第十五話「亡骸の尊厳、山に消える白」

 蓮の足は、裏路地の石に慣れていた。慣れは油断に似る。似ていても、今夜は裏切らない。秋一の肩を手繰り寄せ、今村家の裏口へ滑り込む。家の中は暗く、囲炉裏の灰がまだ温い。温さは危ない。危ないから使う。蓮は土間の壺から白湯を汲み、薬箱の底に隠しておいた粉を溶いた。眠り薬。泡は立てず、湯気だけを吸わせる。秋一の喉が二度鳴り、まぶたが重くなる。重さは、救いだ。救いは短い。
「ごめん」
 秋一の髪を一度撫で、蓮は家の戸口に「病人あり」の札をもう一枚かけた。字は先ほどより少しだけ歪んだ。歪みは、いまの彼の足を正確に映す。正確な歪みは、刃の角度を狂わせない。狂わせないまま、彼は廃寺ではなく――本坊へ戻った。
 寺内町の香は夜更けて薄く、かわりに血の金気が生の形で広がっていた。廊の骨は湿り、灯籠の蓮弁は揺れを止めている。止まった影は、罠に似る。罠を踏んで短く終わるのと、避けて長く終わるのと、どちらが尊いか。答えは出ない。出ないまま、蓮は走る。走る前に、吐く。吐いて、置く。置く足は、春一の歩幅を思い出していた。
 本坊の庭先――池の際の石畳で、白が倒れていた。倒れているのではない。力尽きた姿勢が、たまたま地面の形に合っているだけだ。白装束の肩は裂け、腹の布は黒く貼りつき、髪の束はほどけて頬にかかる。頬は熱くない。熱がないのに、どこか燃えている形を保っている。蓮は膝をつき、白の頬に指を当てた。温度は、ほとんどない。
「静さん、起きて」
 声が震える。震えは、刃の敵だ。敵のほうへ体は行きたがる。行きたがる体を、言葉で押しとどめる。
「蓮くん……」
 白が、目を開けた。目の形は変わっていない。変わっていないのに、どこか遠くを見ている。「……戻りました」
「戻るなよ」
 吐き捨てる。子どもの声だった。静は微かに笑った。笑いは骨のきわでだけ、上がる。上がって、すぐに沈む。
「戻るところが、ここしかなくて」
「他にいくらでもあるだろ」
「ありませんよ」
 短い返事は、石より硬い。蓮は肩を差し入れ、白を抱き起こした。重さは軽くない。軽くないが、担げる重さだ。担ぐというのは、道を選ぶことだ。選ぶ前に、吐く。吐いて、立つ。
「行くぞ」
「どこへ」
「生きるほうへ」
 言い切ってから、蓮は自分の言葉の粗さに気づいた。粗い言葉は、長持ちが悪い。悪くても、いまはいい。いまは、短く動く。
 回廊の影に、複数の足音。灯籠に火が入る。切り抜き蓮弁が壁に巡り、光の輪が重なる。輪は閉じる。閉じた輪の外から、濡れのない声がした。
「白を返してもらおう」
 蓮光の声だ。集まる僧兵。矛や薙刀の鈍い光。袈裟の裾が風を食む。蓮は静の体を抱え直し、背を丸めた。盾の形だ。春一が無数に見せてくれた、背の形。盾は、矢を吸う。吸い終えてから、動く。
「白の亡骸は、こちらへ」
 言葉が、柄の先に乗って来る。礼に似せた命令だ。命令は、刃の側に落ちる。落ちた命令に、蓮は触れない。触れずに、短く言う。
「命に変えてでも、この人の尊厳を守る」
 静の目が、微かに開いた。開いたまつ毛が触れ合い、笑いが骨のきわにだけ上がる。上がって、消える。消えた笑いの余熱で、蓮は足を出した。
 矢が来た。一本。二本。三本。数えるな。肺の奥で春一の声が跳ね、蓮は背中の丸みをわずかに変えた。矢羽が白の肩で滑り、石畳に弾かれる。弾く音は短い。短い音だけ拾う。
 長巻が横から来る。柄の途中で持ち替える気配。持ち替えの遅れに、蓮は白梅の枝を差し入れた。枝は折れる。折れて、よい。折れる一瞬だけ、相手の目が枝に寄る。寄った目のすきに、足が抜ける。
「貸せ」
 静が言った。蓮は聞こえないふりをした。聞けば、長くなる。長くなれば、鈍る。
 刃は、ここにない。ここにあるのは、体温のない重さと、呼吸の短さと、言葉の硬さだけだ。硬い言葉は、折れない。折れないものは、守りになる。
 僧兵の一人が正面から踏み込んだ。踏み込みは美しい。美しい動きほど、崩しやすい。美の根本は、直線だからだ。直線は曲がらない。曲がらない線の端を、蓮はすくった。白を抱いたまま、膝で。膝の角度だけで、相手の腰が浮く。浮いた腰は、自分で落ちる。落ちる音は短い。短いから、誰も覚えない。覚えないほうが、助かる。
「退け」
 濡れのない声が、もう一度落ちた。蓮光は蓮を見ない。白だけ見ている。見るという暴力がある。見たものの価値を、見た側が決めるという暴力。蓮はその目の前に背中を置いた。背は、決意の形をしている。
「退かない」
 声は震えなかった。震える暇がなかった。矛の穂先がもう頬を掠めていたからだ。掠める前に、吐く。吐いて、踏む。踏んだ足は、石畳の目地の砂を掬い、相手の踵に絡む。絡んだ砂が、小さく鳴いた。鳴く砂を聞けるのは、もう戦う者だけだ。
 蓮の肩が焼けた。焼けたというのは、熱ではない。刃の冷たさが皮膚を通過し、そのあとの血の熱が遅れてくる。その落差を、人は焼けたと言う。焼けても、抱えを解かない。解けば、長くなる。長くなると、鈍る。
 静の頭が蓮の肩に触れた。触れた場所だけ熱く、そこが生きている証拠のようで、蓮は歯を食いしばった。石の匂い、血の匂い、灯油の焦げ。匂いが層で重なり、空気の重さが増す。重い空気を、短く切る。切るのは刃ではない。足だ。膝だ。背だ。春一の背だ。
 回廊の角を抜け、門へ向かう筋へ入る。僧兵が集まる。数は多い。多い数に、短さで対抗する。蓮は壁際に身体を擦り、白を抱いたまま、体の厚みを半分にした。半分の厚みが、半分の傷に変わる。半分は、生き延びる確率に似ている。
「どけ!」
 誰かが怒鳴り、誰かが退き、誰かが斬りかかった。怒りの赤、恐れの灰、命令の黒。音の色が交じる。交じった色は、見えづらい。見えづらい世界で、蓮は自分の白梅の枝の折れ口だけを目印にした。折れ口は白い。白いものは、ここでは目立つ。目立つものに、足を置く。置いて、跳ねる。跳ねて、抜ける。
 門を背にしたとき、蓮光の声が背に落ちた。
「亡骸を置いて行け」
 蓮は振り返らない。振り返れば、長くなる。長くなると、鈍る。鈍らないために、彼は走った。
 寺外の小径に出た。月は欠け、竹は鳴り、風は薄い。薄い風が、血の匂いを押し出す。押し出された金気で、蓮はわずかに酔った。酔いは危ない。危ないときほど、正確になる。正確さは、恐れの反対にある。
 竹藪の縁で、蓮は膝をついた。つく前に、静の顔を覗き込む。「静さん」。返事はない。ないことが、形を持って迫ってきた。迫る形に、蓮は初めて、泣きそうになった。泣きは長い。長いことは、いま許されない。代わりに、額を白い布に押し当てる。布は冷たい。冷たさは、現実だ。
「――静さん、起きて」
 もう一度、言う。言いながら、胸骨の奥が砕ける。砕ける音は、誰にも聞こえない。
「蓮くん……」
 白い唇が、ほんのわずか動いた。動いた形の中に、彼の名があった。名は、刃に向かない。だからこそ、刃より深く刺さる。
「蓮くん」
「ここにいる」
「良い……背中だ」
 褒められ慣れていない場所に言葉が落ち、蓮は呼吸を忘れた。忘れた呼吸を、春一の低い声が思い出させる。――息を吐け。吐く。吐いた拍に、静はまつ毛を触れ合わせた。笑いが骨のきわにだけ上がり、そこで止まる。
「静さん」
「――行って」
 白の目が、竹の間の空へ向いた。空は薄く、星は少ない。少なさは、やさしい。
「蓮くん」
「なに」
「君は……長く、持つ」
「持たない」
「持て」
 言い切って、目を閉じた。閉じる音はしない。音のしない終わりほど、正確で、冷たい。
 蓮は静の肩を揺すらなかった。揺すれば、長くなる。長くなれば、鈍る。鈍らないまま、彼は白を抱えた。抱えた重さは、生のときより軽い。軽さは、残酷だ。残酷さは、約束の形をしている。――命に変えてでも、この人の尊厳を守る。
 背後で灯が増える。蓮華宗の人々が集まる。足音は揃い、声は乾き、刃は冷たい。彼らは言った。
「亡骸を渡せ」
 蓮は首を振った。振るというより、背中の形を強くした。
「命に変えてでも、この人の尊厳を守る」
 同じ言葉を、もう一度置く。置いた言葉の影に、彼は身を沈めた。沈めた身のまま、山へ向かう獣道に入る。獣道は狭く、夜露で滑り、石は冷たい。冷たさに感謝する。冷たいものは、熱を証明してくれる。証拠がなければ、情は嘘になる。嘘は、刃の敵だ。
 追っ手が来る。三。五。数えるな。肺の奥で春一が叱る。――数、数えるな。蓮は吐いた。吐いて、置く。置いた足が、草の根を掬い、矛の穂先を半歩遅らせる。遅れに、身体を滑り込ませる。滑り込んだ先に、また夜露。滑る。滑る前に、膝で受ける。膝の骨が鳴く。鳴きを飲み込み、彼は立つ。立つことは、戦いの半分だ。
 白の腕が、落ちないように布で結ぶ。結び目は甘い。甘いが、いまは足りる。足りるように結ぶのが、今夜の工夫だ。工夫がいくつ積もっても、夜は長くならない。長くしないために、彼は走る。
 追っ手は諦めない。諦めない者は、角で必ず鈍る。鈍った気配を、蓮は背で感じた。感じながら、白の重さを肩から胸へ移した。胸で抱く。抱くという行為が、宗派の冷たい眼差しの前で、唯一の暴力になった。奪わせないという暴力。汚させないという暴力。暴力の名を、尊厳という。
 山の口に、雨が降り出した。細い雨。細い雨は音を増やす。増えた音が、追っ手の息を濁す。濁った息は、鈍る。鈍った足が、石に躓く。躓いた音は、獣道に吸われる。吸われて、消える。消える音だけが、彼の味方だ。
 蓮の脇腹が裂けた。裂けたというのは、刃が通り過ぎて行った感覚のあとに、遅れて熱が来ることだ。遅れて来た熱を、蓮は受けた。受けたまま、笑わなかった。笑いは骨のきわでだけ、上がる。上がらない夜が、ここでもうひとつ増えた。
 杉の立つ暗がりが見えた。立つ幹の間は、風が通り、雨は細かく霧になる。霧は、足音を殺す。殺された足音の中で、蓮はようやく、ひと呼吸だけ長く吐いた。吐いた息が白い。白い息は、冬のほうにだけ許される。今夜は季節が少しだけ早い。
 膝が折れた。折れた音は、石の上で乾いた。乾いた音は、終わりに似る。似ているだけで、違う。違うのは、まだ抱えているものがあるからだ。抱えているものの重さが、蓮の胸骨を支え、骨は音を立てずに折れた。
「――静さん」
 もう返事はない。ないことは、形を持たない。持たない形を、蓮は抱いたまま、杉の根の陰へ身を沈めた。沈めた身体の上に、夜が落ちる。落ちた夜は、軽い。軽いものは、よく飛ぶ。飛ぶものは、よく落ちる。落ちる場所は、もう選べない。
 追っ手が近づいた。近づいて、止まった。止まるというのは、迷うことだ。迷う者は、背で決める。背で決めた者たちは、しばらく何も言わず、雨の音を聞いていた。雨は増え、杉皮を打ち、土を濡らす。濡れた土は、足跡を受け入れ、すぐに形を崩す。崩れた形は、朝にはもう残っていない。
「見つからんぞ」
「山に入ったか」
「明けたら探せ」
 短いやりとりが、雨にほどけて消えた。消えた音のあとに残ったのは、杉の匂いと、土の冷たさと、白の裾の重さだけだ。白は汚れても白で、闇は白を覚えている。覚えられた白は、山の中で、風の側へ移る。風になって、誰の名も呼ばない。
 夜が明けても、ふたりの姿は見つからなかった。見つからないというのは、ここに居ないということではない。ここ以外の全ての場所に、薄く残っているということだ。白梅の折れ口の白。井戸の滑車の鳴き。砂紋の中心が最後に消える癖。盾の背で受けた矢羽の焦げ。子どもの落書きの蓮弁。――それらのどこにも、ふたりは薄く残った。
 蓮華宗の人たちは、沖田の亡骸を引き渡すように言い、誰も受け取らなかった亡骸の代わりに、雨だけが山肌を流れ落ちていった。流れた雨は、すぐに地面に飲まれた。飲まれた跡は、朝にはもう見えない。見えないことが、唯一の手向けになった。
 白は白のまま、闇に混じらず、闇が白を覚える。覚えた闇は、ある朝ふいに、何かの香を薄く運ぶ。白梅か、血か、灯油の焦げか。それが何であれ、息を吐いてから、短く歩く者だけが、その香の短さを受け取るだろう。短く受け取り、長く抱えずに、誰にも言わないだろう。言葉は刃の外側にある。外側は、忘れるためにある。
 ――二人の死体は、発見されなかった。