名もなき剣に、雪が降る ― 天文蓮華戦乱記

第十話「斬ることの外にあるもの」

 白壁の影は、夜の中でいちばん冷たかった。
 足の裏で雪が軋み、踏みしだかれた白の下から、湿った土の色がのぞく。そこに残るのは、大小の赤い点と、引きずるような不規則な線。歩幅は徐々に狭まり、壁際に寄っている。肩で息をしながら、沖田静は白壁の凹凸を杖代わりに、片方の掌でなぞるように進んだ。掌に触れる漆喰は乾いていて、ひびの内側にだけ夜の湿り気が潜んでいた。
 風は、遠い辻の火のにおいを運んでくる。油と煤、血の鉄。どれも嗅ぎわけられるのに、鼻腔の奥でひとつの鈍い塊になって居座っている。呼吸を深くすると咳がこみ上げる。咳が出れば、胸の釘が内側からずれ、骨が一本ずつ音を立てる。そうやって立ち止まるたび、自分の体が、自分でないものに近づいていくような感覚があった。斬るときの身体は、よくできた道具だ。けれど、いまは道具の柄が手の中でほどけていく。
 白壁の角を曲がる。袋小路の手前、低い木戸が夜に沈んでいる。外から見ればただの裏庭への出入口にすぎないが、静はそこに、かすかな生活の温度を嗅ぎ取った。炊き場の灰と、井戸の縄の水気と、布を干したときに残る石鹸草の匂い。人の居る場所の匂いだ。
 ――行くべきではない。
 そう思う理屈はあった。けれど、行かない理由は、いまの静の足には薄すぎた。
 木戸に手を掛ける。
「……っ」
 指先が、柄の感触を探して空をひっかく。そこにあるはずの重みがない。代わりに、濡れた布のような自分の白装束の裾が、指にふにゃりと絡む。笑いそうになって、笑えない。笑いは仮面だ。いま、その仮面は、血の重みで顔に張り付いて剥がれない。
 木戸は押すと、ぎ、と短く軋んだ。夜気を切り裂くほどではないが、静の胸の奥にはっきり届く。開いた先は狭い裏庭。土の地面に薄く雪が積もり、板塀に沿って古い壺や桶が並んでいる。庭の真ん中に四角い井戸があって、丸い月が水面に小さく揺れていた。井戸の縁には灯火が一つ、油皿の火が風に怯えながらも、月の白をかすかに温めて見せている。
 その灯の下に、ひとりの少年が立っていた。
 背丈は板塀の半ばほど、髪は耳の辺りで切りそろえられ、目を凝らすと、その瞳の形に覚えがあった。春一――あの少年の、兄の名。よく似た眼差しが、まっすぐにこちらを見ている。
 少年は両の手に布切れを抱え、足許には桶。井戸縄が手前に引き出され、湿り気が冬の冷たさを帯びている。
「……来ると思っていました」
 少年が言った。声は高すぎず、でも年相応に細い。
 静は答えず、木戸の枠に肩を寄せる。そこで初めて、自分の体重の置き方を間違えていたことに気づいた。片足に掛けすぎると視界が斜めになる。斜めの世界は、雪をこぼしやすい。
 少年は一歩、灯に入った。頬に月の白が乗り、瞳の中の黒が深くなる。
「あなたは、まだ、生きてる」
 はっきりと、しかし囁きのように。
 その言葉は、静の胸の内側に落ちた。落ちたのち、釘の周りにゆっくり沈む砂のように、形を変えずに重さだけを増した。
 右の手が、柄を探す動きを止める。空を掴んだままの手を、静は自分の腹の方へ、ぎこちなく戻した。濡れた布地が掌に貼り付く。指の間が冷えて、やたらと大きく感じられる。
「……そう、ですか」
 声を出すと、胸の釘がきしむ。だが、声は出た。自分の声だと分かる程度に。
 少年は、木箱の上から裂いた布を取り、井戸の水で湿らせた。
「座ってください」
 言いながら、静の足許の雪を手で払って、地面を露わにする。その手つきに迷いがないのは、怖がっていないからではない。怖がる暇がないほど、目の前のことに集中しているのだと分かる。
 静は木戸から背を離し、井戸の脇まで歩いて、縁に腰をかけた。腰骨に石の冷たさが直に来る。そこに自分がいる、と分かる冷たさだった。
 少年は膝をついて、静の脇腹の布をめくった。黒ずんだ赤がべたりと広がって、布の繊維が皮膚に溶け込むように張り付いている。少年は躊躇なく布を裂き、湿らせた布で血の縁を押さえる。
「冷たいですよ」
 言われる前に冷たかったが、言葉があると冷たさは、少しだけ違う。
 静は、息の仕方を変える。吸うより、吐く。吐いてから、また吐く。吐けるものがあるうちは、まだ大丈夫だと、身体が勝手に数え上げる。
「兄が、同じように帰ってきたことが、ありました」
 少年は、脇腹の次に、肩口の裂け目に手を当てた。
「春一は、あまり喋らないんです。だから、手当てをしている間は、ぼくが喋ります。手が止まらないように」
 静は視線を井戸に落とした。水面が月を揺らす。揺れは、小さな波紋となって、四角い枠にぶつかって、戻ってくる。
「あなたは、まだ、生きてる」
 少年はもう一度、言った。
 そのたびに、柄から離れた手が、不意にどこに置けばいいのか分からなくなる。斬ることの外に、手の行き場所はある。けれど、知らない。
「どう置くのが、いいんでしょうね」
 独り言みたいに、静が言う。
 少年は、静の左腕を持ち上げ、袖を肘まで捲った。血の気が引いて、皮膚の下の青い筋がはっきり見える。
「置くって」
「手です。……剣じゃないときの、手」
 少年は少し考えて、袖口の肘を支える手を、ほんのわずかに強くした。
「こうです」
「そう、ですか」
「支える手は、置く手です」
 言い切ったあと、少年は少しだけ笑った。自分の言葉の稚さに気づいている笑いだが、恥ずかしさより先に、信じようとする意思がある。
 井戸の水音が、風で引き延ばされる。縄が短く鳴って、桶の底が石に触れる音が、遠い。灯火は弱く、油はもう底に近いらしい。芯の先が黒くなり、たまに小さく爆ぜる。
「血を止めますね」
 少年は、裂いた布を重ね、帯状にして脇腹に巻きつけた。結び目を横に寄せ、また布を裂いて肩口にも当てる。手つきは手馴れている。生きていく方を、もう選んでいる手つきだ。
「……痛みますか」
「ええ」
 それは嘘ではない。痛い。だが、痛みは、自分の端を教えてくれる。斬るときに見失った輪郭が、痛みで戻ってくる。
「兄さんも、笑ってました」
 少年が言う。
「痛いとき、笑うんです。叱ったら、やめました。叱るのは好きじゃないけど、やめなければ死ぬと思ったから」
 静は、笑わなかった。笑いの形は、さっきの辻に置いてきた。ここに持ってくる必要はない。
「叱られました」
「え?」
「あなたに」
 少年は、瞬きを一度だけして、すぐ首を振った。
「叱ってません」
「そう、ですか」
 叱られたのは、自分自身からだ。柄にすがる手をほどいたのも、自分だ。
 ――まだ、生きてる。
 言葉の重みは、剣の重みとは違う。重心が、胸の中にある。脇腹を巻く布の摩擦が、その重心を、じわりとおさえてくれる。
「名前を、聞いてもいいですか」
 少年の指が、巻いた布の端を押さえながら、ためらいがちに動く。
 静は、井戸の縁から視線を動かさずに、少しだけ考える。考えるふりをし、考える時間を、わざと長くする。
 名は、沈む。沈むのは、名ばかりだ。
「……通りすがり、です」
「通りすがりさん」
 口に出すと稚い冗談になるのに、少年は笑わない。言葉はそのまま、静の傷の上に置かれた。軽い言葉が、重量を持って落ちてくることがある。
「ぼくは、今村秋一って言います」
 秋一。確かに、春一の弟だ。瞳に、似ている。似ているけれど、春一よりずっと若い。まだ、命の温度が素直に指先まで届く年齢だ。
 秋一は井戸縄を少し引いて、桶に新しい水を入れた。布をもう一度湿らせ、今度は静の手のひらをそっと拭う。
「手が、冷たいです」
「冷たい手は、これでも、よく働きます」
「働かせないでください」
 秋一は、目を伏せずに言った。その言い方を、静は少し羨んだ。伏せない目。斬る以外の理由で、目を開けていられる強さ。
 木戸の向こうで、風が通る。軋みは短く、前より乾いた。
 裏庭の隅に並んだ壺の影が、灯の揺れでいくつも重なる。重なった影の中に、静は、さっきの辻の輪を思い出す。円陣は形を保っていたが、中心がずれていた。ずれた中心は、優位を崩した。
 ここにも、中心がある。井戸の四角。その水面に置かれた月。二人の影が、そこに伸びて、揺れている。秋一の影は細く、静の影は、血の重さで僅かに歪んで見えた。
「兄は、あなたと近いところにいる、と言ってました」
 秋一は、静の指の間、爪の縁についた黒ずみを湿った布でそっと拭った。
「白い人。雪の中の人。近づかないほうがいい、とも言いました。近づかないほうがいいものに、ぼくはよく近づきます」
「よく、ない」
 静が言うと、秋一は、小さく肩をすくめた。
「よくなくても、目の前で血が出てたら、手は動くんです」
 その言い方は、軽くはない。自分に言い聞かせている硬さがある。
「ぼく、剣は持たないんです」
「いい、ことです」
「でも、持っていたらって、思うことはあります。兄さんが帰ってこない夜とか」
 静は、目を閉じた。瞼の裏で、灯火の爆ぜる白が、まだ瞬く。
「持たない人の手は、置ける」
 それは、さっき自分が問うたことへの、遅い答えになっていた。
「置く手は、支える手です」
 秋一は、自分で言った言葉を繰り返して、今度は少しだけ照れた。照れる余地があるのは、まだ若い証だ。若さは、痛みの端を丸くする。
「兄さんは、あなたのことを、好きじゃない、と言うと思います」
 唐突に聞こえる言葉が、井戸の水面で一度だけ揺れて、沈んだ。
「でも、嫌いじゃないとも言うと思う。そういう言い方をする人なんです、兄さんは」
 静は、目を開ける。秋一の顔が近い。灯の油が尽きかけて、彼の瞳に入る光の量が少ない。少ないぶん、黒が深くなる。
「あなたは、まだ、生きてる」
 秋一は三度、言った。
 そのたびに、斬る以外の理由が、胸の中の釘に触れて、形になりかけては崩れる。崩れても、粉は残る。粉は、血の上に薄く積もる。
 静は、柄の記憶に頼らずに、膝の上に手を置いた。置ける。置いた手の下で、布地のざらつきが、なぜか救いに近いものに思える。手は、斬らなくても、そこにいていい。
 裏庭の外で、犬が吠えた。遠い。吠え声が雪に吸われ、短くなる。
 秋一は、立ち上がり、井戸の縁にもう一枚、裂いた布を並べて、水気を絞った。
「ここに、少しのあいだ」
 静は頷く。頷きは、声よりも楽だ。
 体の中で、どの筋が自分の意思をまだ聞くのか、静は簡単に点検した。肩は固まり、背は強張り、脇腹の帯が呼吸に合わせてわずかに上下する。腿の深い痛みは、動けば増え、止まれば鈍くなる。どちらも、まだ、自分の側にある痛みだ。
「……助かります」
 言ってから、助かった、という言い方が、自分の口に馴染んでいないことに気づいた。助かる、助ける。どちらの言葉も、斬る世界の外にある。外の言葉を口にすると、舌の裏に、知らない形の骨が増える感じがする。
「兄さんは、もう来ない夜もあります」
 秋一は、井戸の丸石に手を置いた。
「来ない夜に、ぼくは井戸の水を見ます。水は逃げません。月が逃げても、水はここにあります。だから、待つ間は、ここに座ります」
 静は、井戸の黒を覗き込んだ。内側の壁が濡れていて、その湿り気は季節に左右されない湿り気だ。底は見えない。見えないからこそ、安心することがある。人は、底が見える暗闇より、底が見えない暗闇の方に、余計な想像を置かなくて済むことがある。
「あなたは、どこへ行くんですか」
 秋一の問いは、柔らかいが、逃げ場を与えない。
 静は、白壁の方向を見る。そこに戻れば、辻がある。辻はいつでも、誰かの中心をずらしてしまう。
「……風の、向く方へ」
「風は向きを変えます」
 秋一は、即座に返した。
「変わる方へ、行きます」
 答えながら、静は思った。斬る以外の理由は、たぶんそういうところに在る。固定された理由ではなく、変わること自体を抱えて歩くための、手の置き場。支える手が、いま、自分の肘を支えている。この支えを、持って行けるかどうかは、分からない。けれど、持って行きたいと思う気持ちは、ある。
 それは初めて、はっきり形になった「欲」だった。斬るための欲ではない。斬らずに済むための欲でも、ない。ただ、置くための欲。置かれた手の温度を、もう少し先に運んでいきたいという、ささやかな欲。
 灯火が、低く、小さく、最後に一度だけ、ふっと大きくなってから、消えた。
 裏庭の白が、すぐに夜の灰色に馴染む。月だけが変わらず、井戸の水に細い道を作っている。
「中へ入ってください。誰か来たら、ここは寒いから」
 秋一が木戸を示した。木戸の内側には、薄い布を垂らしただけの小間があり、踏み畳の上に古い座布団が二つ重ねられている。湯気の消えた茶碗が一つ、伏せられている。
 静は立ち上がる。立ち上がるたび、世界の高さが変わることに、いまだ慣れない。手近なものに触れずに立つのは、剣の稽古では褒められるが、いまは賢くない。井戸の縁に掌を置いてから、腰を離した。
「歩けますか」
「歩きます」
「歩けますか、と聞きました」
「歩けます」
 秋一は、うっすら笑って、静の右側に立った。
「支えます。置きますから」
「ええ」
 自分の分からなさを、誰かの言葉で埋めてもらうことに、静はまだ不器用だ。それでも、受け取ることはできる。受け取る手は、斬らない手でありたい。
 小間に入ると、木が冷たく、土間の匂いが濃い。壁際の棚には干した大根と、割れた茶碗がいくつか積まれている。小さな火鉢があり、炭はもう灰色だが、中心に赤が一つ、種火のように残っていた。秋一が小さな団扇でそっと煽ぐと、赤はゆっくり広がり、熱というよりは、存在の証を示す程度の温がこぼれた。
「手を、ここに」
 秋一は、火鉢の縁に静の手を導いた。
「あたたかい」
「熱くなる前に、言ってください。ぼく、よく加減を間違えます」
「大丈夫、何とかします」
 思わず口をついて出た言葉に、静は少し驚いた。誰かの口癖に似ている。口癖というのは、心の底を覆い隠すための布であり、同時に、その人の居場所を示す旗でもある。
 秋一は座布団の一つを静に差し出し、自分は畳に直接座った。
「眠ってください」
「眠ると、起きられないかもしれない」
「起きなくていい時間も、あります」
 それは、斬る世界の外にしか置けない言葉だ。静は、座布団に腰を下ろし、背を壁に預けた。壁の向こうに、夜の空気があり、さらにその向こうに、さっきの辻が続いている。辻の上には、まだ、笑いの形が置き去りになっている。それを取りに戻る必要は、ない。仮面は、誰の顔にも合うわけではない。
 秋一は、火鉢の灰の上に、小さな鉄瓶を置いた。どこからか少量の水を持ってきて、注ぐ。しばらくして、鉄瓶の口から、かすかな湯気が立ちのぼった。草の匂いがする茶を、ほんの少し、茶碗の底に行き渡るほどだけ淹れて、静の前に置いた。
「喉が痛むでしょう」
「痛みます」
 茶は熱くなく、冷たくなく、喉の痛みに触れない温度で、喉の手前を通っていく。
「ありがとう、秋一くん」
 名を呼ぶと、少年の目が一瞬だけ大きくなり、すぐに微笑みに戻る。名は、落とせば沈むが、口にすれば、浮きもする。そういう名もあるのだと知る。
「通りすがりさん」
「はい」
「あなたがここを通ったこと、ぼくは忘れません」
 それは誓いというより、習慣の宣言だった。秋一の一日は、覚えておくことで出来ているのかもしれない。井戸の水の冷たさ、兄の靴の泥、木戸の軋み。覚えておくことで、次の一日を同じように生き延びる。
 静は茶碗を両手で持ち、縁に唇を当てた。両手で持つ。置く手で、持つ。
「……ぼくに、できることは、ありますか」
 秋一の問いに、静は少しだけ考えるふりをするのをやめた。
「木戸の鍵を、明日の朝まで、外しておいてください」
 秋一は頷く。
「帰り道を、つくるんですね」
「風は、変わりますから」
「変わる前に、帰ってきてもいいです」
 秋一の言葉は、壁の向こうの夜にゆっくり吸われる。吸われても、残滓がある。残滓は、薄い光の粉のように、胸の中に留まる。
 しばらく、ふたりは何も話さなかった。話さない沈黙が、痛みを増やさない沈黙であることを、秋一は知っている。静も、覚えかけている。
 火鉢の赤は、少しだけ増え、また少し減った。外からは、風が木戸を揺らす音がときどき。遠い犬の吠え声。誰かがどこかに置いた桶が風で転がり、すぐに止まる短い音。
「通りすがりさん」
 秋一が、小声で呼んだ。
「はい」
「あなたが斬らないでいられる場所を、ぼくは作れない。でも、斬らない手を置いておける場所なら、少しは作れます。たぶん」
 静は、茶碗を畳に置いた。置くとき、音がしないように。
「それで、十分です」
 そう言って、自分で驚く。十分、という言葉を使った。足りないことと、満ちることの間にある細い橋の上に、自分が立っている。
 眠気は、痛みの縁からやってきた。痛みがわずかに鈍くなると、眠気はすぐそこにいたふりをして、肩越しに寄りかかる。
「眠っても、いいですか」
 秋一が先に言う。
「あなたが、です」
 静は笑わずに微笑んだ。笑いではない。
「眠ってください」
「はい」
 秋一は座布団のない畳に横になり、膝を抱えた。目を閉じる前に、木戸を指さす。鍵は外れている。
 静も、目を閉じた。瞼の裏に、井戸の月がしばらく残り、やがて薄くなる。薄くなる前に、胸の釘の周りで、斬る以外の理由が粉のように積もっていく気配があった。粉は軽く、風で飛ぶ。けれど、飛ぶ前に、いったん積もる。積もることが、いまは必要だ。
 眠りは浅い。浅い眠りの底で、辻の雪がもう一度降る。降る音がしないことを、夢の中で確認し、確認して、そこで目が覚める。
 微かな明るさ。夜明け前の灰色。火鉢の赤はもうない。代わりに、畳の冷たさが、指先から腕へと登ってくる。
 秋一は眠っている。呼吸は整って、肩が上下に揺れる。木戸の向こうの裏庭は、まだ白い。井戸の水面は、月を手放して、空の色を受け取りかけている。
 静はゆっくりと身体を起こし、帯の結び目をわずかに締め直した。結び目の位置は横、秋一がずらした通りに。呼吸が、少し楽だ。
 茶碗は空になっている。口の縁に残った茶の色が、乾いて薄い輪を作っている。輪は、辻の円陣とは違い、中心がずれていない。井戸の四角も、変わらない。
「……ありがとう」
 小さく言って、静は立ち上がった。
 秋一の肩に、手を置く。置くだけ。支えるためではない。ただ、置く。
 少年は小さく身じろぎし、目を開けずに「うん」と言った。眠りの中の返事は、起きているときより正確なことがある。
 静は木戸の前に立つ。鍵は外れている。蝶番の軋みは、夜より軽い音になるだろう。
 木戸を押す。ぎ、と短い音。裏庭の白が、灰色に変わり始めている。井戸縄の湿り気が、朝の匂いに変わる前の瞬間。
「帰り道は、いつでも作れます」
 背後で、秋一の寝言のような声がした。
 静は振り返らない。振り返らないかわりに、心のどこかで、声の落ちた場所に印をつける。帳面に小さく。あの夜の「ひとり」「ふたり」と同じやり方で、しかし別の列に。斬る列ではない、置く列に。
 白壁の影を伝って歩く。足跡の赤は、さっきより薄い。帯が効いているのと、雪が新しく被さっているからだ。
 世界はまだ、冷たい。風は変わる。変わる前と、変わったあとを結ぶ細い路地が、いま、目の前に延びている。
 斬ることの外側に、手を置く場所がある。そのことを、今夜、ひとりの少年が教えた。
 その場所は脆い。哀れでもある。危なっかしい。
 けれど、剣のない手で支えられるもののために、ひとつだけ、欲が生まれた。
 ――生きて、もう一度、木戸をくぐる。
 理由はそれで、足りる。足りない夜には、井戸の水がある。水は逃げない。
 静は、冬の朝へ出た。
 辻の笑いは置いてきた。仮面は、もう要らない。
 胸の釘はまだ抜けないが、その周りに積もった粉が、歩くたび、かすかに鳴る。鳴る音は、剣の音ではない。
 それは、斬ることの外にある、かすかな生活の音だった。