつ。
白が最後に「守るためだけに斬った」ということ。
そして、彼が笑わずに終わったこと。
蓮が白の尊厳を守るために、短くも正確に死んだということ。
それ以上は不要だった。
筆を止め、墨壺を見つめる。墨の水面に、秋一の顔が映る。まだ幼い。だが、その目の奥には「見てしまったもの」が映っていた。
「斬る前に息を吐け」――春一の声がよみがえる。
あの人の教えは、刀の技ではなく、呼吸の律だった。秋一はその順序を守るように、文章を刻んでいく。
句点は拍子木の一打であり、読み手の呼吸を乱さないための礼儀。礼儀があれば、刃は短くままでいられる。秋一はそう信じた。
白は闇に混じらなかった。
混じらずに消えた。
だが、闇のほうが白を覚えている。
街の老婆が、廃寺の前で言った言葉を思い出す。
――「白は白のまま、闇に混じらない。闇が白を覚えている」。
その反復が、秋一の文章に一行だけ、私語として混ざった。
書き進めながら、彼は名をできるだけ削った。
蓮華宗の名は記す。だが、末端の名は出さない。仇を列挙すれば長くなる。長くなれば鈍る。鈍れば、また誰かが傷つく。
代わりに「角度」「長さ」「重さ」「息」という見出しを置く。これは蓮の机にあった短い書き付けを写したものだ。読む者がその呼吸で追体験できれば、それでいい。
紙の上で、秋一の筆は迷わなかった。
迷えば長くなる。
長くなれば鈍る。
鈍れば、白の尊厳はまた損なわれる。
夜が更け、墨の匂いが濃くなっても、秋一は筆を止めない。
言葉が少ないほど、記憶は鮮やかになる。
削った白さが、闇をより深く照らす。
やがて最後の段落。
秋一は筆を置き、静かに声にする。
「行ってきます」
どこへ、とは言わない。
次に読む誰かの内側へ、という意味だった。
紙の上に置かれた短い言葉が、白と蓮の尊厳をこれからも守り続ける。祈らずに、ただ整える。祈りは長くなる。整えば、短く伝わる。
巻紙を丸め、紐で結ぶ。結び目は固すぎず、緩すぎず。
指が覚えているのは、春一に教わった結び方だ。
窓の外で、拍子木が一度だけ鳴った。
京は、相変わらずうるさい。
うるさいままでいい。
うるささの中で、短く正確に生きる。
灯を吹き消す。
残ったのは、白い余白だけ。
白は闇に混じらない。
闇が白を覚える。
そして白は、誰かの息に変わる。



