小学一年生の時、当時六年生だった兄とものすごい喧嘩をした。原因は俺が借りていた兄のおもちゃを壊してしまったこと。銀色にピカピカと光るミニチュアのバイクのようなおもちゃだった。もちろん兄の大切にしていた物を壊してしまった俺が悪い。だけど、それから何となく気まずくなって、以前ほど仲良く遊べなくなってしまった兄の背中を見つめながら、子供心に思う所があった。俺はこの替えのきくはずのおもちゃよりも、兄にとっては価値の無い存在だったのかと。
「ねえ、初嵐君はどうして俺のお尻を触らないの?」
「え……触るのに何の意味があるんだ?」
 こんな謎の会話をした日から、俺は可愛らしい小動物男子のクラスメイトの青柳二葉になぜか懐かれることとなった。
「それに俺は男女関係なく、そういうプライベートゾーンに触れていいのは付き合っているか結婚している相手だけだと思ってるんだ」
「初嵐君って誠実で古風だね。なんかちょっとうちの兄さんに似てる気がする」
「お兄さん?」
 兄、というワードにピクリと反応した俺には気が付かず、二葉は嬉しそうに同じ高校に通っているのだという一つ上の兄の自慢話を始めた。
「兄さんも初嵐君と同じように真面目で優しくて、強くてかっこいいんだよ! 俺たち家族のことをとても大事にしてくれて、俺もいつか兄さんみたいに家族を守れるような存在になりたいと思ってるんだ」
「へえ、兄弟仲いいんだな」
「うん! ものすごく愛されてるって自覚あるよ!」
(愛されている自覚、か……)
 その言葉に、俺はひどく興味を引かれた。同じように血のつながった兄のいる弟という立場にありながら、自分は愛されているのだと心から笑える二葉と、全くそんなふうには思うことのできない俺。
「……そんなに素敵なお兄さんなら、俺も一度会ってみたいな。今度遊びに行ってもいい?」
「もちろんだよ! 初嵐君は俺の初めての男友達だから、兄さんもきっと喜んでくれるはずだよ」
 二葉が可愛らしいチワワのような男子高校生だったので、てっきりお兄さんも似たようなチワワだとばかり思っていたのに、思った以上にガタイのいい男に初対面にも関わらずガンつけられて、俺は内心非常に驚いていた。
(これは間違いなく二葉と同じ系統ではないな。ドーベルマンってのが一番しっくりくるだろうか)
「お兄さん、二葉と顔全然似てないんですね」
「そりゃそうだろ。血ぃ繋がって無いんだから」
「えっ?」
 まさかの血統まで違うときた。
(二葉の家、何か複雑な事情のある家庭だったのか。妹もめっちゃ歳離れてるって言ってたしな。でもそうか、二葉とお兄さん、血が繋がってないのか……)
 自分は兄とよく似ていると言われるし、両親からややこしい話も聞いたことがないから、間違いなく兄と血は繋がっているはずだ。
(二葉のやつ、血縁関係のない兄からそんなに愛されているのか)
 ふと、自分も愛されてみたいと唐突に思った。血の繋がりのない相手をこんなにも愛することができるという、目の前の目つきの悪いこの男に。
「……実は俺、男が好きなんです」
 それで思わず嘘をついた。自分は十六年間の今までの人生で一度たりとも男を好きになったことなどなかったのだが、その嘘はごく自然に俺の口からスラスラと流れ出てきた。
 どうしても、この男の人に愛されてみたかったから。
「お兄さんが俺と付き合ってくれるなら、二葉とは今まで通りの友人関係を続けます」
 卑怯な手だとは分かっていたけれど、二葉の言う通りこの人が本当に弟のことを溺愛しているなら、この俺の提案に乗ってくるはずだと俺には確信があった。
「分かった! 交渉成立だ。お前のその申し出、受けて立ってやるよ!」
 やっぱり乗ってきた。男が好きってわけでもないだろうに、初対面の男のある意味告白? を受け入れられるなんて、本当に二葉のこと、大事に思ってるんだな。
「……お兄さんと色々話したけど、二葉がいつも話してる通りの人だね」
「でしょでしょ! 分かってくれた? 兄さんはとっても優しくてかっこいいんだよ!」
 ふと、意地の悪くて黒いモヤッとした感情が湧いた。
(悪いな二葉。この人はもうお前だけのお兄さんじゃないんだ。今まで全てお前らに注がれていたこの人の愛情は、これからは俺にも分けてもらわなきゃならない)
 二葉に見せつけるように彼の兄の肩をぎゅっと抱き寄せて、恋人のような距離感でツーショット写真を撮った。
(いや、俺はもうこの人の恋人なんだから、むしろ弟妹たちより多くの愛情を注いでもらって然るべきなんじゃないか?)
「本当に二葉のことが好きなんですね。血の繋がった兄弟でもないのに、どうしてそこまで体を張れるんですか?」
 挑発するような俺の質問に、彼は俺を真っ直ぐに睨みつけながらこう言い放った。
「俺は長男だぞ。俺より後から生まれたか弱い弟や妹がピンチに陥ってたら、体を張ってでも守ってやるのが先に生まれた男の役割ってもんじゃないのか?」
 このセリフを聞いて、俺は自らの器の小ささを実感すると同時に、二葉とその妹という壁の厚さを思い知ることとなった。それは俺たちが付き合い始めてからこの人が作ってくれた弁当の内容にも、如実に表れていた。
(これは……美味しいし心が込もっているけど、どれも二葉の好物だな)
 黒いモヤモヤが再び俺の胸の中に立ち込める。
(俺は確かに弟妹を大切にするこの人に惹かれたけど、でもやっぱりこの人の世界の中心は俺であって欲しい)
 だって恋人なんだから。ん? そういえば恋人って何だっけ?
 味が美味しければ普段は見た目なんかそこまで気にしないのに、重箱の隅をつつくように卵焼きにケチをつけている時、ふと疑問が湧いた。
(こんなに二葉のことを溺愛しているこの人にとって、恋人と弟の違いって……?)
 そしてその答えは、俺に詰め寄られてベンチの隅に後退りしているこの人を見た瞬間にパチッとひらめいた。
(えっちなことだ!)
 これだけは弟とは絶対にしない。他の誰ともしない。恋人であるこの俺を除いては。
「……俺、今まで誰かと付き合ったことなんてないし」
 しかも今までも誰ともしたことがないらしい。最高だ。バンザイ!
(……とはいえ俺も初めてだから、どうしたらいいのかよく分からないな。なんかこう、自然な感じで……)
 彼氏力で赤点を取ったらえっちなお仕置き、という案は我ながらよく考えたなと思った。これなら点数をこちらで加減できるから、俺自身が心の準備を整える猶予ができる。
(それになんか、恋人とのギリギリの駆け引きがドキドキして刺激になる気がするし)
 とはいえ、やはりこの人が愛してやまない弟妹の壁は俺の前に大きくそそり立ち、俺の情緒は空高く舞い上がったかと思えば次の瞬間には深海に突き落とされたりと、上下に振り回されてなかなか安定しなかった。
 俺の心境に変化が起こったのは、彼の妹が熱を出した日、お家デートと称して彼らの家に押しかけた日のことだった。
「悪い! 外で三和受け取ってくれないか? タオルは右の棚に入ってるから」
「あ、はい!」
 慌てて指示された通りに棚からタオルを取って浴室を覗いた瞬間、もわっと熱い熱気と共に濡れた髪の彼氏とバチリと目が合った。
(あ……)
 真っ先に頭に浮かんだのは、「水も滴るいい男」という言葉だった。普段は額にかかっている前髪を後ろにかき上げ、その他の毛先からポタポタと垂れた滴が肩に落ちて弾けて、さらにその下の胸へと流れている。その下の腹筋まで視線を下げた後、それ以上は見ていることができなくて、俺は思わず彼からフイッと視線を逸らした。
「何、暑いの?」
「いや、だって……腹筋綺麗だなって思って」
 今まで俺は、二葉や彼の妹に対抗することばかりに頭がいって、どうやら彼本人の魅力についてきちんと考えていなかったようだ。
(いや……全然アリなんだけど)
 ふざけてえっちなお仕置きがどうのと言っていたが、正直本気でそこまで深く考えていたわけではなかった。ただ二葉に圧倒的に勝つ方法がこれしかなかったから、二葉より自分の方が親密な関係であると分かってもらうためにそう言っていたに過ぎなかったのだ。
(あ、やばい、どうしよう。なんか急に緊張してきた……)
 しかし結局その後、さらにもう一度赤ちゃんが吐いたりアレルギーの症状が出たりとバタバタしたため、緊張したまま過ごす事態はなんとか避けられた。自分が新しい扉を開いてしまったようだということよりも、ブツブツと顔を腫らした赤ちゃんが心配だったし、そのせいでパニックになりかけている恋人のことが心配だった。
 珍しく頼りなさげに震えている肩を抱き寄せた時、一つの答えが俺の胸の中にすとんと落ちた。
(あ、これだ。俺が欲しかったのって)
 守りたいと思った。俺の腕の中で震えるこの愛しい存在を。兄に愛されている自覚があるという二葉の話を聞いた時、自分も同じように愛されてみたいと思った。ただ、羨ましいと思ったのは二葉ではなかった。俺がその時羨ましいと思ったのは、体を張ってまで守りたいと思えるほど愛する対象を持っているという、二葉の兄の方だったのだ。
 いつもドーベルマンのように鋭い目つきで周囲を威嚇しながら、大事な人たちをその背に庇って堂々と仁王立ちしているこの人が、小さく丸くなってこの俺に体を預けている。まるで誰にも懐かなかった番犬が俺にだけ心を許しているみたいだ。
(ギャップ萌えって、こういうことを言うのかな)
 ホッとしたような表情を見て、俺がこの人を安心させられたのだという事実に湧き立つような喜びを感じた。こんな気持ちになったのは生まれて初めてのことだった。きっとこれを恋と言うのだろう。
 その日を境に、俺たちの距離は確実にぐっと近づいていた。それこそ彼が、風邪をひいて学校を休んだ俺をわざわざ見舞いに来てくれるほどに。キスをねだったらなんと口にしてくれたのには驚いた。
(伊近さん、俺とこんな風に触れ合うの、嫌じゃないのか……?)
 俺の情緒がグングンと空高く登り切っていたそんな頃に、二葉に彼女ができた。
(マジかよ! よりにもよってこのタイミングか?)
 シュルシュルシュル~ッと風船の空気が抜けたように、俺の情緒が降下してくる。
(二葉に彼女ができたら、俺が二葉に告白するのを阻止するために、伊近さんが俺と付き合う必要がなくなっちまうじゃないか!)
 だから、「別れるだなんて言わないで」と言われた時は、萎みかけていた分情緒の打ち上がり方は半端なかった。ブラスト、オフ。まさに火がついて勢いよくロケットが打ち上げられた状態だ。
(よっしゃああああああああ!)
 これは嬉しい誤算だった。二葉に彼女ができて、今までのように愛情を注ぐことができなくなったため、それは自然と俺の方へと流れてくることになったのだ。真っ黄色に染まったお弁当のラインナップが雄弁にそれを物語っていた。
(二葉の身代わりだろうとかまうものか。ずっと俺の行手を阻んでいた最も強大な壁を突破できたんだ。これは歴史に残る大いなる一歩だぞ!)
 そして、二葉の身代わりポジションに収まれたおかげで、恐れていた別れ話も切り出されずに済んだのだ。
(ありがとう二葉! ありがとう林さん! 俺は伊近さんが愛してやまない二葉が今まで居座っていたポジションを手に入れた。ここからいよいよ本格的な恋人ポジションへと……)
「……僕、前から初嵐君のことずっと気になってて。かっこいいなって……」
 情緒が大気圏を突破しそうだったタイミングで、俺はなぜか彼氏のクラスメイトである中性的な感じの先輩に告られていた。
(えっ、何で? 俺男なんだけど。この先輩確かに女性っぽいけど、どう見ても男性だよな? あっ、もしかしてゲイの人なのかな?)
「えっと……」
 ごめんなさい、俺の恋愛対象は男性ではないんです。そう言って断ろうとした時、相手の先輩がベンチで待っているはずの俺の恋人の名前を呼んだ。
(げっ!)
 ギクッとして背中に冷たい汗が流れた。
(あっぶね! 俺が本当は男が好きなわけじゃないって、伊近さんに聞かれるところだった!)
 一番最初に会った時に、実は自分が真っ赤な嘘をついていたと知ったら、彼は一体どう思うだろう?
(好きな人に嘘をつくだなんて、不実で最低な行為だ。一度信頼を失えば、恋人との関係は簡単に破綻しかねないぞ)
 慌てて中性的な先輩の腕を引っ張って場所を変えると、俺は丁寧な謝罪と共に彼の告白を受けることはできないと断りを入れた。
「そっか……そうだよね。初嵐君、青柳とすごく距離感近い気がして、もしかしてそっちの人なんじゃないかって僕勘違いしちゃってさ。気持ち悪いこと言ってごめんね」
「いえ、そんな気持ち悪いだなんて思っていません! ただ俺は、女の子と同じようには先輩のことを見ることはできないって、それだけの話なんです」
 ただ、伊近さんが特別。それだけの話なんです。
 恋人の前で自分のついていた嘘を暴露する事態は免れたものの、元の場所に戻った俺が見たのは、誰もいなくなったベンチの上にポツンと取り残された黒くて四角い弁当箱であった。
(あれ、伊近さんは……?)
 しばらく弁当箱の隣に座って待ってみたが、彼が戻ってくる気配は一向にない。
(どうしたんだろう? さっき俺が先輩に告白されてるの見て、気分を悪くして教室に帰っちゃったのかな?)
 私物を忘れて行ってしまうほど、怒り心頭だったということなのだろうか?
(まあ、俺は二葉の身代わりみたいなもんだからな。自分が大事に愛情を注いでいる対象を取られそうになったら、いい気がしなくて当然だ)
 でも、そんな風に俺のことを思ってくれているのだと考えると、正直悪い気はしなかった。いやむしろ嬉しかった。
(嫉妬、とまではいかないかもしれないけど、俺のこと他人に取られたくないって思ってくれたってことだよな)
 さっきは俺に「別れるだなんて言わないで」なんて柄にもなく可愛いことを言ってくれたし。最初は弟のために仕方なく付き合っていたはずが、いつの間にか彼自身の希望で俺と付き合ってくれるようになったみたいだ。
 しかし休憩時間もそろそろ終わりに近づいてきたというのに、彼は戻ってこないどころか電話も繋がらない上、メッセージアプリに既読すら付かなかった。
(これは、すっかりへそを曲げてしまったか……)
 俺は弁当箱を保冷バッグに入れると、それを指に引っ掛けて二年生の教室を覗きに行った。
(……あれ、教室にはいないみたいだな)
「あれ、初嵐君じゃん」
「あ、先輩……」
(しまった。あの中性的な先輩って伊近さんのクラスメイトだったんだっけ。すっかり忘れてた)
 さっきバッサリ振ったばかりの人とすぐに顔を合わせるのはさすがに気まずかったが、相手は何事もなかったかのように微笑みながら、教室の外から覗く俺の様子を見に来てくれた。
「あ、その保冷バッグ青柳のやつだね。わざわざ持ってきてくれたんだ」
「あ、はい……」
「でも青柳まだ戻ってきてないんだ。もうすぐ授業始まるのに、珍しいこともあるもんだね」
(伊近さん……?)
 念の為、空き教室や校舎裏、果ては全ての階のトイレの個室まで全て覗いて探してみたが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
 不審に思いながら一人廊下を歩いていると、コソコソと学校を抜け出す男女のカップルの姿が窓の外に見えた。
(お、青春やってるやってる。これから二人乗りで公園にでも……ん?)
 自転車置き場のいつもの彼の定位置に、電動ママチャリの姿が見当たらない。
(あれ、おかしいな。見落としたか? いやいや、あんな存在感のある自転車、見ないようにしようとしたって絶対目に入ってくるだろ!)
 まさか、体調不良で早退したとか?
 慌てて一年生の自分の教室に戻ると、彼女と一緒に移動教室の準備をしていた二葉が俺に気が付いてホッとしたように表情を緩めた。
「良かったぁ。初嵐君まで授業サボるのかと思ってヒヤヒヤしちゃった。理科の佐藤先生うるさいからさ。俺が二人と仲良いの知ってるから絶対なんか言われるって……」
「二人?」
「うん、速水君が授業サボるって、さっきメッセージが来ててさ」
 俺はスマホを取り出してメッセージアプリを素早く確認した。
「……俺には連絡来てないけど」
「ああ、なんか兄さんが一緒みたいでさ。それで俺には連絡くれたみたい……」
「はぁ!?」
 俺が大声を上げたため、二葉と彼女の林が驚いてビクッと体を硬直させた。
「え……初嵐君?」
「速水のやつ、伊近さんと一緒にどこ行ったんだって?」
 荒々しい口調の俺に、二葉は反射的に林を庇うようにさっと前に出た。
「どうしたの、初嵐君? なんで怒ってるの?」
「いいから答えろって!」
 しかし二葉は丸くて可愛らしい目尻をきっと吊り上げて、俺に立ち向かうようにもう一歩前に出て来た。
「そんな言い方ってないんじゃない? 林さんだって怯えてるし、兄さんとなんかあったの? そんなに怒ってる初嵐君に、理由も聞かずに兄さんの居場所を教えるわけにはいかないんだけど」
 人は、守るものがあると強くなれるものらしい。出会った頃の彼とは別人のように堂々とそう言い放った二葉に、俺はまるでカウンターを食らったみたいに驚いて一瞬言葉が何も出てこなくなってしまった。その一瞬の間が、かっと血が上って沸騰していた俺の頭を冷やすのに十分な役割を果たしてくれた。
「……ごめん、俺が悪かった。伊近さんと連絡取れなくて、ちょっと焦ってて」
「今日も一緒にお昼食べてたんじゃなかったの?」
「うん、そうなんだけど、ちょっと俺が別の先輩に呼び出されてる間にいなくなっちゃって。弁当箱も置きっぱなしで……」
 二葉は俺のことをいつになく厳しい瞳でじっと凝視してから、おもむろに口を開いた。
「……兄さん、現実逃避したくなったって言ってたんだって」
「え……」
「それで速水君が海を見せてあげるからって、自転車で海に向かったって」
 海? ここから自転車で行けるような海辺は一ヶ所だけだが、それにしたってかなりの距離があるはずだ。
「バスはほとんど本数がないらしいよ。どうする? 俺の自転車使う?」
 一瞬そうしようかと悩みかけたが、すぐに俺は頭をブンブンと振って二葉の申し出を断った。これは俺の問題だ。二葉に迷惑をかけるわけにはいかない。
「いや、大丈夫だ」
 決意を込めてそう言うと、俺は保冷バッグを二葉に向かって差し出した。
「教えてくれてありがとう。この弁当箱だけ頼むわ」
 二葉は差し出された保冷バッグを受け取ると、いつもの可愛らしい表情に戻ってにっこりと笑った。
「うん、初嵐君はいいやつだってちゃんと分かってるから。なんせ俺が選んだ男友達だからね」



 学校のすぐ側にある家まで走って帰った時、ちょうど同じタイミングで帰って来ていた兄とばったり出くわした。
(うおっと!)
「瑛二?」
 兄も驚いた様子で、メガネの奥から険しい表情で俺のことを凝視している。
「学校はどうした?」
「に、兄さんこそ」
「俺は今日は午前だけなんだ」
 どうやら大学の授業というのは、高校とは違って毎日きっちり五、六限までコマ数が詰まっているものではないらしい。
「ちょっと用事があって……」
「用事?」
 俺は小さく深呼吸をすると、相変わらず険しい表情のままの兄と真正面から対峙した。本当は黙って使うつもりだったのだが、こうなったからには一言声をかけないわけにはいかないだろう。
「兄さん、その……ってもいい?」
「は?」
「自転車、使ってもいい?」
 言った! 小一からの約十年間、俺は兄に一度も物を借りたことがなかった。貸して欲しいと言うことができなかったからだ。五つ離れた兄との壮絶な喧嘩は、幼い俺の心にトラウマに似た爪痕をくっきりと残し、そこから関係に亀裂の入った兄との関わりを極力俺は避けるようにして生きてきたのだ。
 しかし、今はそんなことを言っていられる場合ではなかった。一刻も早く俺の恋人の後を追わなければ、こっちが取り返しのつかない事態になりかねないのだ。
(もしダメだって言われたらタクシーを使うしかないな。バイトとかしてないから、使わずに貯めてたお年玉を崩すしか……)
「……使えよ」
「えっ?」
 俺が思わず素っ頓狂な声を上げたため、兄はますます眉根にシワを寄せて表情を曇らせた。
「別に俺の物ってわけじゃないんだから、勝手に使えばいいだろ?」
「あ……うん、ありがとう!」
 そりゃあそうだ。そもそも兄弟二人で使うようにと親が買ってくれた自転車なのだから。でも、兄は休日バイト先へ向かうのに自転車を使っていて、俺は全然使う機会がなくて、ほとんど兄の私物みたいになっていたから、いつの間にか俺は勝手には使えない物なんだとばかり思っていた。
「ちょっと待てよ」
 俺が急いで自転車に跨って発進させようとした時、兄が少し焦った様子で俺の側まで近づいてきた。
「サドルをもっと上げないと。お前は俺より背が高いんだから」
「え、こんなに前傾姿勢になるの?」
「ロードバイクだからな。普通のママチャリなんかよりずっとスピード出るから気を付けろよ」
「子供乗せ電動ママチャリより速い?」
「子供乗せの電動? それはそもそも目的が全然違うから。子供乗せママチャリはタイヤが小さいだろ? こっちの方が断然速いに決まってる。急な坂道だったらスタミナ的な意味合いで向こうの方が有利かもしれないけど……」
 ぽすん、と頭に何か被せられて、俺はとっさにぎゅっと目をつぶった。頭を締め付けるように保護する感覚から、すぐにそれがヘルメットであることが分かった。
「え、兄さん?」
「事故った時に生死を分けるから、ヘルメットは被っていけ」
「これってでも、兄さんが買ったやつなんじゃ……」
「来年から自転車の交通ルールが厳しくなるからな。ノーヘルはそのうち罰金の対象になるかもしれない。お前も今のうちから慣らしておくんだ」
 兄はアゴ紐の長さまできちんと俺のサイズに合わせてから、満足げな表情で家の中へと入っていってしまった。バタン、と玄関の扉が閉まる音にはっと我に返った俺は、急いでぐんっとペダルを踏み込んで自転車を前進させた。
 思えば、兄とこんなにも長い会話をしたのは随分と久しぶりのことだった。俺が兄との関係に悩んでいたように、兄もまた俺との距離感を測りかねていたのかもしれない。
 人は、守りたいものがあるといくらでも前に進めるものらしい。膠着していた兄との関係を数年ぶりに前進させた俺は、力強くペダルを踏む力を車輪に乗せて、守るべき恋人の後を追って風のようにロードバイクを走らせていった。