第十六話「山の気配、町の噂」

 見つからない、という事実は、遺体より重い。
 朝ごとに薄く明るくなる京の空の下で、その重さは静かに形を変え、二つの流れに分かれて町を満たした。
 ひとつは、恐れ。
「白は死なない」
 尾ひれはいつだって軽い。軽いものほど遠くへ飛ぶ。角口の豆腐屋の前、荷車の車輪に油を差す音と一緒にその言葉が地面に落ち、川端の茶店では湯気と混じって立ちのぼる。銭湯の焚口で薪を割る若い衆は、割った薪の節目に目をやったまま言う。
「白は斬れば斬るほど薄くなって、最後には風みたいになるんだと」
 風は見えない。見えないものに人は勝てない。勝てない相手の名は、やがて祈りの側へと引き寄せられる。
 もうひとつは、祈り。
「白は死んだ。だが、丁寧に死んだ」
 路地の奥の古祠の前、紙垂が湿りを含んで重く垂れる下で、老婆が小さく手を合わせる。祈りの言葉は、声にならない。なれないほうが長持ちする。魚屋の台に並んだ鰯の銀の腹が朝の薄い光を返し、その光の上で誰かが囁く。
「丁寧に死ぬ者の後ろには、丁寧に生きたい者が残る」
 祈りと恐れは、同じ器に入れられて町を回る。器の名は噂。手渡した者の体温が縁に薄く残り、残った温度が次の人の指に移る。
     ※
 蓮華宗は別の器を持っていた。触れ回るための器。底に鉛の重りが付いていて、沈まないように作ってある。
「矢野蓮と白は野犬に喰われた」
 内々にそう言い置く。僧の口から町の耳へ、町の耳から裏長屋の口へ。言葉は仕事を果たそうとする。だが、信じきる者は少ない。野犬は腹が膨れれば眠る。眠った腹は夜に吼えない。今夜も山の縁から吼えがひとつ、ふたつ――「野犬」は、噂の骨としては細すぎた。
 山門の石段を上がり切ったところで、蓮光は一人、香を手向けた。香盤の灰は白く、前夜の指の跡が薄く残る。残る跡の浅さに、彼は自分の心の深さを測る。深くない。深さは刃の背のように鈍く、鈍いものは長く残るはずなのに、彼の中で白の残像は軽い風のように出入りするばかりだった。
 白は、敵か。
 彼は呼び切れない。味方か。なおさら呼べない。彼にとって白は「終わる場所を正しく知る者」だった。終わらせ方を誤らない者。だからこそ、終わりを見届ける役目を奪われた悔しさが、香煙の薄い円に混ざる。混ざったのは悔しさだけではない。見届けずに済んだ安堵も、そこに薄く漂う。安堵は、弱さの名をしている。弱さを嫌うほど、彼は強くない。扇の骨で香盤の縁をそっと叩く。灰がわずかに崩れ、円の中心がいったん消え、また現れた。
「中心は、最後に消える」
 誰かの言葉のようでいて、実際は自分の骨の内側から上がった声だった。
     ※
 眠り薬から醒めた今村秋一は、まず空気の軽さに吐き気を覚えた。軽い空気は、からだの重いところを置き去りにする。置き去りにされた場所が胸の真ん中にうっすら痛み、痛みの形が呼吸の形を決めてしまう。
 戸口を細く開ける。塀越しの桑の枝が風に揺れ、枝先にはまだ小さな芽が隠れている。隠れて、いる。隠れているのは季節だけではない。塀の向こうから子どもの笑い声。笑いは短く、よく弾む。弾むたび、彼の耳の裏に春一の声がぶつかる。
――息を吐け。
 吐く。浅く。吐いたあと、胸の奥の重いところに手を当てる。手の下に、何の音もしない。音のない場所は、刃の外だ。外側にいることが、刃の内側を空にしてしまった悔恨を呼ぶ。悔恨は甘い。甘さは、危ない。危ないものほど、よく残る。
 蓮の家へ向かう道は、路地一本。彼は無意識に足をその幅に合わせる。合わせた歩幅が、あの夜の蓮の歩幅と重なる。重なったところで急に切れ、切れた線が彼の足首を掬う。転びはしない。転ばないのに、膝の中に冷たいものが入る。
「蓮……」
 呼ぶ相手がいないのは、声のほうがよく知っている。知っていてなお、声は出る。出た声は壁に当たり、泥の蓮花の絵の脇で消えた。
     ※
 山へ向かう。誰かに止められた記憶はない。止めるべき人はみな、別の場所にいるか、別の時間に取り残されている。町は淡く明るい。淡い光は、影を長くする。長い影の中を、秋一は歩く。
 山裾で風の匂いが変わる。土の湿りが増し、杉皮の渋い匂いが鼻腔に薄く貼りつく。昨日までの雨が細い筋を作ったらしく、斜面の土がところどころ柔らかい。柔らかい場所に足を置くと、音が吸われる。吸われた音の代わりに、心臓の鼓動が耳の奥で鳴る。
 足跡はある。誰のでもないように見えて、誰かのものにしか見えない。蓮の靴の歯の形は、小さいわけでも大きいわけでもない。真ん中。真ん中の形は、かえって識別が難しい。難しさは、望みの側で笑う。笑いの音を、秋一はまつ毛の触れ合う短さで殺した。
 足跡は途中で切れる。途切れた箇所に、白い何か――いや、白ではない。乾いた葉の裏側。色のない面が上を向いているだけだ。だけ、で足りない。足りないものを、目が勝手に補う。白い裾。焦げの黒。麻糸。指先が無意識に探す。見つからない。
 ただ、竹の間に細い同心円の踏み跡が残っていた。誰かが最後に立っていた中心。誰かが、最後に、立っていた。
 中心は、最後まで消えない――
 誰からも教わらずに、秋一は理解した。理解は、跪く形でやって来る。膝が土に触れ、土の冷たさが骨に入る。骨は、静かだ。静けさのほうが、泣きより重い。重いものは、言葉にできない。できないままで、彼は土に指を押し当てた。押し当てた指の腹に、泥の粉が移る。粉は乾いている。乾いたものは、落ちにくい。落ちにくいものは、記録に向く。
 風が竹の節を鳴らす。鳴り方は拍子木の練習のようで、しかし誰も練習していない。竹自身が拍を数える。いち、にい、さん。数えるな、とどこかで春一が笑った。笑いは叱りに似ている。叱りは、救いの一種だ。秋一は目を閉じ、一度だけ長く吐いた。吐いた息がわずかに白い。季節のほうが、彼の呼吸を思いやってくれている気がした。
 杉の根の陰に、黒いものがわずかに沈んでいた。近寄る。革の切れ端。短盾の紐のほつれに似ている。似ているだけで、ちがう。違うことを確かめるために指を触れる。触れた指に匂いが移る。血でも油でもない、雨と土の匂い。匂いは、記憶より正確だ。正確さは、彼にとって唯一の慰めに近い。
「……静さん」
 呼んで、返事がないことに安堵した。返事がないほうが、想像が働く。働きすぎる想像は、やがて仕事をやめる。やめたときに残るものだけが、本当に残る。残ったものは、中心だ。中心は、最後まで消えない。
     ※
 町へ戻る。戻る前に、振り返らない。振り返れば、長くなる。長くなれば、鈍る。鈍らないために、彼は竹の拍だけを背に受ける。背に受けた拍が、足の角度を決める。
 路地裏の壁に、泥の蓮花。幼い手の丸い弁は、少し崩れている。崩れた形の脇に、小さな文字。
「しろいの、こないで」
「でも、ありがとう」
 誰かの手。誰のでもないように見えて、誰かのものでしかない。指でなぞる。爪に乾いた泥の粉が宿る。粉は井戸水でも落ちにくい。落ちにくいものは、記録に向く。記録は祈りの反対側にある。反対側にあるものが、いつも支えになるとは限らない。限らなくても、そこに立つ。
 角を曲がった先で、朝餉の匂い。粥の米が割れる音。油あげを炙る甘い匂い。日常は戦の外側にある。外にいることは、内側の空を広げる。広がった空に、彼は墨の薄い匂いを混ぜたくなった。墨は重い。重い匂いは、軽い朝を傷つけない程度に居座る。
     ※
 今村家の奥から、古い巻紙。煤けた筆。薄い墨。蓮の机の引き出しには、短い書き付けが四つ貼ってある。
「息」「角度」「長さ」「重さ」
 蓮の字だ。字は若く、骨は真っ直ぐだ。真っ直ぐな骨は、すぐ折れる。折れるまえに、紙に写す。写せば、長さが出る。長すぎる長さは鈍る。鈍らない程度の長さにとどめるのが、彼のこれからの役目だと秋一は思った。
 誓いではなく、癖として持つ。癖は、長く残る。長く残ったものだけが、誰かの尊厳を守る。尊厳は、死者のむこうがわに置かれた言葉ではない。生きている者が毎日触るものの手触りに近い。箸の木目。衣の裾の重さ。井戸の滑車の鳴き。紙の乾き。筆の先に含ませた水の冷たさ。
 筆をとる。最初の一画を置く。置く、だけ。書き始めの線は、刃の置き方に似ている。押さない。引かない。置く。それだけで紙は受け入れる。受け入れた紙の側で、彼の呼吸が安定する。安定した呼吸の中で、言葉は刃の外側に並び始める。
 彼は、何から書くべきかを知っていた。知っていて、書かなかった。書かないことで形を保つ夜がある。今夜を、そのひとつにする。代わりに、短く刻む。
《白は、死なないという噂がある。》
《白は、丁寧に死んだという合意がある。》
《二つの間に、人がいる。》
 人。蓮。静。春一。老婆。子供。魚屋。香盤の灰。庭砂の同心円。竹の拍。白梅の折れ口。彼は名前を並べず、物の側を並べた。物のほうが、長持ちする。長持ちするものの中に、人は薄く残る。
 筆致はまだおぼつかない。おぼつかない字が、蓮の机の隅に置いた白梅の枯れ枝をかすめる。枝の折れ口は白いまま、乾いている。乾いた白は、目を休ませる。目が休むと、涙が出る。涙は出ない。出ないことが、痛みより重い。
 彼は紙をめくり、見出しを書き直す。
《息》――吐いてから、置く。
《角度》――短くする。
《長さ》――癖にする。
《重さ》――尊厳の側に置く。
 四つを書き、筆を置く。置いた音はしない。音のしない仕事ほど、長持ちする。長持ちするものだけが、明日を持つ。
     ※
 夜、古い祠の前。紙垂は湿りを帯び、木彫りの蓮は煤けて艶を保つ。誰かが今日も布で撫でた痕。秋一は燈明に火を移し、短く拝した。拝すという形を、彼は信じていない。信じないのに、形だけを借りる。借りた形が、支えになる夜がある。火は小さく、しかし消えない。消えない中心の火を見つめながら、彼は小さく呟いた。
「でも、ありがとう」
 誰にともなく。誰にも向けず。白は白のまま、闇に混じらない。混じらない白を、闇が覚えている。覚えている闇のほうが、いまは頼りになる。
 帰り道、拍子木が遠くで一度鳴った。誰かがどこかで、結び目を作ろうとしている。言葉で結び、刃でほどき、また結ぶ。ほどかれた結び目の端を、記す者がいる。書くことは、結び直しの片割れだ。片割れだけでも、夜は越せる。
     ※
 翌朝、角の豆腐屋の前で、昨日の噂の器がまた回ってきた。
「白は死なない」
「白は丁寧に死んだ」
 どちらの器も、底に小さな欠けがある。欠けは、もう補修されない。補修しないまま使い続けるのが、この町のやり方だ。欠けた器からこぼれ落ちるものを、誰かが指で掬い、舌で確かめる。しょっぱいのか、甘いのか。わからない。わからないものだけが、長く残る。
 秋一は器を受け取らない。受け取らない手で、筆を握る。握った手の爪の隙間に、まだ泥の粉が残っている。井戸水でも落ちない粉。落ちないものは、記録に向く。向いているほうへ、彼はゆっくりと身体を傾ける。傾ける角度が、これからの彼の歩幅を決める。歩幅は短く、正確に。短い歩みでしか辿れない道が、町の陰にいくつもある。
 蓮光は山門で香を絶やさず、灰の中心を毎朝確かめる。中心は、やはり最後に消える。消えないうちは、見届ける者の仕事が残っている。残っている仕事に手を伸ばす。伸ばした指は、薄く震える。震えは弱さの名をしているが、弱さの中にしか本当の強さが宿らないことを彼は知りつつあった。
 路地の泥の蓮花は、雨のたびに崩れ、子どもの指がまた描き直す。描き直された弁の脇の「でも、ありがとう」は、誰かが上からなぞって少しだけ濃くなった。なぞるという行為は、祈りよりも実用に近い。実用に近いものが、いちばん長く残る。長く残るものだけが、死者にとっての尊厳を守る。
 秋一は巻紙に新しい頁を足した。頁の端に、短く書く。
《ここに居ないことは、ここ以外のすべてに薄く居るということ》
 言葉は刃の外側にある。外側に並べた言葉の間に、彼は白梅の折れ口の白を置いた。白は染まらない。染まらない白を、闇が覚える。覚えているあいだに、人は息を吐く。吐いた息が白くなくなる頃、季節がひとつ変わる。変わった季節の中で、彼はまた書く。書くという癖が、彼の中でやっと、長さを持ち始めた。
 町は、うるさい。朝の拍子木。豆腐屋の水音。子どもの笑い。魚の銀。香の薄い円。竹の拍。白のいない場所で、白を覚えているものばかりが、今日も薄く鳴り続ける。
 それで、充分だ。
 充分だから、彼は今日も墨をする。薄い墨。薄いほうが、紙は受け入れやすい。受け入れた紙の側で、中心がまた一つ、最後に残る。残る中心を、彼は指で押さえない。押さずに、見て、書く。
「行ってきます」
 誰にともなく。誰にも向けず。声は小さく、しかし消えない。消えない声の先に、山の気配がまたわずかに濃くなる。濃くなった気配のほうへ、短く、正確に。今日も、町は歩く。彼も、歩く。歩きながら、白のいない世界で白を覚える方法を、少しずつ、癖にしていく。