第十二話「手負いの獣、息の整え」

 京の北のはずれは、町の喉が吐き出した冷たい息の行き着くところみたいに、ひっそりとしていた。杉皮は煤け、鐘楼は首を落とされたみたいに途中で崩れ、風が入ってはどこにも触れずに出ていく。夕霜は薄く、白い粉が草の先で固くなり、踏めば音を立てそうでいて、実際には鳴らない。鳴らない静けさの中で、ひと筋、白が引きずられた痕だけが、霜の上に細く続いていた。
 矢野蓮は、その細い白の上に足を置かないように歩いた。置けば、形が壊れる。壊れた形は、どんなに正確でも戻らない。戻らないものは、今夜、長く残る。長く残るものは、たいてい悪い。
 朽ちた本堂は、右側の柱が一本欠けている。欠けた柱のあたりの土だけが、他所より少し柔らかい。柔らかさは、新しい。新しい靴跡は、霜の内側に沈んで、輪郭がまだ立っている。蓮は足を止め、指で輪郭をなぞり、指先に移る冷たさで深さをはかった。深さは一定だ。負傷者の足取りでも、重すぎはしない。重さを分け合うような足跡は、ない。
 ――一人でここまで来た。
 蓮は息を短く吐き、喉の奥の寒さを一度だけ確かめてから、開け放たれた本堂の闇へ目を慣らした。闇は、覗き込まれたことを怒らない。ただ、覗いた側の目の形を変える。形が変わると、角度がひとつずれる。ずれた角度で見えるものは、別の名前を持つ。彼は名前を持たせたくなかった。
 風が、煤けた梁の間を通っていく。通ったあとの空気だけが、わずかに甘い。古い香の脂が木の目に染みているのだ。香は時間を蓄える。蓄えのある場所は、終わりを待たない。待たない場所にだけ、人は倒れてもいい。
 蓮は気配を集めて、奥へ進んだ。
     ※
 白がいた。
 仏間と納戸のあいだ、蓮の歩幅で七歩目の柱の陰。白装束は、半ば土の色を吸って、半ば雪の色を返している。袖口は黒く焦げ、脇差の柄巻には乾いた血が筋のように残り、手の甲に移った煤は、指の節でだけ薄く剥けていた。呼吸は浅い。浅いのに、掟のように整っている。
 ――吐いて、置く。吐いて、置く。
 春一がいつも言った言葉を、蓮の肺が先に思い出す。胸の中で誰かの呼吸と自分の呼吸が重なって、重なりがずれるたび、蓮は自分の背の筋肉を小さく収めた。収めるたび、白の胸がわずかに楽になる気がした。気がしただけだ。気がする、は危ない。危ないから、次を決める。
 井戸は裏庭にひとつ。滑車は古く、鳴き方が湿っている。鳴きの湿りをひとつ、ふたつ数え、桶の重さが水を得たとこで止め、縄を引いた。井戸水は、冬の舌みたいに冷たい。両手で掬い、布に移し、布を固く絞り、指の腹で焦げを撫で落とす。
 初めて触れた刹那(せつな)、白が目を開いた。
 目の奥に、獣がいた。手負いの獣が、自分を囲うものへ向ける光――囲むなら噛む、の角度。蓮は顔を動かさずに、指だけを止めた。止める角度を間違えると、噛まれる。噛まれるのは構わないが、噛ませるのは長くなる。長くなると、鈍る。
「……火を、大きくはしないでください」
 首だけ、わずかに振って、白が言う。声は掠れて短い。短いものは、よく届く。
「大きい火は、呼びます」
「分かった」
 蓮は囲炉裏の残り火を崩さず、丸石を三つ三角に置き、湿りの少ない小枝を細く組んで、火を小さく吸わせた。火はすぐに食べようとはせず、匂いだけ立てる。匂いは呼ぶ。呼ぶものは避ける。避ければ、短くなる。短いものだけが、今夜は武器だ。
 蓮は白の前に膝をついた。焦げの周りを冷やし、血の固まりを布の角で浮かせ、柄巻に移った黒を爪の腹で押し戻す。白は目を伏せ、皮膚の下にある骨の角度で、彼の手を見ている。見る者に見られている、と蓮は思う。見られると、丁寧になる。丁寧――春一の口癖が喉に上がり、蓮はそのまま飲み込んだ。
「痛むところを、先に」
「……全部、です」
 白がわずかに笑う気配を上げかけ、まつ毛が触れ合う直前で収まった。笑いを殺すのに、刹那もいらない。骨の際(きわ)だけで、それは終わる。
「では、全部、短く」
 蓮は声を低くして、小さな火で粥をつくり、布を温め、焦げは冷たく、腫れは温く、順序を当てはめていった。順序があると、呼吸が崩れない。呼吸が崩れなければ、夜が長くならない。
 白は何も言わず、ただ、その順序の正しさを体の重さで受け取っていた。
     ※
 蓮の家は、今村家の裏筋にある。塀越しの桑の枝が互いの庭へ伸び、実の季節には子供が家の境を越えて笑う。越えても怒られない。怒られない境は、強い。強い境は、戦の外に置いても長く持つ。
 道は一本。一本の道が、今夜は短い。短い道は、決意にやさしい。やさしいものは、たいてい危ないが、今夜に限っては、ありがたい。
「すぐ戻る」
 蓮は白にだけ聞こえる声で言い置き、井戸の柄杓を伏せ、火の三角を崩さずに裏門から出た。
 空気は乾いて、星が低い。低い星の光は、灯りのない路地に薄く落ちる。その薄さの上を、蓮の草履が音を残さないで滑る。滑り方は、春一に教わった。音を残さないほうが、生き物は不安に思わない。不安にさせないと、短く用が済む。
 角を曲がるところで、今村秋一と出会った。秋一は薬箱を抱えていた。抱え方に慣れがある。薬箱の重みは、持つ者の手の皺を教える。皺が深ければ、箱は鳴かない。鳴かない箱は、信頼できる。
「蓮」
「怪我人の手当てを手伝って欲しい」
 それだけ言うと、秋一は頷き、薬箱の紐を握り直した。彼の頷きは、春一と似ている。似ているから、蓮は何も足さない。足せば、長くなる。長くなると、鈍る。
「誰に?」
「白い人だ」
 秋一は目を丸くしたようで、しなかった。驚きは短く抱えられる時だけ価値がある。抱えきれぬ驚きは、動きを遅らせる。遅い驚きは、戦の外でだけ使えばいい。
「母上の薬箱、持っていく」
「頼む」
 今村家の土間をかすめ、秋一は包帯と晒、回生の散薬、粉末の胡椒と乾姜、古い楊枝まで手際よく箱に収めた。箱は鳴らない。鳴らない音が、ふたりの足音の拍子木になった。
 廃寺に戻る道すがら、秋一は何も聞かず、蓮も何も言わなかった。沈黙は、きょうは薄い礼儀だ。薄い礼儀は、火の前で厚くなる。
     ※
 廃寺は冷える。冷えは鋭くはないが、長い。長い冷えが、人の体から短い熱を奪う。奪われすぎる前に、秋一が動く。
「失礼します」
 秋一は白の体を躊躇なく支え、間合いを間違えなかった。肩の下へ手を入れる角度、膝の裏にかける布の長さ、額へ置く手の重み――どれも、短く、正確だ。春一に叱られ続けた少年時代が、その短さを覚えさせたのだろう。
「息、吐いて」
 秋一は低く言い、白の胸に手を当てた。胸は温い。温さは、戻る。戻るものの側に、手を置く。
 白の指が反射で秋一の手首を払う。払う角度は、骨のきわをかすめる。痛くはないが、鋭い。秋一は手を引かない。引かず、少しだけ場所をずらす。ずらした場所に、白の体が納まる。
「吐いて、吸う前に、少しだけ止める」
 秋一は春一の声を借りる。借りた声は、短い呼吸の間だけ借り物だ。借り物に頼り切らない。頼らないから、次に返せる。
 白は目を開け、秋一を見た。見る角度に、敵意は乗っていない。疑いは、薄くある。薄い疑いは、かえって頼りになる。厚い信頼より、薄い疑いのほうが、長く持つ。
「指を、ここに置きます」
 秋一は白の胸骨の上、春一に教わった「呼吸の鍵」の場所へ二本指を置いた。置く、だけ。押さない。押せば長くなる。長くなると、鈍る。白の呼吸が、浅いながらも、秋一の指に合わせてわずかに「吐く」を覚え直した。
 蓮は灌湯を温め直し、焦げた白布を水でしならせた。布は湿ると、短く強くなる。乾くと長く弱くなる。今は湿りの強さが要る。布の端で白の額の煤を拭い、こめかみの汗を吸わせ、耳の下の薄い傷に薬を置く。
「ここは冷やして、ここは温める」
「理由は?」
「音が違います」
 蓮の答えに、白の目が少しだけ緩んだ。音――床板の軋みと骨の鳴き、皮膚の下に滞る血と、火の舌の吸い方――それを聞き分けて順序をつける男は、刃の外でも、刃の味方をする。白はその味方を、すぐに信じない。だが、信じないまま、身を預ける。預けかたを、よく知っている。
     ※
 廃寺の井戸の滑車は、古い木の舌打ちみたいに鳴る。鳴る音に、秋一が指で合わせる。「一、二、三」。膝を軽く叩く拍が、拍子木のまねごとになる。まねごとでも、呼吸は整う。整う呼吸に、白の目から獣の光が少しだけ退く。退くたびに、蓮の指は深く入る。深く入れても、押さない。押さないから、痛まない。
 火の三角は小さいまま、温度だけが確かに上がる。粥は白く、塩は少し、乾姜は粉のまま指先で潰して散らす。匂いが立つほど入れない。匂いは呼ぶ。呼ぶものは避ける。
 白は碗を持たない。持たせない。口縁だけ、蓮が支える。支えの角度を間違えると、首の筋が痛む。痛む筋は、呼吸を乱す。乱れは、戻らない。戻らないものを増やさない。
 秋一は包帯を巻いた。巻く手つきは、春一に叱られ続けた結び目の固さ――固すぎず、緩すぎず。固い結び目は血を止めすぎ、緩い結び目は意味を失う。意味はいつだって、短いところにある。
 白は黙っていた。黙っているのは、無関心ではない。言葉にすれば長くなるから、黙る。長いものは鈍るから、黙る。黙りながら、彼は時おりまつ毛を触れ合わせ、一瞬だけ笑いを殺し、そのたびに呼吸が楽になるのを、誰より先に自分の骨で確かめていた。
     ※
 最初は、一声かけるごとに刃の気配が立った。布を替える前に、白の肩の筋がわずかに収縮する。額に触れる前に、目が半分だけ開いて刃の角度を探す。探して、見つからないと分かると、また閉じる。その繰り返しのたびに、秋一は膝を叩く。「一、二、三」。拍の間に、息を吐く。吐く、だけ。吸う前に、短く止める。止める間に、布を替える。替えながら、薬を塗る。
「笑わないで」
 秋一が蓮に小さく言う。蓮は笑っていなかった。笑っていなくても、骨のきわは上がる。上がる前に、まつ毛を一度触れ合わせる。それで十分だ。春一が叱る声が、まだ耳の奥に残っている。「背で笑うな。士気が死ぬ」。笑いは、骨のきわでだけ上がればいい。骨のきわで上がった笑いは、外へ漏れない。
 白の頬の筋肉が、一度だけ上がりかけた。まつ毛が一度触れ合い、収まる。蓮はその瞬間に布を替え、薬を置いた。置く、だけ。押さない。押せば長くなる。長くなると、鈍る。
 拍が合いはじめる。三人のあいだに、「短く、正確に」の呼吸が、薄く、しかし確かに共有される。共有されるものは、危うい。危ういものほど、守りがいがある。
     ※
 朝は蓮が粥と湯、夜は秋一が薬と包帯。ふたりは交代で廃寺へ通う。路地一本。一本の路地を、違う足音で行き来する。井戸の滑車は古い木の舌打ちみたいに鳴り、その拍が合図になる。合図は短い。短い合図にだけ、白は目を開ける。
 白は言葉少なに身を任せる。任せる、というより、居場所を選ぶ。寝返りの角度、膝の置きどころ、肘の曲げ具合。どれも、刃を握るときと同じに正確だ。正確さは、他人の手当ての外でも崩れない。崩れないものは、信じられる。
 夜半、古い蓮の彫り物に向けて、白は刀身の欠けを確かめる癖だけはやめなかった。刀は脇に置いてある。置いてある、というより、置かせてある。秋一が最初に手を伸ばした夜、白の目が獣に戻りかけて、秋一は手を引いた。引いたことで、信用がひとつ生まれた。触らないことのほうが、触るより、時に近い。
 白は鞘から刃を半分だけ出し、指先の爪で刃の肌を軽く撫でる。音の出ない音が、柱の木目に吸い込まれる。刃は欠けていない。欠けを探す仕草は、儀式ではない。居場所を確かめるための、短い挨拶だ。挨拶のあとで、彼は刀をまた静かに納める。納める姿を見て、蓮は少しだけ安心する。刀がそこにあるかぎり、白はどこにも行かない。行けないというより、行かない。行かない、と彼は決めているように見えた。
     ※
 ある夜、秋一が薬湯を冷まし過ぎた。湯気は薄く、碗の縁に白い膜が張って、香りが立たない。香りが立たないのは、よい。匂いは呼ぶ。呼ぶものは避ける。だが、薬湯は、少しだけ熱いほうが、短く効く。
 白は指で碗の縁を軽く叩いた。叩いた音は、拍子木の半分。半分でも、合図になる。
「もう少し熱く」
 ささやくように。ささやきは、長さを持たない。持たないことが、今夜の言葉に与えられた唯一の美徳だった。
 蓮は短く笑い、「承知」とだけ言った。笑いは顔に出さない。出さない笑いは、骨のきわで上がって、すぐに消える。消える笑いは、残らない。残らないものだけが、今は良い。
 手負いの獣は、自分の言葉を選び始めた。それは、信頼の芽が土を押し上げる音に似ている。似ているものは、たいてい正しい。
     ※
 廃寺の暮らしは、薄い。薄い暮らしは、長持ちする。長持ちさせるために、ふたりは工夫を覚えた。火を大きくしない。香の脂は拭いすぎない。井戸の柄杓は伏せて風に当てる。布は湿りを保って、乾かさない。乾かすのは、夜明け前の一時間だけ。それ以外は、湿りの短い強さで繋ぐ。
 白は、言われる前に、必要な動作を先回りして済ませてしまう癖があった。薬湯を飲む前に、呼吸を整える。包帯を替える前に、巻きの方向を眼だけで示す。秋一が迷うと、眉の角度をわずかに変える。その角度は命令でなく、礼儀だ。礼儀のある命令は、反発を呼ばない。
「あなたは、面倒です」
 秋一がある晩、小さく言った。言い方は、笑っていた。笑うな、と春一に叱られた記憶を踏まえた笑いは、外に出ない。
「面倒は、長持ちの工夫です」
 白は返す。返す声は薄く、しかし、まっすぐ。まっすぐな声は、短い。
 蓮は火を見ていた。火は、吸って、吐いて、また吸う。火の呼吸を見ていると、人の呼吸が楽になる。楽になりすぎると、長くなる。長くなると、鈍る。鈍りそうなところを、秋一の指が「一、二、三」と叩いて、戻す。戻すたび、白の胸が少しだけ揺れ、揺れが収まると、眠りが降りてくる。
     ※
 眠りはいくつかの層を持つ。浅いところは音で破れる。深いところは匂いで破れる。いちばん深いところは、記憶で破れる。白の眠りは、記憶で破れた。破れたあとで、彼は目を開けず、まつ毛だけを触れ合わせた。
「……春一さん」
 名は、呼ばれずに、息になった。息は、短く、冷たい。
 蓮は火の向こうから目だけを上げた。秋一は気づかない。眠っている。眠っている顔は、春一の弟分のころよりあどけない。あどけない顔のそばで、大人の声が薄く落ちる。不思議な配置だった。配置の不思議は、哀しみを短くする。短くされた哀しみだけが、今夜は持ち運べる。
 白は目を開けた。開け、閉じ、また開けた。まつ毛が触れるたび、笑いが湧いて、すぐに潰れた。潰れる笑いの形が、火の縁に薄く残る。残る形は、朝まで持たない。持たないから、よい。
     ※
 ある朝、蓮は廃寺から今村家へ戻る路地で、子供が泥で描いた蓮花を見た。花弁は丸く、中心に点がひとつ打ってある。点は、中心の証だ。中心は、最後に消える。白がいつか言った。白が、言わないでいたことでもある。
 塀越しの桑の枝が揺れ、今村家の庭の方から、秋一の母の咳が聞こえた。咳は乾いていて、短い。短い咳は、長持ちする。長持ちする咳は、季節を越える。越えた咳は、家の匂いになる。
「蓮かい」
「はい。薬箱を返しに」
 母は箱を受け取り、「足りなくなったら言い」とだけ言って、桑の葉の裏の蟻を指先で払った。払う角度が、春一に似ていた。似ていることが、蓮の胸をわずかに締めた。締めすぎない。締めると、呼吸が長くなる。長くなると、鈍る。
 秋一は夜の番を続け、蓮は朝の番を続けた。番は交代で、疲れは片方に寄らない。寄らない疲れは、持ち運べる。持ち運べる疲れは、礼儀に似る。
     ※
 白の傷が少しずつ乾いていく。乾くのは皮膚の話で、内側の傷は、乾かない。乾かない傷は、匂いを持たない。匂いのないものは、見失いがちだ。見失わないために、蓮は指で傷の縁にだけ触れ、そこに残る熱を読んだ。熱は誠実だ。誠実すぎて、時に人を傷つける。傷つける前に、布をずらす。ずらす角度は、刃と同じ。刃を持たずとも、角度は残る。
 夜、白は刃を半分出して、古い蓮の彫り物に向ける。指先が刃の肌を撫でるとき、彼は眼を細める。細めた眼は、笑いに似る。似ているが、違う。笑いは骨のきわで上がる。これは、骨の奥へ沈む。沈むものは、長い。長いものは、鈍る。鈍らせないために、彼はすぐに鞘へ戻す。
「それ、見ていると落ち着くんですか」
 秋一が尋ねる。尋ね方は、礼儀だ。礼儀のある問いは、答えやすい。
「はい。斬っていない時にしか、刃は重さを語らない」
 白は言った。「斬っている最中、刃は軽い。重さは場所へ移る。場所が重く、刃は軽い。今は、刃のほうが重い。安心します」
 秋一は頷いた。頷きは、春一に似る。同じ動きが、別の人間の中で生きている。それが、世界の礼儀だ。礼儀は、短い。
     ※
 秋一は、白の呼吸が乱れないように、拍を打つようになった。打つ場所は膝の上。音は外へ出ない。出ない音が、いちばんよく届く。白はその拍で眠りに落ち、拍で目を覚ます。目を覚ましたとき、彼は最初に刀の柄巻に触れ、次に火の高さを見た。火が高くないことを確かめると、呼吸がいちど深くなる。深い呼吸は、長くなりやすい。長くなる前に、秋一が「一、二、三」と打って戻す。
 蓮は、秋一が打つ拍に合わせて、手当ての順序を短く整える。整えた順序は、崩れない。崩れないものは、信頼できる。信頼は、危ない。危ないから、短いまま持つ。
「君たちは、似ていますね」
 白がある夜、火の向こうで言った。声は薄く、笑いはない。ないほうが、よく届く。
「誰と誰が」
「君と――今は眠っている、彼と」
「秋一?」
「春一さんに、似ています」
 秋一は寝返りを打ち、拍を打つ指が布の上で一度だけ動いた。白の目がまつ毛を触れ合わせ、笑いが上がりかけて、すぐに消えた。消えた笑いが、火の縁で白く見えた。
     ※
 暮らしは、さらに薄くなった。薄さは、強さだ。余分を削れば、折れない。折れない細い棒のほうが、太い棒より長持ちする。廃寺では、そういう理が通用する。
 蓮は袂に小さな石をひとつ入れておく癖を覚えた。石は重い。重いものを一つ持つと、歩きが短くなる。短い歩きは、静かだ。静かであることが、今は礼儀だ。
 秋一は、薬草の煎れ方をさらに短くした。短い煎じは、味が薄い。薄い味は、白が好んだ。白の好みは、誰にも言わないが、碗の持ち上げ方が教えてくれる。持ち上げる角度が、いつも同じだから。
 白は、彼らの動きを見ていた。見て、見ないふりをした。見ないふりは、思いやりだ。思いやりは、長くなる。長くなるのを、彼は嫌う。嫌いながら、受け取る。受け取るのは、上手かった。
     ※
 夜更け、秋一が眠りに落ち、火の三角だけが息をしている。蓮は白の隣に坐り、火を見た。火は小さく、赤は少ない。少ない赤は、よく働く。働く火の前で、蓮は言った。
「助けたいと思ったから助けただけです」
 白は少しだけ首を向け、蓮の横顔の輪郭を見た。見て、すぐに火へ戻す。
「助かるほうが短い夜もある」
「そうですか」
「そうです」
 互いの論は噛み合わない。それでいい。噛み合えば、長くなる。長くなると、鈍る。鈍らない距離だけが、今夜の居場所だ。居場所の前で、火の高さは揃っている。揃っている火は、礼儀だ。
 闇は、白を囲んでいる。しかし、白は闇に混じらない。混じらない白を、闇が覚え始める。覚え始めた闇は、やさしい。やさしさは、危ない。危ないものを、ふたりは小さな火で、薄く、しかし正確に温め続けた。
     ※
 ある晩、風がいつもより冷たかった。杉皮の匂いに、遠い雪の匂いが混じった。雪はまだ来ない。来る前の白は、刃とよく似る。似たものを見ると、人は呼吸を整える。整えすぎないように、蓮は指で膝を叩き、秋一の拍の真似をひとつだけした。「一」。それで足りた。
「蓮くん」
 白が呼ぶ。初めて、名で呼んだ。名は、長さを持つ。今夜、その長さは短い。短い名は、刃の外側で光る。
「はい」
「君の家と、彼の家は、近いのですね」
「塀越しです」
「塀は、越えやすいほうが、いい」
「ええ」
 白はまつ毛を触れ合わせ、笑いを殺した。殺す笑いが、火の上で小さく跳ねた。跳ねた音は、拍子木の一打とちがって、外へは届かない。届かない分だけ、正確だ。
「春一さんが、昔、言っていました」
「はい」
「『塀は、越えられるためにある』と」
「……言いそうです」
 蓮は笑わなかった。笑うと、士気が死ぬ。士気は、生き物だ。死なせない。死なせないで、終わらせる。終わらせるために、ここにいる。
     ※
 秋一が、眠りの中で指を動かした。膝は叩かないが、指が拍を覚えている。覚えている動きは、眠りの底でも消えない。消えないものだけが、明日に渡る。
 蓮は火に小枝を一本足した。足した角度が、刃に見えた。見えた瞬間、白がまつ毛を触れ合わせ、笑いを殺した。殺した笑いが、今夜の最後の音になった。
 蓮は小さく言った。
「行ってきます」
 白は返さなかった。返事は朝に回す。朝は、受け取って、すぐに忘れる。忘れる役目のあるものに、今夜の重さを渡すのは、礼儀だ。礼儀の前で、火は小さく、正確に息をした。白は白のまま、闇に混じらない。混じらない白を、闇が覚える。覚えられた白は、また明日、短く、正確に、息を整えるだろう。