第十一話「白き者、姿を消す」
白は、夜明けとともに灰の薄膜をまとった。
京の路地は、夜に降りきれなかった雪と、昨日の火勢が吐き出した煤とで、黙っているものばかりになっていた。屋根の瓦はしっとり黒く、庇の端にだけ白が残り、風の通り道では粉になった灰が、掃き残された落ち葉のように角に集まっている。行灯はほとんどが消えていたが、油の匂いだけはまだ漂い、冷えた空気の低いところを這っていた。
裏手の狭い辻。昨夜、灯火と火花と白い布と血の色とが渦巻いた十字の交点は、今朝、何もなかったかのように沈静している。雪は夜のうちに新しく薄く被さり、黒ずんだ赤はところどころに滲むだけになった。転がっていた数珠の玉は、誰かが蹴ったのか、石畳の目地の奥で黒い目をひとつだけ覗かせている。
人の姿はない。足跡も、風と朝の人々の行き来に攪拌され、どれが誰のものか判然としない。白装束の剣士を探す目に応えるものは、どこにもない。
店先の雪を払う女が、箒を握る手を止めて、辻の方を一度見た。見て、それきり、見なかったことにするように目を逸らした。隣の男は、桶に汲んだ水で路地の血を薄める。水はすぐ冷え、薄い氷膜が歩の下でひび割れる。誰も言わない。言えば、名が生まれる。名があれば、問いが生まれる。問いがあれば、答えを持つ誰かを傷つける。
――そんな者は初めからいない。
そういう言い方が、今朝の京の空気の底に、最初から敷かれている。
※
木戸の軋みは、夜よりも軽かった。
今村家の裏庭。井戸の水面はもう月を手放し、灰色の空の色を受け取りかけている。井戸縁に置かれた小さな灯皿は煤を残して冷え、火鉢の灰の中には、赤い芯の名残が点のように埋もれていた。座布団が一枚、壁に寄せて斜めに置かれ、その上に薄く血の痕がついている。脇腹を巻いた布の切れ端が三つ、丸められて、壺の影に寄せてあった。丁寧に、しかし急いだ手つきが残っている。茶碗は伏せられ、縁に乾いた茶の輪。
秋一は、目覚めてすぐ、それらを見回した。息は整っている。夜のあいだ、夢は見なかった。代わりに、眠る直前の「ありがとう」という低い声と、木戸が開く短い音、そして雪の気配だけが、耳に残っている。
敷居の上に、濡れていない足跡が一つ。室の中に雪は持ち込まれていない。靴を脱いだのではない。雪の白と血の黒を、木の上に残さないように置かれた足――置きかたを、学んだ足だ。
秋一は戸口に膝をつき、指先で床板の筋をなぞった。そこに温もりの名残はもうない。けれど、置かれた手の重さの記憶は、板のほうが持ち続けているように思えた。手を置く――昨夜、そのことを彼自身が言葉にし、白装束の男が、うなずいた。うなずくことを、やっと学んだ人のうなずき方で。
「兄さん」
呼ぶ声は、家の奥へは行かなかった。春一は最近は帰らず、今朝もいない。おそらく、もう二度と帰ることはない。けれど、秋一はそれを見ないふりしていた。
秋一は帯を締め直し、小さな肩に布を一枚余計に引っ掛け、木戸を開けた。
裏庭の白は薄く、井戸縄は湿って重い。桶の縁に氷がうっすらついて、指が触れるとすぐとける。庭の隅の壺に手を伸ばし、丸められた血の布を、布袋に入れた。布は臭い。けれど、捨てられない。捨てるなら、もっと後だ。
木戸を静かに閉める前に、秋一は、蝶番のところに油を少し差した。夜、音が大きかったから。今夜また誰かが来るなら、音は小さいほうがいい。
路地に出る。白壁の影は、朝の光で浅くなっている。人の気配はまだ薄い。秋一は、昨夜の血と雪の辻を目指す道を知っていた。あの方角の風は、冬でも湿っている。洗い場の水がいつも溢れている小さな横町を抜け、竹箒が立てかけられたままの壁沿いを歩く。
辻は、沈黙の上に朝が降りているだけだった。
踏み返したはずの跡は、一様ではない足の群れに撹拌されて、見分けがつかない。けれど、秋一の目は、わずかな規則を拾い上げた。浅い踏みの連なり。片足が深く、片足が浅い。外側に重心を逃がす歩きかた。雪の膜の下に、乾いていく血の色。
「こっち」
誰に言うでもなく呟いて、秋一は狭い枝道へ折れた。突き当たりには、低い屋根に雪を残したままの空き家。破れた障子の内側で、風が鳴る。
屋根から落ちた雪が地面に山を作り、その脇に、空の鞘がひとつ、うつ伏せに置かれていた。鞘口は乾き、内部に血の色はない。布の端が巻きつけてあった名残はあるが、紐は切られている。
秋一はしゃがみこみ、鞘を両手で持ち上げた。冷たい。けれど、冷たさの質は夜のそれとは違う。夜の冷たさは、斬るためのものの冷たさだった。今朝の冷たさは、置くためのものの冷たさに近い。
(置いたんだ)
鞘を置いて行った。刃だけを持って。軽くするためだけじゃない。鞘は戻る場所だ。戻れないなら、置いていくしかない。
秋一は鞘を布袋に入れる。重さは、思っていたほどではない。
辻に戻る途中、昨夜、木戸の向こうから覗いていた老婆が、店先の雪を箒で払っていた。秋一は立ち止まり、軽く会釈をする。老婆は目を細め、手を止めない。
「ここで、白い人を見ました」
秋一が言うと、老婆は一瞬だけ顔を上げ、それから、静かに首を振った。
「そんな者は、初めからいないよ」
声は乾いているが、乾きを作ったのは時間ではなく、意思だ。
「いないのなら、ぼくが持っているこれは、何だろう」
秋一は布袋から、空の鞘の端だけを少し見せた。老婆は目を細め、すぐに目を逸らした。
「壊れた道具は、道具じゃない」
言って、箒を動かす。灰が風に乗って舞い、雪の白と混ざる。老婆の言葉は、言葉に似た何かだ。言葉ではない何かのほうが、多くのものを守るときがある。
秋一は、深くは追わず、礼をして去った。
※
蓮華宗の書庫は、いつもは湿り気と紙の匂いで満ちている。今朝はそこに、灰の匂いが混じっていた。
書庫番の僧たちは、巻物をほどき、筆を取るのではなく、刃で文字を削る。墨の粒が紙の繊維の奥に沈むほど書き込まれた箇所は、削っても痕が残る。痕が残ると、それは消えたとは言えない。だから、紙ごと切り落とし、継ぎ目から新たな紙を差し込み、糊で貼る。糊の匂いが、冬の湿り気と合わさって、喉に重く降りる。
巻物の端を巻く手が、いつもより少し震えている者もいる。震えは寒さではない。名前というものの重さを、今朝になって急に手が意識してしまっているのだ。
書院の奥、蓮光は両膝をつき、合掌していた。襖は閉じられている。庭の雪は見えない。背後の壁は白く、微かに石灰の粉の匂いがする。
蓮光は目を閉じ、手のひらの二枚の板の間に、祈りの魚のようなものを置くつもりでいた。だが、置こうとすると、指先の感覚が薄くなる。掌の皮膚の内側で、何かが少しずつ乾いていく音がする。
彼は、掌を開いた。空だった。
掌が空であることを確かめる動作は、己の無力を確かめるためのものに似ている。けれど、彼はそれを罰だとは思わなかった。罰であれば、赦しを求める対象がいる。しかし、ここには、赦す者も赦される者もいない。いるのは、消す者と、消される名だけだ。
「……名のない者の不在ほど、声を持たない静けさはない」
蓮光は口の中で言葉を転がした。
声がない。
声が無い静けさは、たしかに清らかにも見える。だが、その清らかさは、ただ、耳が慣れたというだけかもしれない。
昨夜の報せの端々――四辻の夜、僧兵の泣き声、火花と雪、笑っていたという仮面。蓮光の胸の内側では、それらの像が互いに触れ、切り傷の縁のように赤くなっていた。
「初めからいない」
そう言うことは、組織を守り、人を守り、祈りの形式を守る。
しかし、見てしまった者の内部に残った像を、どう処すのが祈りなのか。祈りは、本来、何かを思い出すための手続きではなかったか。
蓮光は、両手を再び合わせ、今度は合わせた指と指の間に、冷たい空気の重さを数えるように、呼吸をゆっくり置いた。
書庫の方から、紙が裂ける音がした。僧のひとりが躓き、小さく詫びる声が続く。蓮光は目を開けず、心の中で、その紙片の行方を思った。焼かれるだろうか。綴じ直されるだろうか。いずれにせよ、名はそこから外される。外された名は、どこへ行くのか。
――どこへも行かない。ただ、在ることをやめる。
名前のない塊――人の影、足の運び、笑いの形、血、雪、油の匂い。それらは、記録されない限り、ただの「昨夜」でしかない。
蓮光は、静かに目を開けた。襖の向こう側で、風が廊の隙間を通り、紙を鳴らす。音が雪に吸われ、長く伸びずに消える。彼は掌を見た。やはり空だ。
空の掌は、責務の持ち方を忘れた掌ではない。空であることを知っている掌だ。空であるからこそ、何かを受け取りもできる。何を受け取るのかは、今は分からない。分からなくても、手は手だ。
夕刻までに、書庫のいくつかの巻は綴じ直され、いくつかは焼かれた。煙は雪を嫌い、低く漂って消えた。僧たちの間で、その名を持ち出す者はもういない。
「そんな者は初めからいない」
それが合言葉のように、口にされずに交わされた。
※
秋一は、その日、三度、街を回った。
一度目は、朝のうち。辻から空き家へ、空き家から小川沿いへ。凍りかけた水面に、細い棒で突いた跡がいくつも残り、誰かが渡り板をずらして足場を作った痕跡がある。低い垣根の破れ目は、その先の路地へ抜けるために新しく開いたらしい。裂けた竹が、鋭い。手を切って血を落とした跡が、竹の節の先に黒くなって残っていた。
秋一は、指の腹でそっと触れ、匂いを嗅いだ。鉄の匂いは薄い。昨夜のものだ。彼は、破れ目を通り、細い暫定の道を辿る。途中、猫が一匹、塀の上から彼を見て、尾をぴんと立て、すぐに身を翻して去った。足の運びが軽い。猫は、危険の匂いを、長く体に留めない。
二度目は、昼近く。人が増え、路地の音が戻り始める時間。人いきれの中に紛れて歩くには、秋一の背は低すぎたが、低い背は低い背なりに、足下の情報をよく拾った。布切れ、草鞋のちぎれ、凍った泥の塊、潰れた南天の実。昨夜の剣の人は、ここを通っていない。踏み幅が違う。うなじのあたりに乗る影の重さが違う。
秋一は、人と人の間を縫うように歩き、あの白の匂いを探した。白には匂いがない。けれど、白いものの周りの空気は、少しだけ冷える。冷える場所は、道の曲がり角や、暖簾の影や、納屋のすき間に現れやすい。
彼は、目に見えないその冷えを、嗅ぐように、感じ取った。二度ほど、立ち止まり、首を傾ける。風が背中を押す。押されるままには動かない。風の癖を掴む。癖の先に、ひとつ、小さな痕跡――砂利の上に残された、木片の小さな欠片。鞘の口にかませる詮の破片。
秋一はそれを拾い、布袋に入れた。空の鞘と同じ匂いがした。
三度目は、夕暮れ。
日暮れは雪よりも早く、灰色の空は、うすく紫を差して低くなった。人家の屋根は灰をかぶり、庇の端の白は残ったまま、風で削られた線を見せている。
秋一は、北のほうへ足を向けた。北に行けば、山裾の村に縁のある薬草屋がある。彼ら兄弟はそこに蔵の手伝いに行くことがある。薬草の匂いは、冬でも濃く、血の匂いと別の重さを持っている。
店先まで行き、帳場の叔父さんに礼を言い、何か残りの布がないかと尋ねると、叔父さんは布団の古い端を何枚か出してくれた。秋一はそれを受け取り、ついでに、薄荷の擦り粉を少量、小袋に入れてもらった。薄荷は、血の匂いを少しだけ別の匂いにずらす。匂いを消すわけではないが、追う鼻を惑わせるには十分だ。
帰り道、秋一は、ふと、空の鞘を思い出した。鞘のない剣は、戻る場所がない。戻る場所がない剣は、やがて手からこぼれる。こぼれたとき、どこへ落ちるのか。落ちたものを拾う手は、斬らない手であってほしい。
彼は、歩きながら、布袋の口紐を固く結んだ。
※
――彼は、朝の前に出ていた。
白壁の影は、夜明け前のほうが深い。深い影の底では、ものの輪郭が一度崩れ、再び結ばれる。
手は、柄を探さなかった。昨夜、井戸のそばで学んだ置き方で、肘の上に置いた。指が重なり、指の関節が互いに支え合う。支える手は置く手で、置く手は斬らない手だ。
彼は、帰り道を作った。木戸の油の音を小さくし、蝶番の乾いた悲鳴を和らげ、庭の雪に足を沈めすぎないよう、踵ではなく足裏全体で白を受けた。
辻に近づくと、風は昨夜の火花の匂いと油の匂いとを、薄荷のように冷やかにして彼を迎えた。彼は笑わなかった。笑いは仮面で、仮面はもう、必要ない。
空き家の影で、布の帯を締め直し、肩口の布を替えた。血の色は黒くなり、痛みは細く、しかし芯を持って続いている。続く痛みは、彼の輪郭を維持した。
屋根の雪がずり落ちる音がした。彼は反射的に身をすぼめたが、次の瞬間、首を振った。剣に手をやろうとする癖を、手前で止める。止めることができた自分に、驚く。驚きは、恐怖ではない。
鞘は、空き家の屋根の下に置いた。戻らない約束。戻らないのであれば、戻るための形を、別の場所に作る。その場所に、手を置く。
彼は、北へ向かう風の細い筋を選んで歩いた。歩幅は以前より短く、重心は外に。深い雪は避け、浅い雪の脇の土の線を踏む。猫が塀から彼を見た。猫の目は、斬るものではなく、飢えを測る目だ。猫は、彼を飢えたものとしては見なかった。
道すがら、小さな箒が倒れていた。昨夜の風のせいだろう。彼は、箒をひょいと拾い、壁に立てかけ直した。手の動きはぎこちない。ぎこちなさは、人の形に近い。
彼は、風の中に薄く混じった薬草の匂いを嗅ぎつけ、そこで一度立ち止まった。
――戻る場所は、手の置き場の先にある。
彼の足は、再び動いた。
※
暮れ六つ。
蓮光は、書院の縁側に出て、雪を見た。雪はやまない。やまないからといって、同じものが降り続くわけではない。降るものは、少しずつ変わっている。大きさ、形、落ちる角度、融け方。名もない個々の違いが、積もると白になる。
彼は、何も思いつかないまま、掌を重ね、指を伸ばした。伸ばした指は、空を掬う形になった。空が、掬えるはずがない。けれど、その形を取ることに意味はある。意味が形の中に後から入ってくることは、祈りに限らず、よくある。
「蓮光さま」
書庫番の若い僧が、襖の外で低く呼んだ。
「何だ」
「……あの件は、もう、口にするなと」
「もう、口にするな」
蓮光は復唱し、うなずいた。
若い僧の足音が離れていく。雪の音に紛れて、すぐに消える。
蓮光は、掌を見た。指の関節に、墨の薄い痕が残っている。誰かの名を削った指だ。彼は、その指を、膝に置いた。置くことは、持つことではない。だが、置くことができるなら、まだ人の形をしている。
書院の柱の陰で、古い木札が一枚、いつからか落ちていたのを彼は見つけた。札には、読めないほど薄れた文字が刻まれている。名だったはずのものだ。
彼はそれを拾い上げ、しばらく親指で擦った。擦ると、文字は浮かび上がらない。浮かび上がらないからこそ、彼は札を袖に入れた。袖に入れておけば、誰かが見つけて捨てることはない。捨てられない限り、名は名の形をわずかに保つ。
「初めからいない」
誰にも聞こえないように、彼はもう一度だけ言った。
言って、それから、心の中で、言い直した。
――初めから、いた。
いた、が、いなくなった。
それは、祈りの難題であり、記録の難題であり、人の難題だ。
※
秋一は、家に戻った。
木戸の鍵は、外しておいた。蝶番の油はよく効き、音はほとんどしない。井戸の縁に腰かけ、布袋を膝に置いた。
布袋から、空の鞘を取り出し、両手で持った。鞘口の縁に、昨夜の血が薄く乾いている。指先でそれをなぞる。血は、もう冷たくはない。冷たくない血を触ると、胸の中が、少しだけ熱くなる。
「通りすがりさん」
名前の代わりの名を呼ぶ。呼んでも、返事はない。
秋一は、鞘を井戸の脇の棚に置いた。置いてから、布で覆った。覆いながら、心の中で言う。
――帰り道は、ここにある。
彼は、昨夜、茶を温めた鉄瓶を火鉢にかけ直した。炭は尽きている。火はまた起こさなければならない。彼は、息を静かに吹き、灰の下にわずかに残る紅を探す。見つからなければ、隣家から種火をもらう。
外では、雪がまた細かくなった。木戸の上に新しい白が乗る。
秋一は、兄の帰りを待つ癖で、戸口のほうを一度見て、それから、井戸の水を一杯汲み、布を湿らせた。もし、今夜――もし、明晩――もし、いつか――。
置く手の練習を、彼は続ける。支える手は、置く手だ。
※
夜の京は、雪と灰で音を鈍らせながら、確かに動いている。
祠の前に小さな供えが置かれ、路地の角で子らが雪を丸め、旅籠の軒で旅人が草鞋を干し、廻船問屋の帳場でひとりが算盤を打ち、橋の上で恋人が別れの言葉を飲み込み、寺の鐘が遠くで、雪を嫌って低く鳴る。
そのどこにも、白装束の姿はない。見えないだけだ、と言う者はいない。言わないのではなく、言えない。言えないのではなく、言わないことにしている。
人は、言わないことにすることで、いくらかの温度を守る。
けれど、見えないものは、ないのではない。
彼は、在る。
人の姿を、だんだん取り戻しながら、在る。
斬るために上がっていた肩が、少しずつ落ち、柄を探し続けていた指が、少しずつ互いを支え合い、笑いの仮面が、口の端の癖に変わり、癖が、やがてただの癖になる。
誰かの箒を起こし、倒れた桶を立て、戸口の前の雪を一すじ払う。
通りすがりの細波のように。
その小さな行いが、名のかわりに道の端に残る。
蓮光は、その夜、書院の灯を落としてから、袖の中の木札を、もう一度取り出した。文字は読めない。
読めないまま、彼は小さな白い紙片を札に巻き、糸で結んだ。紙片は空白だ。空白は、書き始めの形をしている。
彼は札を袖に戻し、息を吐いた。吐く息に、薄荷のような冷ややかさが混じった気がした。気のせいかもしれない。気のせいだとしても、冷たさは、彼の内側に、少しだけ隙間を作った。隙間があれば、ものは置ける。
置けるなら、彼は、何かを置く日のために、掌の形を忘れないでいられる。
*
翌朝、さらに雪が降った。
屋根は灰を被り、白を被り、遠目には、京の町全体が一枚の布をかぶって眠っているように見えた。
蓮華宗の書庫では、新しい巻が棚に戻され、古い巻は灰になって、もう匂いしかしない。
僧は語らない。語らないことが日常になるには、三日とかからない。
町人は見ない。見ないことが習慣になるには、半日で足りる。
秋一は、木戸の鍵を外したまま、昼までに二度、井戸の水を替えた。空の鞘の上の布は、薄く湿りを含み、それが乾く速度を、彼は目で測った。乾けば、また湿らせる。湿っていれば、そのままにする。
「兄さん」
春一は、やはり帰らない。
けれど、秋一の手は、待つ手になっていない。置く手になっている。
置かれた手の上を、冬の光がすべっていく。光は温かくないが、痛くもない。
そして、どこにも、白装束の姿はない。
それが、京にとっての平穏の形であり、その平穏の上に、誰かの手の置き場所が、小さく増え始めている。
名のない者の不在は、声を持たない静けさだ。
しかし、静けさの底では、誰にも聞こえない音が、しずかに鳴っている。
――人の姿に戻っていく、小さな音。
桶の底が石に触れる音。
火鉢の灰の下で、紅がひとつだけ息をする音。
木戸の蝶番に差した油が、軋みを和らげる音。
箒が壁に立てかけ直される、短い音。
そして、井戸の水を覗き込むとき、息を浅くして覗く者の、息の音。
雪は、今日も降る。
白は灰を覆い、灰は白の縁を汚す。
その往来の中に、あるはずのない名が、あるべきではない形で、わずかに残り続ける。
誰もそれを口にしない。
それでも、在る。
――白き者、姿を消す。
消えたことが、本当の不在ではない。
人の姿で、在ること。それを、彼が、ゆっくりと思い出しつつあるということ。
それが、この冬の京の、いちばんたしかな、秘密だった。
白は、夜明けとともに灰の薄膜をまとった。
京の路地は、夜に降りきれなかった雪と、昨日の火勢が吐き出した煤とで、黙っているものばかりになっていた。屋根の瓦はしっとり黒く、庇の端にだけ白が残り、風の通り道では粉になった灰が、掃き残された落ち葉のように角に集まっている。行灯はほとんどが消えていたが、油の匂いだけはまだ漂い、冷えた空気の低いところを這っていた。
裏手の狭い辻。昨夜、灯火と火花と白い布と血の色とが渦巻いた十字の交点は、今朝、何もなかったかのように沈静している。雪は夜のうちに新しく薄く被さり、黒ずんだ赤はところどころに滲むだけになった。転がっていた数珠の玉は、誰かが蹴ったのか、石畳の目地の奥で黒い目をひとつだけ覗かせている。
人の姿はない。足跡も、風と朝の人々の行き来に攪拌され、どれが誰のものか判然としない。白装束の剣士を探す目に応えるものは、どこにもない。
店先の雪を払う女が、箒を握る手を止めて、辻の方を一度見た。見て、それきり、見なかったことにするように目を逸らした。隣の男は、桶に汲んだ水で路地の血を薄める。水はすぐ冷え、薄い氷膜が歩の下でひび割れる。誰も言わない。言えば、名が生まれる。名があれば、問いが生まれる。問いがあれば、答えを持つ誰かを傷つける。
――そんな者は初めからいない。
そういう言い方が、今朝の京の空気の底に、最初から敷かれている。
※
木戸の軋みは、夜よりも軽かった。
今村家の裏庭。井戸の水面はもう月を手放し、灰色の空の色を受け取りかけている。井戸縁に置かれた小さな灯皿は煤を残して冷え、火鉢の灰の中には、赤い芯の名残が点のように埋もれていた。座布団が一枚、壁に寄せて斜めに置かれ、その上に薄く血の痕がついている。脇腹を巻いた布の切れ端が三つ、丸められて、壺の影に寄せてあった。丁寧に、しかし急いだ手つきが残っている。茶碗は伏せられ、縁に乾いた茶の輪。
秋一は、目覚めてすぐ、それらを見回した。息は整っている。夜のあいだ、夢は見なかった。代わりに、眠る直前の「ありがとう」という低い声と、木戸が開く短い音、そして雪の気配だけが、耳に残っている。
敷居の上に、濡れていない足跡が一つ。室の中に雪は持ち込まれていない。靴を脱いだのではない。雪の白と血の黒を、木の上に残さないように置かれた足――置きかたを、学んだ足だ。
秋一は戸口に膝をつき、指先で床板の筋をなぞった。そこに温もりの名残はもうない。けれど、置かれた手の重さの記憶は、板のほうが持ち続けているように思えた。手を置く――昨夜、そのことを彼自身が言葉にし、白装束の男が、うなずいた。うなずくことを、やっと学んだ人のうなずき方で。
「兄さん」
呼ぶ声は、家の奥へは行かなかった。春一は最近は帰らず、今朝もいない。おそらく、もう二度と帰ることはない。けれど、秋一はそれを見ないふりしていた。
秋一は帯を締め直し、小さな肩に布を一枚余計に引っ掛け、木戸を開けた。
裏庭の白は薄く、井戸縄は湿って重い。桶の縁に氷がうっすらついて、指が触れるとすぐとける。庭の隅の壺に手を伸ばし、丸められた血の布を、布袋に入れた。布は臭い。けれど、捨てられない。捨てるなら、もっと後だ。
木戸を静かに閉める前に、秋一は、蝶番のところに油を少し差した。夜、音が大きかったから。今夜また誰かが来るなら、音は小さいほうがいい。
路地に出る。白壁の影は、朝の光で浅くなっている。人の気配はまだ薄い。秋一は、昨夜の血と雪の辻を目指す道を知っていた。あの方角の風は、冬でも湿っている。洗い場の水がいつも溢れている小さな横町を抜け、竹箒が立てかけられたままの壁沿いを歩く。
辻は、沈黙の上に朝が降りているだけだった。
踏み返したはずの跡は、一様ではない足の群れに撹拌されて、見分けがつかない。けれど、秋一の目は、わずかな規則を拾い上げた。浅い踏みの連なり。片足が深く、片足が浅い。外側に重心を逃がす歩きかた。雪の膜の下に、乾いていく血の色。
「こっち」
誰に言うでもなく呟いて、秋一は狭い枝道へ折れた。突き当たりには、低い屋根に雪を残したままの空き家。破れた障子の内側で、風が鳴る。
屋根から落ちた雪が地面に山を作り、その脇に、空の鞘がひとつ、うつ伏せに置かれていた。鞘口は乾き、内部に血の色はない。布の端が巻きつけてあった名残はあるが、紐は切られている。
秋一はしゃがみこみ、鞘を両手で持ち上げた。冷たい。けれど、冷たさの質は夜のそれとは違う。夜の冷たさは、斬るためのものの冷たさだった。今朝の冷たさは、置くためのものの冷たさに近い。
(置いたんだ)
鞘を置いて行った。刃だけを持って。軽くするためだけじゃない。鞘は戻る場所だ。戻れないなら、置いていくしかない。
秋一は鞘を布袋に入れる。重さは、思っていたほどではない。
辻に戻る途中、昨夜、木戸の向こうから覗いていた老婆が、店先の雪を箒で払っていた。秋一は立ち止まり、軽く会釈をする。老婆は目を細め、手を止めない。
「ここで、白い人を見ました」
秋一が言うと、老婆は一瞬だけ顔を上げ、それから、静かに首を振った。
「そんな者は、初めからいないよ」
声は乾いているが、乾きを作ったのは時間ではなく、意思だ。
「いないのなら、ぼくが持っているこれは、何だろう」
秋一は布袋から、空の鞘の端だけを少し見せた。老婆は目を細め、すぐに目を逸らした。
「壊れた道具は、道具じゃない」
言って、箒を動かす。灰が風に乗って舞い、雪の白と混ざる。老婆の言葉は、言葉に似た何かだ。言葉ではない何かのほうが、多くのものを守るときがある。
秋一は、深くは追わず、礼をして去った。
※
蓮華宗の書庫は、いつもは湿り気と紙の匂いで満ちている。今朝はそこに、灰の匂いが混じっていた。
書庫番の僧たちは、巻物をほどき、筆を取るのではなく、刃で文字を削る。墨の粒が紙の繊維の奥に沈むほど書き込まれた箇所は、削っても痕が残る。痕が残ると、それは消えたとは言えない。だから、紙ごと切り落とし、継ぎ目から新たな紙を差し込み、糊で貼る。糊の匂いが、冬の湿り気と合わさって、喉に重く降りる。
巻物の端を巻く手が、いつもより少し震えている者もいる。震えは寒さではない。名前というものの重さを、今朝になって急に手が意識してしまっているのだ。
書院の奥、蓮光は両膝をつき、合掌していた。襖は閉じられている。庭の雪は見えない。背後の壁は白く、微かに石灰の粉の匂いがする。
蓮光は目を閉じ、手のひらの二枚の板の間に、祈りの魚のようなものを置くつもりでいた。だが、置こうとすると、指先の感覚が薄くなる。掌の皮膚の内側で、何かが少しずつ乾いていく音がする。
彼は、掌を開いた。空だった。
掌が空であることを確かめる動作は、己の無力を確かめるためのものに似ている。けれど、彼はそれを罰だとは思わなかった。罰であれば、赦しを求める対象がいる。しかし、ここには、赦す者も赦される者もいない。いるのは、消す者と、消される名だけだ。
「……名のない者の不在ほど、声を持たない静けさはない」
蓮光は口の中で言葉を転がした。
声がない。
声が無い静けさは、たしかに清らかにも見える。だが、その清らかさは、ただ、耳が慣れたというだけかもしれない。
昨夜の報せの端々――四辻の夜、僧兵の泣き声、火花と雪、笑っていたという仮面。蓮光の胸の内側では、それらの像が互いに触れ、切り傷の縁のように赤くなっていた。
「初めからいない」
そう言うことは、組織を守り、人を守り、祈りの形式を守る。
しかし、見てしまった者の内部に残った像を、どう処すのが祈りなのか。祈りは、本来、何かを思い出すための手続きではなかったか。
蓮光は、両手を再び合わせ、今度は合わせた指と指の間に、冷たい空気の重さを数えるように、呼吸をゆっくり置いた。
書庫の方から、紙が裂ける音がした。僧のひとりが躓き、小さく詫びる声が続く。蓮光は目を開けず、心の中で、その紙片の行方を思った。焼かれるだろうか。綴じ直されるだろうか。いずれにせよ、名はそこから外される。外された名は、どこへ行くのか。
――どこへも行かない。ただ、在ることをやめる。
名前のない塊――人の影、足の運び、笑いの形、血、雪、油の匂い。それらは、記録されない限り、ただの「昨夜」でしかない。
蓮光は、静かに目を開けた。襖の向こう側で、風が廊の隙間を通り、紙を鳴らす。音が雪に吸われ、長く伸びずに消える。彼は掌を見た。やはり空だ。
空の掌は、責務の持ち方を忘れた掌ではない。空であることを知っている掌だ。空であるからこそ、何かを受け取りもできる。何を受け取るのかは、今は分からない。分からなくても、手は手だ。
夕刻までに、書庫のいくつかの巻は綴じ直され、いくつかは焼かれた。煙は雪を嫌い、低く漂って消えた。僧たちの間で、その名を持ち出す者はもういない。
「そんな者は初めからいない」
それが合言葉のように、口にされずに交わされた。
※
秋一は、その日、三度、街を回った。
一度目は、朝のうち。辻から空き家へ、空き家から小川沿いへ。凍りかけた水面に、細い棒で突いた跡がいくつも残り、誰かが渡り板をずらして足場を作った痕跡がある。低い垣根の破れ目は、その先の路地へ抜けるために新しく開いたらしい。裂けた竹が、鋭い。手を切って血を落とした跡が、竹の節の先に黒くなって残っていた。
秋一は、指の腹でそっと触れ、匂いを嗅いだ。鉄の匂いは薄い。昨夜のものだ。彼は、破れ目を通り、細い暫定の道を辿る。途中、猫が一匹、塀の上から彼を見て、尾をぴんと立て、すぐに身を翻して去った。足の運びが軽い。猫は、危険の匂いを、長く体に留めない。
二度目は、昼近く。人が増え、路地の音が戻り始める時間。人いきれの中に紛れて歩くには、秋一の背は低すぎたが、低い背は低い背なりに、足下の情報をよく拾った。布切れ、草鞋のちぎれ、凍った泥の塊、潰れた南天の実。昨夜の剣の人は、ここを通っていない。踏み幅が違う。うなじのあたりに乗る影の重さが違う。
秋一は、人と人の間を縫うように歩き、あの白の匂いを探した。白には匂いがない。けれど、白いものの周りの空気は、少しだけ冷える。冷える場所は、道の曲がり角や、暖簾の影や、納屋のすき間に現れやすい。
彼は、目に見えないその冷えを、嗅ぐように、感じ取った。二度ほど、立ち止まり、首を傾ける。風が背中を押す。押されるままには動かない。風の癖を掴む。癖の先に、ひとつ、小さな痕跡――砂利の上に残された、木片の小さな欠片。鞘の口にかませる詮の破片。
秋一はそれを拾い、布袋に入れた。空の鞘と同じ匂いがした。
三度目は、夕暮れ。
日暮れは雪よりも早く、灰色の空は、うすく紫を差して低くなった。人家の屋根は灰をかぶり、庇の端の白は残ったまま、風で削られた線を見せている。
秋一は、北のほうへ足を向けた。北に行けば、山裾の村に縁のある薬草屋がある。彼ら兄弟はそこに蔵の手伝いに行くことがある。薬草の匂いは、冬でも濃く、血の匂いと別の重さを持っている。
店先まで行き、帳場の叔父さんに礼を言い、何か残りの布がないかと尋ねると、叔父さんは布団の古い端を何枚か出してくれた。秋一はそれを受け取り、ついでに、薄荷の擦り粉を少量、小袋に入れてもらった。薄荷は、血の匂いを少しだけ別の匂いにずらす。匂いを消すわけではないが、追う鼻を惑わせるには十分だ。
帰り道、秋一は、ふと、空の鞘を思い出した。鞘のない剣は、戻る場所がない。戻る場所がない剣は、やがて手からこぼれる。こぼれたとき、どこへ落ちるのか。落ちたものを拾う手は、斬らない手であってほしい。
彼は、歩きながら、布袋の口紐を固く結んだ。
※
――彼は、朝の前に出ていた。
白壁の影は、夜明け前のほうが深い。深い影の底では、ものの輪郭が一度崩れ、再び結ばれる。
手は、柄を探さなかった。昨夜、井戸のそばで学んだ置き方で、肘の上に置いた。指が重なり、指の関節が互いに支え合う。支える手は置く手で、置く手は斬らない手だ。
彼は、帰り道を作った。木戸の油の音を小さくし、蝶番の乾いた悲鳴を和らげ、庭の雪に足を沈めすぎないよう、踵ではなく足裏全体で白を受けた。
辻に近づくと、風は昨夜の火花の匂いと油の匂いとを、薄荷のように冷やかにして彼を迎えた。彼は笑わなかった。笑いは仮面で、仮面はもう、必要ない。
空き家の影で、布の帯を締め直し、肩口の布を替えた。血の色は黒くなり、痛みは細く、しかし芯を持って続いている。続く痛みは、彼の輪郭を維持した。
屋根の雪がずり落ちる音がした。彼は反射的に身をすぼめたが、次の瞬間、首を振った。剣に手をやろうとする癖を、手前で止める。止めることができた自分に、驚く。驚きは、恐怖ではない。
鞘は、空き家の屋根の下に置いた。戻らない約束。戻らないのであれば、戻るための形を、別の場所に作る。その場所に、手を置く。
彼は、北へ向かう風の細い筋を選んで歩いた。歩幅は以前より短く、重心は外に。深い雪は避け、浅い雪の脇の土の線を踏む。猫が塀から彼を見た。猫の目は、斬るものではなく、飢えを測る目だ。猫は、彼を飢えたものとしては見なかった。
道すがら、小さな箒が倒れていた。昨夜の風のせいだろう。彼は、箒をひょいと拾い、壁に立てかけ直した。手の動きはぎこちない。ぎこちなさは、人の形に近い。
彼は、風の中に薄く混じった薬草の匂いを嗅ぎつけ、そこで一度立ち止まった。
――戻る場所は、手の置き場の先にある。
彼の足は、再び動いた。
※
暮れ六つ。
蓮光は、書院の縁側に出て、雪を見た。雪はやまない。やまないからといって、同じものが降り続くわけではない。降るものは、少しずつ変わっている。大きさ、形、落ちる角度、融け方。名もない個々の違いが、積もると白になる。
彼は、何も思いつかないまま、掌を重ね、指を伸ばした。伸ばした指は、空を掬う形になった。空が、掬えるはずがない。けれど、その形を取ることに意味はある。意味が形の中に後から入ってくることは、祈りに限らず、よくある。
「蓮光さま」
書庫番の若い僧が、襖の外で低く呼んだ。
「何だ」
「……あの件は、もう、口にするなと」
「もう、口にするな」
蓮光は復唱し、うなずいた。
若い僧の足音が離れていく。雪の音に紛れて、すぐに消える。
蓮光は、掌を見た。指の関節に、墨の薄い痕が残っている。誰かの名を削った指だ。彼は、その指を、膝に置いた。置くことは、持つことではない。だが、置くことができるなら、まだ人の形をしている。
書院の柱の陰で、古い木札が一枚、いつからか落ちていたのを彼は見つけた。札には、読めないほど薄れた文字が刻まれている。名だったはずのものだ。
彼はそれを拾い上げ、しばらく親指で擦った。擦ると、文字は浮かび上がらない。浮かび上がらないからこそ、彼は札を袖に入れた。袖に入れておけば、誰かが見つけて捨てることはない。捨てられない限り、名は名の形をわずかに保つ。
「初めからいない」
誰にも聞こえないように、彼はもう一度だけ言った。
言って、それから、心の中で、言い直した。
――初めから、いた。
いた、が、いなくなった。
それは、祈りの難題であり、記録の難題であり、人の難題だ。
※
秋一は、家に戻った。
木戸の鍵は、外しておいた。蝶番の油はよく効き、音はほとんどしない。井戸の縁に腰かけ、布袋を膝に置いた。
布袋から、空の鞘を取り出し、両手で持った。鞘口の縁に、昨夜の血が薄く乾いている。指先でそれをなぞる。血は、もう冷たくはない。冷たくない血を触ると、胸の中が、少しだけ熱くなる。
「通りすがりさん」
名前の代わりの名を呼ぶ。呼んでも、返事はない。
秋一は、鞘を井戸の脇の棚に置いた。置いてから、布で覆った。覆いながら、心の中で言う。
――帰り道は、ここにある。
彼は、昨夜、茶を温めた鉄瓶を火鉢にかけ直した。炭は尽きている。火はまた起こさなければならない。彼は、息を静かに吹き、灰の下にわずかに残る紅を探す。見つからなければ、隣家から種火をもらう。
外では、雪がまた細かくなった。木戸の上に新しい白が乗る。
秋一は、兄の帰りを待つ癖で、戸口のほうを一度見て、それから、井戸の水を一杯汲み、布を湿らせた。もし、今夜――もし、明晩――もし、いつか――。
置く手の練習を、彼は続ける。支える手は、置く手だ。
※
夜の京は、雪と灰で音を鈍らせながら、確かに動いている。
祠の前に小さな供えが置かれ、路地の角で子らが雪を丸め、旅籠の軒で旅人が草鞋を干し、廻船問屋の帳場でひとりが算盤を打ち、橋の上で恋人が別れの言葉を飲み込み、寺の鐘が遠くで、雪を嫌って低く鳴る。
そのどこにも、白装束の姿はない。見えないだけだ、と言う者はいない。言わないのではなく、言えない。言えないのではなく、言わないことにしている。
人は、言わないことにすることで、いくらかの温度を守る。
けれど、見えないものは、ないのではない。
彼は、在る。
人の姿を、だんだん取り戻しながら、在る。
斬るために上がっていた肩が、少しずつ落ち、柄を探し続けていた指が、少しずつ互いを支え合い、笑いの仮面が、口の端の癖に変わり、癖が、やがてただの癖になる。
誰かの箒を起こし、倒れた桶を立て、戸口の前の雪を一すじ払う。
通りすがりの細波のように。
その小さな行いが、名のかわりに道の端に残る。
蓮光は、その夜、書院の灯を落としてから、袖の中の木札を、もう一度取り出した。文字は読めない。
読めないまま、彼は小さな白い紙片を札に巻き、糸で結んだ。紙片は空白だ。空白は、書き始めの形をしている。
彼は札を袖に戻し、息を吐いた。吐く息に、薄荷のような冷ややかさが混じった気がした。気のせいかもしれない。気のせいだとしても、冷たさは、彼の内側に、少しだけ隙間を作った。隙間があれば、ものは置ける。
置けるなら、彼は、何かを置く日のために、掌の形を忘れないでいられる。
*
翌朝、さらに雪が降った。
屋根は灰を被り、白を被り、遠目には、京の町全体が一枚の布をかぶって眠っているように見えた。
蓮華宗の書庫では、新しい巻が棚に戻され、古い巻は灰になって、もう匂いしかしない。
僧は語らない。語らないことが日常になるには、三日とかからない。
町人は見ない。見ないことが習慣になるには、半日で足りる。
秋一は、木戸の鍵を外したまま、昼までに二度、井戸の水を替えた。空の鞘の上の布は、薄く湿りを含み、それが乾く速度を、彼は目で測った。乾けば、また湿らせる。湿っていれば、そのままにする。
「兄さん」
春一は、やはり帰らない。
けれど、秋一の手は、待つ手になっていない。置く手になっている。
置かれた手の上を、冬の光がすべっていく。光は温かくないが、痛くもない。
そして、どこにも、白装束の姿はない。
それが、京にとっての平穏の形であり、その平穏の上に、誰かの手の置き場所が、小さく増え始めている。
名のない者の不在は、声を持たない静けさだ。
しかし、静けさの底では、誰にも聞こえない音が、しずかに鳴っている。
――人の姿に戻っていく、小さな音。
桶の底が石に触れる音。
火鉢の灰の下で、紅がひとつだけ息をする音。
木戸の蝶番に差した油が、軋みを和らげる音。
箒が壁に立てかけ直される、短い音。
そして、井戸の水を覗き込むとき、息を浅くして覗く者の、息の音。
雪は、今日も降る。
白は灰を覆い、灰は白の縁を汚す。
その往来の中に、あるはずのない名が、あるべきではない形で、わずかに残り続ける。
誰もそれを口にしない。
それでも、在る。
――白き者、姿を消す。
消えたことが、本当の不在ではない。
人の姿で、在ること。それを、彼が、ゆっくりと思い出しつつあるということ。
それが、この冬の京の、いちばんたしかな、秘密だった。



