男が好きなわけじゃない……って、一体なんのことだ?
「えっと、ちょっと意味が分からないんだけど。お前は確か男が恋愛対象で、それで二葉を狙ってたんだよな?」
「すみません。それが嘘だったんです」
「えっ、じゃあ別にゲイとかじゃないけど、二葉のことが好きだったってこと?」
「違います。そもそも二葉のことを狙っていたわけじゃないんです」
「は?」
 思わずポカンとして俺の気が抜けた隙に、瑛二はぱっと前に飛び出すように前進すると、そのまま掴んでいた俺の手を引いて自らの胸の中に俺の体を引き寄せた。
「ちょっ、瑛二!」
「俺、最初から伊近さんのこと狙ってたんです」
「ええっ!?」
 ちょっとますますわけが分からない。男が好きなわけじゃないのなら、どうして俺なんかを狙ったりするというんだ?
 とても信じられるような話でなかったが、ぎゅうっと抱きしめられている瑛二の腕の強さが、顔を押し付けられている瑛二の胸の奥の心臓の鼓動が、彼の言葉を裏付けるかのように余裕を無くした彼の心情を表していた。
「……俺、二葉からずっと伊近さんの話を聞いていました。最初はちょっとした出来心だったんです。俺は自分の兄とあまり仲が良いとは言えなかったから、弟のことを溺愛している伊近さんに俺も愛されてみたいなって」
 瑛二はそう言いながら、さらに俺を抱きしめている腕にぎゅっと力を込めた。
「でも、俺はやっぱり弟じゃないから、伊近さんに求めるものが二葉とは違って。それから恋だって自覚しました。男とか女とか関係なく、俺は伊近さんのことを大切にしたいんだって」
 そこで瑛二は俺を抱いている腕を微かに震わせた。
「大切な人に嘘をつくだなんて、相手を侮辱する最低な行為です。俺、どうしても伊近さんに知られたくなくて、あの先輩に俺はゲイじゃないんですって伝えるために場所を変えました。俺のその行為が伊近さんを傷つけてしまうだなんて思ってもみなかったんです。ちょうど二葉の身代わりになれた直前のことだったので、なおさら失望されたくなくて」
 俺はぐいっと瑛二の胸を押してから顔を上げた。俺より少し目線の高い瑛二は、今にも泣き出しそうな表情で俺からフイッと視線を逸らした。
「二葉の身代わりってどういうことだよ?」
 問い詰めるような口調の俺に驚いたのか、瑛二は微かに目を見開いて俺のことを見返してきた。
「えっと……二葉に彼女ができて、弁当を作る必要も一緒に登下校する必要もなくなって、愛情を注ぐ対象がいなくなったから俺がその代わりに……」
 俺は瑛二の言葉を全部聞く前に、形の良い彼の後頭部を右手で掴んでぐいっと顔を近づけた。前回瑛二が熱を出してお見舞いに行った時は、こいつにねだられて勢いに任せてキスをした。今回も勢い任せなのに変わりはなかったが、このキスは俺が自らの意思で行ったという点において天と地ほどの差があった。唇を離して睨むように瑛二の顔を覗き込むと、馬鹿みたいにポカンとした表情の瑛二と再び目が合った。
「……二葉の身代わりって、弟みたいに思ってるやつとこんなことするとでも思ってんのか?」
「……伊近さんならやりかねませんね」
「ばか。ぜってーしねーよ」
 瑛二の目の中にゆらりと炎のようなものが閃いた。「そっか……」と小さなつぶやきが聞こえたと思った瞬間、今度は瑛二が俺の背中と後頭部に腕を回してぎゅっと顔を近づけてきた。
(あ……)
 子供みたいな触れるだけの俺のキスとは違う。俺のことが好きだってダイレクトに伝わってくるような、恋人にしか触れることのできない場所に触れる、深くて真剣なキス。
「……っは」
 真剣な瑛二に絡め取られて息ができない。なんとか瑛二の肩を押して拘束から逃れると、息継ぎするように深く息を吸った。
「はぁ……お前、自分の兄貴とこんなことするってのか?」
「考えただけでゾッとしますね」
「な? これで分かっただろ?」
「でも伊近さんと二葉は血が繋がってませんけど」
「じゃあお前、実は兄貴と血が繋がってませんでしたって言われたら、前言撤回するのかよ?」
「兄とは例え血が繋がってなくてもごめんですね。ていうか伊近さんと以外は全員ごめんです」
「だろ? 血が繋がってるかどうかなんて結局関係ないんだよ。血が繋がってなくても二葉は大事な俺の弟だし、どんなに愛していても弟とは絶対こんなことしたりしない」
「本当に、海のように深い愛情をお持ちですね」
 茶化すようにそう言った瑛二はいつものイタズラっぽい表情に戻っていて、俺はようやくずっと張り詰めていた心がふっと緩むのを感じた。
 瑛二は俺の真正面から右横に移動すると、左腕を伸ばして俺の右手をそっと繋いだ。
「……そういえば、あの自転車って確かお前ん家にあったロードバイクだよな?」
 手を繋いだまま海辺を並んで歩きながらそう聞くと、瑛二は照れ臭そうに小さく笑った。
「よく覚えてますね」
「確か兄貴に借りづらいって言ってたと思うんだけど」
「速水のやつに伊近さんを取られるんじゃないかって焦ってたんで、兄さんに気を遣ってる余裕なんかなかったんですよ。でもそうですね、おかげで久しぶりに兄さんと話せました。俺が思っているより、実は兄さんも俺のこと気にかけてくれてたみたいです」
「そうか」
 憑き物が落ちたようにスッキリとした表情で兄の話をする瑛二を見て、俺もなんだか嬉しくなって繋いでいる手を大きくブンブンと振り回した。
「これで俺も晴れて自由に自転車を使えるようになったんで、夢の青春二人乗りができますね。なんてったって伊近さんのママチャリとは違って後ろにチャイルドシートなんか付いてませんからね!」
「いや、お前の自転車ロードバイクだろ? 荷台付いてないのにどうやって二人乗りするんだよ?」
「あ、そうか。荷台が必要なんでしたっけ」
「結局俺のママチャリと同レベルじゃねえか。むしろ電動な分こっちのが上じゃね?」
「なんてこと言うんですか! どう考えても見た目こっちの方が全然カッコいいでしょうが!」
 空は相変わらずの曇天だったが、遥か彼方の海上ではいつの間にか雲の間に隙間ができていて、いく本もの天使の梯子が海に向かってきらめきながらさあっと差し込んでいるのが見えた。
「そういえば、外で二人でデートするのってこれが初めてですね」
「本当にそういえばだな」
「気軽に行ける場所にビーチがあるわけでもないのに、初デートが浜辺ってなかなか力入ってる感じがしますね」
 瑛二は不意に足を止めると、その場でくるりと体の向きを変えて、再び真剣な表情で俺と向かい合った。
「今度こそちゃんと言いますよ、伊近さん。二葉の身代わりなんかじゃなくて、俺の『本命』彼氏になってくれませんか?」
 俺も真剣な表情で瑛二を見返すと、こくりと頷いてから小さな声で呟いた。
「お前も自分のこと『二葉の身代わり』だとか言わないで、正真正銘の本命彼氏になるなら……」
「当然ですよ! 俺は最初からそれを望んでたんですから!」
 今度こそ、瑛二はこの世の全ての悩み事が払拭されたような底抜けに明るい表情でニカッと笑った。彼の背後の海上では雲の隙間が広がって、綺麗な青空が顔を覗かせるまでになっていた。
 もうすぐ夏休みが始まる。恋人のいる夏休みとは一体どんなものなのだろうか。きっとこの厚い雲の上に広がる青空のように清々しく、青春という時代に相応しい甘酸っぱい日々が待ち受けているのだろう。今まで一度も恋人のいなかった俺にも容易に想像がつく。目の前で太陽のように笑う俺の真摯で誠実な恋人を見れば、この先の日々がどれほど幸せな色に彩られていくのか、容易に想像することができるのだった。
「あっ、そういえば伊近さん、いい感じの雰囲気になってなあなあにしようとしてるかもしれませんけど、俺ちゃんと覚えてますからね! 他の男と二人で海に行くとか、完全に真っ黒な浮気行為ですよ!」
「いや、別にやましい気持ちがあったわけじゃないんだけど」
「相手にはその気があったかもしれないじゃないですか!」
「いや、ないだろ」
「とにかく! 恋人以外の人間と二人きりでどこかに行くなんてもっての外! 彼氏力マイナス百点以上ですよ! 罰としてえっちなお仕置き決定です!」
 鼻息も荒く真面目な表情でそんな突拍子もないことを言う瑛二に、俺は思わずぶっと吹き出していた。
「いや、もうそれ罰則になってねえから」

終わり