第十四話「本坊の罠、白の返礼」

 香の煙は、層で呼吸していた。低い層は白檀、次が蘭奢待を薄く真似た廉香、さらにその上にへばりつくのは灯油の焦げ。池泉式の庭を抱いた寺内町は、回廊のひさしごとに香りの層を変え、層の違いが風の角度を教える。灯籠の切り抜き蓮弁が壁に揺れ、影の輪郭は一定ではない。一定でない影は、刃の入り口を多く持つ。多い入り口のうち、どれかひとつだけを使うのが、いちばん短い。
 沖田静は、香の層を読みながら進んだ。吐く。浅く。白の裾はどの板にも触れず、鞘口の布だけが音をもたない。僧兵の巡邏は三人一組。足の間合いは均等だが、踵を落とす癖のある者が一人混じる。踵の短い打音が、柱と柱の間の風向きをほんのわずかに乱す。その乱れに合わせ、静は回廊の影から影へ、最短の呼吸で渡った。畳の軋みは乾き気味。乾きの音は、覚悟の浅い場所を指す。浅い意志に、深い刃を置く必要はない。置くだけで足りる。
 蔵を短く覗く。米俵の縄は新しい。庫裏を短く覗く。出汁の層が薄い。方丈の縁を短く覗く。紙障子の骨に人の倦怠が残る。――長く覗けば長くなる。長くなれば、鈍る。鈍らせない。静は自分の独白を胸骨の裏で転がし、指は柄巻の麻糸に触れては離れる。癖は長さになる。長さは重さになる。重さは鈍りになる。触れて、離す。
 白梅の匂いが、微かに残る廊があった。香に弱く混じる、生の浅い甘さ。秋一。匂いは回廊の角で薄れ、方丈裏庭へと伸びていた。庭砂は朝に均され、同心円が細く重なっている。円は刃の外側で回る。中心は、最後に消える。
 待っていた気配は、輪の外に立っていた。足の音は重いが、揃っている。揃いとは、号令の癖だ。輪の外から、ひとり現れる。刈り込まれた眉。濡れのない声。蓮光。
「白を使うには、信心も賞金も要らぬ。ただ、終わる場所を与えればいい――そう聞いていたが」
 静は答えない。答えることは、長くなる。返す言葉の代わりに、まつ毛を触れ合わせる。笑いは上がらない。骨のきわで殺す。
「終わらせに来たのか、終わられに来たのか」
 蓮光は微笑を置く。置かれた笑みは乾いていた。乾きは、刃の飲み水にならない。静は庭石の影の薄いところに足を置き、香の層の厚みをもう一度だけ量る。低い白檀が深く、灯油の焦げが薄い。焦げが薄い場所は、火が遠い。遠い場所ほど、短い。
「庵は、あちらだ」
 蓮光は扇で何もない空気を指した。嘘ではないが、言葉ではない。静は頷かず、ただ動く。輪は動かない。動かない輪は、音で締める。締まる前に、抜ける。
     ※
 庵の戸は閉じられていなかった。閉じないのは、自信か、罠か。どちらでも、刃の角度は変わらない。薄暗さは音を濾し、濾された音の中に、布の擦れる気配がある。秋一だ。猿轡は粗い布。結びは固く、片方だけ甘い。甘いほうへ、切っ先を置く。置く、だけ。縒りがほどけ、布が喉から離れる前に、静は彼の瞳を見た。拍ははっきりしている。指で叩けないかわりに、視線で「一、二、三」。静は呼吸を揃え、秋一の手の後ろの縄の結びの弱い箇所だけを切った。切る音は、出さない。出すのは、息だけ。
 秋一を背に回す。背に回す角度は肩を壊さないように。壊せば長くなる。長くなると、鈍る。回した瞬間、四方から刃が来た。廊の角、簀戸の影、天井の梁下――それぞれの気配が「斬るべき場所」を同時に指す。静は「守るために斬る」動きに徹した。肘。手首。腋下。切先は、骨に触れない線だけを選ぶ。痛みは与える。命は奪わない。戦意を、折る。折れた音は短い。短いから、次が見える。
 だが、数が多い。白の袖は赤を吸い、白梅の匂いに鉄が混ざる。混じった香は、いつだって現実だ。現実は重い。重いものは、短く運ぶ。静は庵の柱の節目を背で感じ、秋一を庇いながら、廊の外へ踊り出た。踊る前に、吐く。吐いて、置く。置いた刃に、槍の穂先が勝手にぶつかって砕けた。
 回廊の角で、白梅の枝が視界に横切った。蓮だ。枝は刀ではないが、射の線を遮る。遮った瞬間、静の足元に「間」が生まれる。間の中で、秋一の身体が押し出される。庭砂が白い円を幾重にも走らせ、足の裏の砂が音を食う。円の中心へ落ちるのを拒むように、静と蓮は足を運ぶ。歩幅は短く、呼吸は浅く。浅い呼吸で足りるほどに、角度が正しい。
 輪の外で、蓮光は追わなかった。追わず、ただ見た。見るという行為は、意志の側に立つ。意志は長い。長いものは、刃に向かない。彼は薄く頷き、庭の砂紋をひとつだけ扇で乱した。乱された紋の中心は、最後まで消えなかった。
     ※
 寺外の竹藪。風が細く鳴り、青い節の間を夜が行き来する。白梅の枝の香はやはりない。ない香のほうが、いまは息が整う。秋一を抱えた蓮の肩が上下した。上下の拍は早いが、乱れてはいない。乱さないのが、春一から受け継いだ唯一の誇りだ。
 静は短く言った。
「託します」
 蓮の喉が動いた。声はまだ出ない。代わりに、秋一が口を開く。
「静さんは?」
「戻ります」
「なんでだよ!」蓮の声がやっと出た。若い血の温度が夜に立つ。
「殺されちゃいます」秋一の声は低く、短い。短い声ほど、こちらに深く刺さる。
「それでいいんです」
「え?」
「僕が生きている限り、周りに危険が及びます。僕が死ぬのを見届けるまで、彼らは手を弛めませんから」
 言い切る。言い切ることは、長くしない礼儀だ。白は闇に混じらず、それでも姿を消した。消えるというのは、目の前から居なくなることではない。心の側から、形を引っ込めることだ。戻るのは、刃の中心へ――返礼の場所へ。
 蓮は白梅の枝を握りしめた。香はない。ないのに、指先に季節が残る。残った季節は、約束の形をしていた。
     ※
 蓮華宗の本坊では、輪が閉じていた。閉じる輪を、静は外からではなく、内から押した。押す前に、吐く。吐いて、刃を置く。置いた刃の周りで、世界が勝手に回る。白い裾は汚れない。汚れない角度を選ぶのに、どれだけの夜を使ったか、彼にはもう数えられない。数は、彼の味方をしない。――数、数えるな。胸の奥で春一が言い、笑いが骨のきわで上がりかけ、潰れた。
 蓮光は歩み出た。歩幅は長くない。長くない歩幅は、強い。扇の先で、彼は砂紋の同心円の一点をそっと突いた。中心の白が、ふっと薄くなった。そこに、静は刃を立てた。立てる、だけ。押さない。刃の影が、蓮光の目に触れる。触れただけで、あの濡れのない目に一瞬だけ色が差す。色はすぐに消えた。消えたから、信じられる。
「返礼、か」
 薄く笑って蓮光は言い、手をひいた。ひくことは、敗北ではない。正確に、終わりを見極めるための距離だ。静は答えず、ただ一度、庭石に手を置いた。石は冷たかった。冷たいものは、現実だ。
 白の背は、闇に混じらない。混じらない背を、庭の灯籠が覚えている。覚えられた白は、また刃の中心へ戻っていった。