第十三話「夢の背、攫われる秋」

 熱の名残が上がった夜だった。火はわずかに低く、赤は石の影で呼吸だけをしている。白装束の胸が浅く上下し、吐く拍に合わせて小さな灰がひと粒、ふた粒と落ちる。落ちる音はしない。けれど、その静けさの端で、別の音が戻ってきた。
 川縁の石が、丸いものから先に冷える音。短盾の革が湿りを吸って重さを増す匂い。弦の高い鳴き。瓦の裏土の冷たさが爪に入ってくる記憶の感触――夢は、音と匂いから形を取り直す。
 夢の中の今村春一は、やはり背中で語った。まっすぐで、余分がない。呼吸の幅は狭く、止めどころが短い。短いから、信じられる。「斬る前に息を吐け」。声は低く、火の粉よりも軽い。軽いのに、骨の内側へ落ちて、そこから動かない。
 川縁の石に座り、短盾の革の匂いをかすかに吸い、沖田静は頬の筋が上がりかけるのを感じた。上がる前に、まつ毛を触れ合わせる。触れ合った瞬間、笑いは潰れ、骨のきわにだけ残る。残るものは短い。短いものは、正確さの側に立つ。春一がこちらを見ずに笑い、笑いの形だけが白く残って、すぐに朝に渡される。
 目が開いた。廃寺の天井板の節目が、夢の春一の眉に似て見えた。節目の黒が、叱るときの影に似ていた。似ている、と気づく前に、胸のどこかで呼吸がひとつずれた。ずれを修正するために、指先が柄巻の麻糸を探る。糸は乾いている。乾きは、鈍りの予告だ。予告は、聞くほうの準備を整える。
 火はまだ落ちていない。蓮が崩さずに残した三角は、石の角に寄りかかって、夜の重さを均している。石の上に置かれた白梅の枝が、香りを持たないまま、薄く白い形だけを保っていた。秋一の好きだった枝。好きだった、という言葉は長い。長いから、今夜は言わない。言わないことが、守りになる。
     ※
 白が生きている――囁きは、路地の油の匂いに混じって漂いはじめた。匂いは、角を曲がると別の顔を持つ。昼は天麩羅鍋の音、夜は膏薬の練り台の冷たい鉄。混ざった匂いは、遠くの噂を近くへ連れてくる。
 蓮華宗の密使は、廃寺を辿るより先に「近所」を洗った。近所は、戦の外側でいちばん柔らかい場所だ。柔らかいところから、先に崩れる。塀越しに桑の枝がかかる家と家。夜ごと、若い者が路地を行き来する。行き来は短い。短いほうが、見落とされない。見落とされないから、誰かが拾う。
 門前の物売りに化けた密偵は、声を換え、姿勢を換え、黙って換えないものだけを覚えた。夜、湯気のたたない粥の匂い。朝、滑車の鳴きの回数。昼、誰も座らない縁側の影の長さ。拾い集められた欠片は、そのままでは刃にならない。刃にしようとする者が現れるときだけ、欠片は角を持つ。
「白いのは、白いまま死に場所へ行く」
 広場で耳の遠い老婆がこぼしていた言葉を、密使は覚えていた。覚えるという行為は、いつだって誰かの側に立つ。誰の側でもないふうをして、記憶は常に誰かの味方だ。
     ※
 夕刻。秋一は薬箱を抱えて路地に出た。箱は鳴らない。鳴らさないように、母の紐の結びを結び直してから出た。結び目は、春一の結びよりも少しだけ甘い。甘さは、やさしさに似る。やさしさは、隙になる。隙は、呼ばれる。
 駕籠の影と荷車の影は、昼の残りの重さを抱えて門の前にとどまっていた。影は、動くふりをして動かない場所を作る。そこへ、手が伸びた。ひとつ、ふたつ。布が口を塞ぎ、鼻の上で結び目が短く締まる。拍子木一打の短さで、秋一の姿は薄く消える。消える、というのは、そこに居なくなるという意味ではない。見る側の目から、形が抜けることだ。
 家の表には「施薬」の札が置かれた。病人あり、見舞い無用。札の字は達者で、筆の勢いがあった。勢いのある字ほど、嘘をうまく隠す。裏からは、足音が二つ、荷車の軋みがひとつ、すぐに消える。消えたはずの音の端に、秋一の拍がまだ薄く残っていた。「一、二、三」。布の下で、舌に触れる薬草の苦さの記憶だけが、口の中に残る。
 蓮はすぐに気づいた。気づく、というより、空気の形が変わったのを喉が先に受け取った。受け取った瞬間、足が動いた。動く前に、目は影を追っていた。追う角度の正確さは、何度も火の前で調整してきたものだ。だが、影は薄く逃げた。薄いものは、指の間をすり抜ける。すり抜けた後に残るのは、皮膚の湿りと、爪の裏の黒だけだ。
 荷車の轍は、角で途切れた。途切れた先に、塀の切れ目がある。切れ目は、塀を越えるために作られる。作られた越え道へ、蓮は足を入れかけ、踏みとどまった。踏めば、長くなる。長くなると、鈍る。鈍る前に、戻る。戻って、誰かの呼吸を整えるほうが、短い。
     ※
 廃寺へ駆け戻る。杉皮の匂いが少し冷たくなっている。火は崩れていない。三角はそのままで、赤は石の影で息をしていた。白は座の角度を変え、脇差を確かめているところだった。包帯の下で、肩の可動が鳴った。鳴いた音が、蓮の耳の内側で小さく跳ね返る。
「秋一が――」
「攫われましたね」
 白は首だけわずかに動かした。動かした方向に、刃の角度がひとつ生まれた。生まれた角度は、まだ使わない。使わないまま、置く。置いて、呼吸を合わせる。
「まだ、傷が」
「守るために斬る。長くは握らない」
 夢の声が、骨に残っていた。春一の声だ。『斬る前に息を吐け』。吐く。吐いて、置く。置く。押さない。押せば長くなる。長くなると、鈍る。
 蓮は白の手首を掴みかけ、指を緩めた。緩める、という選択は、訓練が要る。止めるよりも、引くよりも、ずっと難しい。難しいことは、いつだって短い。短くなければ、続かない。
「場所は?」
「噂の出どころが、蓮華宗の側からでした。なら、連れていく場所も、蓮華宗の側のほうが早い」
 白の声は掠れている。掠れているのに、まっすぐだ。まっすぐな声は、短い。それだけで、十分な命令になる。
「僕が行く。あなたはここで――」
「だめです」
 白は首だけで否を示した。否は短い。短い否は、長い説得を殺す。
「行くなら、一緒に。君は取り戻して逃げろ」
「あなたは?」
「残る。残る役です」
 残る、という言葉は、蓮の舌に苦かった。苦いのに、飲み込める。飲み込めるのは、口の内側に「春一」がまだ温度を持っているからだ。春一はいつも先に道を開け、戻るほうを選んだ。戻る者の背で、彼は盾になった。盾の革の匂いが、急に鼻の奥に立ち上がる。
     ※
 蓮は街の目を逸らすため、まず札を出した。自分の家と今村家の門に「病人あり」の札。字は下手すぎず、上手すぎず。上手な字は嘘を隠す。下手な字は心を隠す。中途の字は、行き過ぎを隠す。
 塀越しの桑の枝を押し分け、近所の老婆のもとへ行った。老婆は膝を抱えて座っており、指先で土をこすっていた。指先の爪の隙間に、黒が残る。黒は、落ちにくい。落ちにくいものは、明日に持ち越される。
「口を閉ざして欲しい」
 蓮は小銭を握らせた。銭は軽い。軽いもののほうが、約束を短く保てる。長く重い約束は、裏切られやすい。
「白い死神のことかい」
「……病人のことです」
「そうかい」
 老婆は銭の軽さを両手のひらで転がし、確かめるように頷いた。頷きは短い。短い礼だけが、今夜の礼儀だ。
 蓮は白梅の枝を一本だけ折った。折る角度は、枝の節を割らないように。割れ目は、腐りの入口になる。入口は、敵にしか要らない。白梅は匂いを持たず、形だけで季節を連れてくる。季節は、誰にも従わない。それが、心強い。
 縄は軽いものを二巻。鞘の口は布で柔らかく巻き直す。音を殺すためだ。音は、終わりを告げるだけでいい。始まりを呼ばれては困る。
     ※
 廃寺では、白が井戸の滑車を鳴らしていた。古い木が舌打ちみたいな鳴き方をし、紐が水を吸って皮膚に冷たかった。柄巻の麻糸を井戸水で湿らせ、掌で締め直す。湿りは短い強さを与える。乾きは長い弱さを連れてくる。
 白布は新しく巻き直した。白は白のままがいい。汚れない角度で歩くために、裾をひとつ短く折った。短い裾は、足を速くする。速すぎる足は、呼吸を乱す。乱しすぎないよう、腰の位置を低く保つ。保つという行為は、いちばん体力を食う。食われる前に、息を吐く。
「短く、正確に」
 白は自分に言い、刃に言い、夜に言った。夜は答えない。答えないものの側に立つと、角度が見える。
 蓮が戻り、白梅の枝を見せた。白はそれを受け取らない。受け取らず、目だけで見た。見れば足りるものは、持たないほうが短い。
「秋一が、これを好きで」
「知っています」
 白は言って、まつ毛を触れ合わせた。笑いが上がり、すぐに潰れた。潰した笑いの残り香が、白梅のないままの香に似た。似ているだけで、違う。違うものは、間違えない。
     ※
 夜更け。門の影は濃い。濃い影の中で、ふたりは呼吸を揃えた。揃える前に、白が言う。
「俺は行く。君は取り戻して逃げろ」
 蓮は頷いた。頷いて、反論を飲み込む。飲み込む前に、舌が血の金気を思い出した。思い出す必要はない。ないが、思い出すと呼吸が短くなる。短くなると、よく動く。よく動けば、短く終われる。
「門は僕が蹴る。あなたは、影から角度を差し込む」
「はい」
 白の返事は、いつも短い。短い返事は、足を動かす。動かす前に、もう一度だけ、火の三角を崩さずに残した。戻る場所は、最短の形で残す。戻らないかもしれないのに、と蓮は思った。思って、飲み込んだ。飲み込むのが、今夜の礼儀だ。
「拍は、三」
 秋一が眠りの中でいつも打つ拍。井戸の滑車が鳴く拍。胸の内側で春一が区切った拍。それらが、同じ場所で重なる気がした。気がした、だけかもしれない。だけでも、足りる。
 拍子木が一度、鳴ったような錯覚があった。錯覚は、時に事実を正す。正された事実が、足を前に出した。
 白は闇に混じらなかった。混じらず、白のまま、影の縁に立つ。縁に立つ者だけが見える角度がある。蓮は闇に紛れた。紛れ、土の湿りと同じ顔になる。顔を無くした者だけが、扉の固さを量れる。
 門に足を置く。置く、だけ。押さない。押せば長くなる。長くなると、鈍る。蓮は一瞬だけ息を止め、短く吐き、蹴った。
 木が鳴いた。鳴き方は、古い木の舌打ちではなく、若い木の驚きだった。驚きは高い音で、すぐに割れる。割れの間に、白が滑り込む。滑り込む角度は、昼の祠の蓮の彫り物に刃を向けたときと同じに、正確だ。
 廊の影に、人がいた。赤い紐で髪を結んだ若い衆。布で口を巻き、棒を持ち、足幅を広げて立つ。立ち方は、恐れを隠す。隠した恐れは、背中で見える。背中の皮膚が、息を早めている。早い息に、白は合わせない。合わせれば、長くなる。白は吐く。吐いて、置く。置く、だけで、棒の根元が空へ向きを変えた。
 棒の影が長く伸び、蓮の頬に触れた。触れる前に、蓮は身を低くし、縄を棒の根元に通す。通した縄は引かない。引けば、音が出る。音は、終わりだけに使う。今は、動きを止めるためだけに、結ぶ。結び目は春一ほどには上手くない。上手くなくても、足りるように結ぶ。それが、今夜の工夫だ。
 影の奥で、足音がひとつ逃げた。逃げる音は、狭いほうへ向かう。狭いほうが、安全に見えるからだ。見せかけの安全へ向かう者は、角で必ず遅れる。遅れに、白の刃が置かれた。置く、だけ。押さない。押せば、長くなる。
「どこだ」
 蓮の喉が問う。問う前に、白の指が床板の目地を示した。目地の砂が新しく、足が引きずられた痕が浅く残っている。浅い痕は、重くない。重くない運びは、急ぎだ。急ぎは、必ず音の端を落とす。落とされた端が、井戸の滑車の鳴きに似ていた。似ているほうへ、進む。
 内庭を抜け、庫裏の手前で、短い合図が聞こえた。木片がひとつ打ち鳴らされ、すぐに止む。止む合図は、逃げの印だ。印は、追う者にしか見えない。見える者は、数を数えない。春一の声が、耳の内側でまだ温度を持っていた。――数、数えるな。
 蓮は数えずに走り、白はまっすぐに角度を差し、ふたりは別の影から同じ場所へ入った。
     ※
 庫裏の中は、乾いた匂いがした。膏薬と乾物と、紙に染みた香の脂。脂の匂いに、別の匂いが細く混じっている。若い汗と、薬草の苦み。秋一の匂いだ、と蓮は思った。思って、足を止める。止めれば、長くなる。長くなる前に、白が前に出た。
 白の白は、ここでも混じらない。混じらない白が、紙の影を滑っていく。滑った先に、背の低い戸口。戸口の向こうは、薄暗い部屋。薄暗さは、音を濾す。濾された音の中に、布の擦れる気配がある。擦れる気配は、口を塞がれた者の呼吸の音だ。
 蓮は戸口に手を置いた。置くだけで、木が鳴く。鳴いた木の返事は湿っていて、古い。古さは、匂いを持たない。匂いのないものは、見失いがちだ。見失わないために、白の足が先に入った。入る角度は、刃と同じ。刃はまだ抜かない。抜かない刃ほど、よく働く。
 部屋の片隅に、秋一がいた。手は後ろで縛られ、口には布。目は開いていて、拍を打つかわりに、視線で「一、二、三」と蓮に送ってきた。送られた拍に、蓮は呼吸を合わせた。合わせ、短く吐く。吐いて頷き、縄に指をかける。結び目は固く、緩い。固い結びは止めるために、緩い結びは安心させるために。両方の思惑が、結び目に宿っている。宿った思惑は、刃に通じない。通じないから、解ける。
「静さん」
 秋一の声が、布の下から漏れた。白は目だけで答え、刃を抜いた。抜く音は短く、音にならない音のほうが長かった。長い音は、外で誰かの耳に触れる。触れさせないように、白は角度を選ぶ。選んだ角度が、部屋の空気を静かにずらした。
 足音が来る。ふたつ。遅れて、ひとつ。遅れのひとつが、合図になる。合図の手前で、蓮が戸口へ戻り、縄を廊の角にかけた。縄は見えない。見えないものは、足を掬う。掬われた足が、短い声で鳴き、棒が落ちる。落ちた棒を、白が踏まない。踏めば早い。踏まないほうが、長く斬れる。
 短い争いの中で、白の目に獣の光が戻りかけた。戻りかけで、止まった。止めたのは、秋一が指で膝を叩く真似をしたからだった。布の下で、音にならない「一、二、三」。拍は、刃の外側で回る。回るものの中心に、白は刃先だけを立てた。立てる、だけ。押さない。押せば、血の匂いが増える。増えれば、長くなる。
「外へ」
 蓮が秋一の腕を引く。引く角度は、肩を壊さない方向。壊せば、長くなる。長くなると、鈍る。白は背を向けず、斜めに下がる。下がりながら、刃を拭う。拭く布は白い。白い布は、汚れをよく受け入れる。受け入れた汚れは、すぐに切り捨てられる。切り捨てられた汚れの側に、刃は残らない。
 廊に出る。出たところで、足音の色が変わった。色、と言っても、音しかない。音の色だ。怒りの赤、恐れの灰、命令の黒。黒い音が近い。黒は硬く、形がある。形のある音は、避けにくい。避けにくいものほど、短い。
「蓮」
 白が低く呼ぶ。呼び方は、命令ではない。詫びに似ている。似ているだけで、違う。
「君は取り戻して、逃げろ」
「でも――」
「でも、の後は長い」
 白は笑いを殺した。まつ毛が触れ合い、笑いは骨のきわに沈む。沈んだ笑いが、刃の背を柔らかくする。柔らかくなった背は、衝撃を受け流す。受け流したあとで、角度だけが残る。
 蓮は頷いた。頷きは短く、重い。重さは、二人ぶん。秋一を肩に回し、身を低くして、影の薄いほうへ向かう。薄い影は、紛れやすい。紛れながら、白梅の枝が懐の中で冷たく当たった。その冷たさで、蓮は息を整えた。整えすぎないように、拍を打たずに、呼吸だけで数を切る。切る、だけ。数えない。数えるな。
 白は逆へ行く。逆は、短い。短い逆は、敵の目の外側を通る。外側を通ると、中心が見える。中心は、最後に消える。
     ※
 外気が、喉を刺した。刺す冷たさは、礼儀だ。礼儀は、誰に向けるでもない。向けないから、間違えない。
 蓮と秋一は、石畳の狭い筋を抜け、塀の切れ目に白い息をひとつだけ残した。残る息は、証拠になる。証拠は、刃を鈍らせる。鈍らせないために、秋一が袖で息を払った。払う所作が、春一に似ていた。似ていることが、蓮の足を速くした。速さは、短さに従う。
「大丈夫か」
 布をほどきながら、蓮が問う。問う前に、秋一が頷く。頷きは小さく、拍は遅い。遅い拍に、蓮は合わせない。合わせれば、長くなる。長くなると、鈍る。鈍りそうなところを、白梅の枝が無言で留めた。
「静さんは」
「いる」
 いる、という言葉は軽かった。軽いのに、胸の奥で沈む。沈んだ言葉が、彼の足の角度を少し変える。変わった角度は、狭い影へ向かう。向かう先で、道が二つに分かれた。広いほうと、暗いほう。広いほうが安全に見える。見え方は、敵の味方だ。彼らは暗いほうへ入った。暗い道は、短い。
     ※
 白は、広いほうへ出た。出たところで、黒い音と向き合う。黒い音は、命令の重さを持つ。重さに、刃は軽さで抗う。軽さは、短さと同義だ。短く、正確に。
 矢の音が、空気を二度切った。切り方で、弓手の疲れが分かる。疲れは高く鳴る。高く鳴る弦に、白は刃を沿わせた。沿わせただけで、狙いが歪む。歪んだ矢が、柱の節に吸われ、梁の影に消えた。消える音は、救いだ。
 「白が生きている」と囁いた者たちの目が、いま確信を持った目に変わる。確信は、刃を鈍らせる。鈍らせないために、白は笑わない。笑わない顔で、まつ毛を触れ合わせ、笑いを骨のきわで殺す。殺した笑いが、彼の背を軽くする。軽い背は、よく回る。回るのは刃ではなく、世界のほうだ。円の中心に、刃を立てる。立てる、だけ。回らない。回る必要はない。
 春一の声が、骨の内側で続いていた。――剣の時代が終わったとき、おまえは何になる? 今は、何にも。何にも、でいい。今は。今は、守るために斬る。長くは握らない。
 棒が来る。槍が来る。怒鳴り声が来る。来るものは、迎えない。迎えれば、長くなる。白は置く。置いた場所に、来たものが勝手にぶつかって、勝手に終わる。終わった音だけ、耳が拾う。拾った音は、井戸の滑車の鳴きに似ていた。似ているものは、たいてい正しい。
 黒い音が少し薄くなった。薄くなると、別の色が混じる。灰と赤。灰は恐れ、赤は怒り。怒りは、短い。短い怒りは、刃の側に落ちる。落ちた怒りに刃は触れない。触れずに、通る。
     ※
 蓮と秋一は、路地の角で一度だけ止まり、息を合わせた。合わせる前に、秋一が指で膝を叩く。「一、二、三」。拍は小さく、しかし確かだ。確かさは、体を生かす。生きた体で、角を抜ける。
 裏門の先で、犬が一度吠えた。答える犬はいない。応えのない声は、長く響かない。響かないほうが、今はいい。響かせる声は、別の夜に取っておく。
 門影に薄い人影が立った。蓮華宗の下っ端。目が若く、手の皮が薄い。薄い皮は、刃の重さをまだ知らない。知らない手は、長い棒を握りたがる。長い棒は、鈍い。鈍いものは、こちらの味方だ。
 蓮は突っ込まない。突っ込めば、長くなる。縄の端を足元で踏ませ、棒の根元をわずかに押し上げ、膝裏を軽く払う。払う、だけ。音を出さない。倒れた音は、雪の上の火の粉に似て、すぐに消えた。消えた音の上を、秋一がまたいだ。
「蓮」
「大丈夫だ」
 言いながら、心臓の拍が一度だけ長くなった。長い拍は、危ない。危ないほうが、正確になる。正確さは、恐れの反対にある。恐れの側に立ち続けるより、こちらのほうが、ずっと短い。
 ふたりは影の糸を手繰るように廊を抜け、庫裏の裏へ回り込んだ。回り込むと、遠くで短い金属音がした。白の刃が、何かの角に触れた音。触れただけ。押していない。押せば、長くなる。押さない音は、合図だ。合図に合わせて、蓮は息を吐いた。
     ※
 白は、黒い音の中心をすでに過ぎていた。過ぎる、というのは、勝つことではない。正しい場所に刃を置き、余計なものを残さないことだ。残るものが少ないほど、次が短くなる。短いほうが、終わりは正確になる。
 廊の先で、蓮華宗の古参が立ち塞がった。袈裟の縁は磨り減り、目は細い。細い目は、長い目だ。長い目の前では、短いものがよく動く。白はまつ毛を触れ合わせ、笑いを殺し、刃を置く。置いた先に、古参の呼吸が自分から入り込んでくる。入り込んだ呼吸の拍に、小さな乱れ。乱れのほうへ、角度を差す。差す、だけ。押さない。押せば、長くなる。
「白」
 古参が言った。声は濡れていない。乾いている声は、信じられない。信じられないものには、答えない。答えない沈黙が、刃の背に温かい重さを与える。重さを移し終えると、白は身を引いた。引きどきは短い。短さを逃すと、鈍る。
 背後で、蓮の足音がわずかに加速した。加速の拍は、「一」の前に息を止める癖の拍。癖は、長持ちのための工夫になる。工夫の数だけ、戻れる道が増える。
     ※
 外へ。風が、頬の筋を撫でた。撫でる前に、まつ毛を触れ合わせる。笑いは上がらない。上がらない夜が、もうひとつ増えた。その分だけ、刃の角度が正確になる。
 蓮と秋一が塀の影から現れ、白と合流した。合流の瞬間に、誰も声を出さない。出せば、長くなる。長くなると、鈍る。鈍らないために、目だけで確かめあう。確かめる眼の角度が、春一の背を思い出させる。思い出しても、数えない。数、数えるな。
「行く」
 白が言った。短い。短さの中に、戻らない、という長い影が薄く混ざっている。混ざった影に、蓮は頷きで返した。頷きは、約束ではない。約束は、明日の言葉だ。今夜の言葉は、命令と礼儀だけで足りる。
 彼らはそれぞれの進み方で、同じ場所へ向かった。白は闇に混じらず、蓮は闇に紛れ、秋一は拍を胸の内側に持ったまま、音を立てなかった。拍は、井戸の滑車の鳴きと、火の息と、春一の声の残りと、全部でひとつだった。
 門が遠ざかる。遠ざかるほど、夜は薄くなる。薄くなる夜が、今だけ記憶を赦す。赦しの短いあいだに、白は刃を鞘に半分戻し、柄巻の麻糸に残る井戸水の冷たさを指の腹で確かめた。
「短く、正確に」
 もう一度、誰にでもなく言った。言葉は、火の跡の灰みたいに軽く、土に飲まれて消えた。消えたあとの土を、白梅の枝がそっと撫でた。香はない。ないのに、確かに季節が移る気がした。気がしただけで、十分だった。
 白は白のまま、闇に混じらない。闇が白を覚える。覚えられた白は、今夜もまた、終わるほうへ向かう。その背で、蓮は笑わない。笑いは骨のきわでだけ、上がる。上がらないことが、誰かを生かすこともある。生かされた者の拍が、彼らの足の下の土に、薄く、確かに刻まれていった。